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第203話 また会ったねと、初めましてねと(前編)

 暗転していたメインステージに、スポットライトが一本落ちた。


 円い光の中には何もない。ステージ中央のぽっかり空いた穴だけが照らされている。

 5万人が息を詰めて見つめる中——床がゆっくりと、せり上がり始めた。


 最初に見えたのは、長い金髪だった。


 それから、ドレスの背中。細い腰。脚のライン。

 せり上がりが進むにつれて、全身が現れていく。

 観客に背を向けたまま、顔は見せない。ただそこに立っている。微動だにしない。


 左右の巨大モニターが、その後ろ姿をいっぺんにドーンと映し出した。

 金髪。白いドレス。後ろ向きのシルエット。


 周囲が、爆発した。


「ひかりちゃーーーん!!」

「ひかりーーーー!!!!」

「ひかりちゃん来たー!!!」


 SNSに流れていた映像であのドレス姿を見ていた人たちが一斉に叫んでいる。後ろ姿だけで、わかる。金髪の揺れ方だけで、わかる。


 5万人の興奮が、秒ごとに膨れ上がっていく。


 せり上がりが止まった。


 人影がゆっくりと、真横に右手を伸ばす。

 そして、またゆっくりと、その右手を上げた。


 次の瞬間——



 ステージの横幅いっぱいに、花火が縦に炸裂した。


 左端から右端まで。炎の壁が一直線にそびえ立つ。

 轟音。熱風。一瞬でステージの全てが炎と煙の向こうに消えた。


 衝撃が空気を伝わって、アリーナの客席まで届いた。肌がびりびりする。

 悲鳴まじりの歓声が、スタジアムを揺らした。


 煙が晴れていく。


 ステージにも、モニターの中にも——誰もいなかった。


「え?」

「消えた?」

「嘘、どこ?」


 5万人が、一斉にメインステージを見つめている。

 誰もいない。さっきまで人がいた場所に、煙の残り香だけが漂っている。


 5万人がざわめいている。



 そのとき、目の前を金髪が通った。


 ——え?


 長い金髪。でも白いドレスじゃない。黒いケープのようなものを全身にぐるりと巻いていて、中が何も見えない。フードは被っていないけれど、暗い花道の上では黒い布にまぎれて、遠くからはほとんど目立たない。


 その人影が、何でもないみたいに歩いている。堂々と。でも静かに。花道の先端に置かれたグランドピアノに向かって、まっすぐに。


 ——あれ、もしかして。


 あたしが目を凝らした瞬間、隣のブロックの数人がざわっとした。


「え、あれって——」

「うそ、まって」


 声が上がりかけた——その瞬間、金髪の人影がちらりとそちらを見て、


 唇に、人差し指を当てた。


 しーっ。


 いたずらっぽい、やわらかい笑み。


 ざわついていた数人が、一瞬で固まった。


 それから——こくこくこくっと、全員が一斉に頷いた。必死に口を押さえて、目だけがキラキラしている。ファンサをもらった喜びと、秘密を共有した興奮で、顔が真っ赤だった。


