第202話 わたしの、初めてのライブ
投稿が滞っててすみません!
もう完結まで全部書いているので、ガンガン投稿していきます〜〜
ひとまず、5/4~6のGW残り3日間で15話くらい投稿しますね。
真夏の午後。快晴。
新幹線の中では、まだ現実感がなかった。
窓の外を流れる景色をぼんやり見ながら、これから自分がスタジアムに行くという事実が、どこか他人事みたいだった。車内はいつもの新幹線で、ビジネス客がパソコンを開いていたり、家族連れが子供をあやしていたり。ライブに行く人なんて、たぶん誰もいない。
新幹線を降りて、在来線に乗り換えた。
ホームで電車を待っていると、ちらほら見える。光くんのツアーTシャツを着た人。ペンライトが入っているらしいトートバッグ。
あ、あの人もそうだ。あの人も。
でもまだ、数えられるくらい。
電車に乗った。
駅を一つ過ぎるごとに、増えていく。光くんのグッズを持った人が、一人、また一人と乗り込んでくる。リストバンド。ツアーTシャツ。キーホルダーにタオル。車内の空気が、少しずつ変わっていく。
最寄り駅が近づく頃、車内を見回して気がついた。乗っている人のほとんどが、光くんのライブに行く仲間だった。ツアーTシャツ、ペンライト、トートバッグ。さっきまで「ちらほら」だったのに、いつの間にか車内の景色がまるごと変わっている。
最寄り駅に着いた。
ドアが開いた瞬間、息を呑んだ。
車内だけじゃなかった。ホームも、駅の外も人で埋まっていた。
ほぼ全員が、なんらか光くんのグッズを身につけている。ペンライトを首から下げた人。ツアーTシャツの人。タオルを首に巻く人。階段に向かう人の列が途切れない。改札までの通路が、ぜんぶ同じ方向に歩く人間で一色になっている。
(……こんなにたくさんの人が、1か所に集まって、歌とピアノを聴くんだ)
改札を抜けた。駅前の大通りも、同じだった。
あたしもその流れの一つになって、歩き始めた。
スマホを取り出して、電子チケットのQRコードを確認した。もう何度目かわからない。画面を表示して、ちゃんと読み込めることを確かめて、またロックする。
(……落選してたら、今頃どうなってたんだろう)
たぶん、友達を誘ってライブビューイングに行ってた。映画館で、みんなで合唱して、それはそれで最高だったと思う。
でも——ここにいる。スタジアムに向かって歩いている。それがまだ信じられない。
入場ゲートが見えてきた。
列に並んで、少しずつ前に進む。前の人の背中が近い。知らない人の香水と、夏の日差しと、アスファルトの熱気が混ざった匂い。
チケットをスキャンする電子音が鳴った。
係員さんが言った。
「いってらっしゃい、楽しんで!」
その声がなぜか妙に優しくて、不意に目が熱くなりそうになった。
⸻
ゲートを抜けると、敷地の中に入った。
目に飛び込んできたのは、今回のライブの旗だった。スタジアムの階段の両側に何本も立っていて、真夏の風に揺れている。
フォトスポットもあった。巨大なライブロゴのパネルの前で、グループが代わる代わる写真を撮っている。ポーズを決めて、笑って、次のグループと交代して。
一人で来たあたしには、ちょっと気が引けた。
でも、遠くから一枚だけ撮った。人が写り込んでいるけど、ロゴは見える。これでいい。
⸻
コンコース。
スタジアムの内部に続く、薄暗い廊下。
外の真夏の日差しから一気に日陰に入って、目がまだ慣れない。
前後左右、全員が同じ方向に歩いている。誰も立ち止まらない。足音が重なって、低い地鳴りみたいに響いている。
売店でドリンクを買う人の列。ペンライトのカバーに苦戦している人。友人と自撮りしている人。全員の顔が、緊張と興奮で同じ色をしている。
(……このコンコースを抜けたら、どんな景色が見えるんだろう)
スタジアムの中に続くスロープが見えた。
緩やかな上り坂。一歩ずつ登っていく。
天井が徐々に高くなる。光の量が、少しずつ増えていく。
⸻
スロープを抜けた。
視界が、一気に開けた。
広い。
とにかく、広い。