 あたしも思わず口元を押さえていた。


 金髪の人影は何事もなかったように歩き続けて、グランドピアノの前に辿り着いた。

 黒いケープのまま、静かに椅子に座る。


 5万人はまだメインステージを見つめている。誰もいないステージに、まだざわめいている。


 ——こっちだよ。


 あたしだけが知っている。さっき「しーっ」をもらった人たちだけが知っている。



 白いスポットライトが、一本だけ灯った。


 花道の先端。グランドピアノ。


 光の中で、その人が立ち上がった。


 黒いケープの留め具に手をかけて——一息に、脱ぎ去った。


 黒い布が椅子の後ろにふわりと落ちる。


 その下から現れたのは、白。


 純白のドレス。スポットライトを受けて、眩しいくらいに輝いている。長い金髪が光の中で揺れて、白と金だけの世界が、そこに生まれた。


 ピアノの近くにいた人たちがざわっとした。


「え、あれ——」

「ドレス……!?」

「金髪……まさか——」


 声が広がりかける。でも、5万人のほとんどはまだメインステージを見つめたままだ。花道の先端の小さなスポットライトに気づいていない。


 光くんは静かに椅子に座った。


 指が鍵盤の上に置かれて——最初の一音が、鳴った。


 音が、メインステージからじゃない。横から来ている。


 5万人が、一斉に振り返った。


「え!? ピアノ!?」

「どこ!?」

「花道!? 花道にいる!!」


 ざわめきが波のように広がっていく。近い席から順に悲鳴が上がって、遠くのスタンド席まで駆け抜けていく。


 そして——左右の巨大モニターが、その姿を映し出した。


 花道の先端。スポットライトの中で、ピアノを弾くドレス姿。長い金髪。白い指。


 まるで、瞬間移動だった。


 さっきまでメインステージにいた人が、煙と炎の向こうに消えて——次の瞬間、花道の先端でピアノを弾いている。


 スタジアムが、爆発した。


「光くん!?」「女装!?」「綺麗……!」「女神……!?」

「瞬間移動!?」「嘘でしょ!?」


 スタンド席からも悲鳴が上がった。遠くて直接は見えなかった人たちが、モニターで初めてその姿を目にしている。


 近い。

 近すぎる。


 あたしの席から、たぶん10メートルも無い。

 ドレスの裾の揺れが見える。鍵盤を押す指の関節が見える。横顔の、睫毛の影が見える。


 ——光くん?


 息ができなかった。


 女神みたいだった。いや——女神だった。

 ドレスの白が、スポットライトに透けて輝いている。長い髪が、ピアノを弾くたびにかすかに揺れる。横顔の輪郭が、光の中に溶けそうなくらい綺麗だった。


 5万人の声がスタジアムに反響している。でもあたしは声が出なかった。口が開いたまま、何も出てこない。


 だって、目の前にいる。

 モニター越しじゃない。


 あの光くんが、ドレスを着て、ピアノを弾いている。

 あたしの、目の前で。



 ピアノを弾きながら、光くんが顔を上げた。


 5万本のペンライトの海を見渡して——やわらかく、笑った。


「スタジアムライブ、Journeyへようこそ」


 マイクを通した声が、スタジアムに響く。でもあたしの位置からは、マイクを通さない生の声もかすかに聞こえた。二重に聞こえる光くんの声。


「ほら、雲ひとつない青空」


 光くんが空を見上げて軽く指差した。つられて5万人が空を見上げる。真夏の夕暮れ前の、まだ明るい空。


「昔から、大事な日は必ず晴れるんだよね」


 少し照れたように笑う。


「すごく暑い中だけど、よく来てくれました」


 歓声。



 指はずっと鍵盤の上にあった。やわらかなアルペジオを紡ぎながら、そのままゆるくMCが始まった。


「えっと……まず聞いてもいい?」


「今日、"初めてじゃないよ"って人ー?」


 手が挙がった。

 5万人の中では少数派。でも、ためらいのない、強い手の挙げ方だった。あちこちのブロックから、まっすぐに伸びた腕が見える。


「「「はーーい!!!」」」


 光くんが笑った。


「おかえり。また会えたね」


 その一言で既に、どこかのブロックから嗚咽が聞こえた。

 全国ツアーのライブハウスやホール、ファイナルで聞いた、あの言葉。キャパ数百の小さな箱で聞いた同じ言葉を、今度は5万人のスタジアムで、ドレス姿の光くんから聞いている。

 あの時と同じ言葉なのに、全然違う景色だった。



「じゃあ……今日が"はじめまして"って人ー?」


 残りの圧倒的多数。何万人もの手が、一斉に挙がった。


「「「はーーい!!!」」」


 スタジアムが揺れた。声の厚みが、さっきとは桁が違う。


 光くんは目を細めて、その景色を受け止めた。


「はじめまして! 来てくれてありがとう」


 少し間を置いて。


「次からは"ただいま"って言える場所になるよ。今日は楽しんでってね」


 あたしは手を挙げていた。「はじめまして」の方だった。

 初めてなのに、もう泣きそうだった。



 光くんが、いたずらっぽくニヤリと笑った。


「じゃあさ……みんなで"よろしく"しよ?」


 客席がざわめく。


「前も後ろも右も左も、ここにいる人は全員さ、この場に集まった友だちだから」


「せーのっ!」


「「「よろしくーー!!!」」」


 5万人の声が、空に抜けていった。

 屋根のないスタジアムの上に、声がどこまでも広がっていく。天井がないから、どこまでも。


 光くんが笑って、首をすくめた。


「ははっ、声おっきいなぁ……! すご!」


 その声が——マイク越しなのに、嬉しそうで、ちょっとだけ驚いていて、でも本当に幸せそうで。



 少し間を置いて。

 アルペジオの響きが、ゆるやかに変わり始めた。MCの間ずっと流れていた即興的なフレーズが、いつの間にか一つのメロディの輪郭を帯びていく。


「じゃ、1曲目ね」


 光くんが小さく笑った。


「——『また会ったねと、初めましてねと』」


 歓声が弾けた。

 タイトルに、今のMCのすべてが入っていた。


 そして歓声が鳴り止まないまま——ピアノのフレーズがそのままイントロへと溶け込んでいった。

 MCからの流れが途切れない。喋りながら弾いていたピアノが、自然に、一曲の始まりになっていた。


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