空が見えた。真夏の、隅まで晴れ渡った雲一つない青い空。
でも、最初に目に飛び込んでくるのは空の大きさじゃなかった。
人の多さだった。
端まで埋まった観客席。まだ空席がちらほらあるのに、すでにとんでもない数の人間がいる。上のスタンドを見上げれば、遥か上まで席が続いている。最上段なんて、もう豆粒みたいにしか見えない。
(……5万人って、こういうことか)
足が止まった。
立ち止まって見渡してしまう。ぐるりと、一周。
後ろから「すみません、前に……」と促されて、ようやく自分の足が止まっていたことに気づいた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて歩き出す。でも、目はまだ客席の全景を追っている。
⸻
スロープを降りて、アリーナの通路に出ながら、ステージが視界に入ってきた。
T字型。
横に長いメインステージと、そこから客席の中ほどへと長く伸びた花道。
花道の先端——客席のずっと奥に、グランドピアノが一台、置かれている。
メインステージは遠い。あそこに立つ人は、たぶん米粒にしか見えない。
メインステージの両端に巨大モニターが二基。まだ映像は流れていない。乳白色の光を放って、静かに待機している。あのモニターが頼りになるんだろう。
家でチケットの座席番号を確認した時は、アリーナ席の真ん中あたりだと思っていた。メインステージからはだいぶ遠い。光くんの姿はモニターで見ることになるかも——そう覚悟していた。
スマホで座席番号を確かめながら、アリーナの通路を歩く。
列の番号が近づいてくる。
——花道が、近い。
あの客席の中を長く伸びた花道の、先端。
グランドピアノが置かれた場所が、どんどん近づいてくる。
自分の席の番号を見つけた瞬間、息が止まった。
花道の先端の、グランドピアノの、真横だった。
(……嘘でしょ)
メインステージは遠い。でも——ピアノは、目の前だ。
照明はまだ本番モードではない。作業灯の白い光がピアノと花道を平たく照らしている。でも、蓋が閉じた黒い筐体の木目が見えるくらい、近い。
周りの席の人たちが、もう騒いでいた。
「やばい!」「目の前!!!」「ピアノ近すぎない!?」
声が聞こえている。でも、どこか遠かった。
自分の体が自分のものじゃないみたいな、ふわふわした感覚のまま、席に座った。
ピアノが一台あるだけだ。でもそれだけで、そこはもう「光くんの場所」だった。
(……ここで、光くんが弾くんだ)
開演三十分前。
座って、改めてスタジアム全体を見渡す。
さっきまで空席だった場所が、目に見えて埋まっていく。
人が増えるたびに、ざわめきの音量が少しずつ上がっていく。5万人分のざわめきは、もう一つの巨大な生き物みたいだった。
風が吹いた。
真夏のはずなのに、こんなにたくさんの人もいるのに、清涼な風がスタジアムの中を吹き抜ける。大きな空が開いているからだろうか。熱気と涼風が混在する、不思議な体感温度。
(……風が気持ちいい)
そう思って、それからすぐに、別のことを思った。
(……こんな日に、好きな人の歌が聴ける)
それだけのことなのに、胸の奥がきゅっと締まった。
周囲の人たちがペンライトの準備を始めている。座席に貼られたQRコードをスマホで読み込んで、ペンライトと無線連動させる。あたしも手順通りにやった。接続完了の小さな点滅が返ってきて、ほっとする。
隣の席の知らないカップルが、緊張して手を握り合っている。通路を挟んだ向こう側で、一人で来たらしい人が目をつぶって深呼吸している。
みんな、同じ方向を向いている。
5万人が全員、ステージを待っている。
⸻
場内に流れていたBGMが、フッと消えた。
一瞬の、静寂。
5万人がいるはずなのに、音が消えた。
いや——消えたんじゃない。全員が息を呑んだのだ。
静寂は一秒と持たなかった。
何かが起きる予感で、会場全体が「ざわ」と揺れた。空気の温度が、一度だけ上がった気がした。
5万本のペンライトが、一斉に灯った。
無線連動。誰がスイッチを入れたわけでもない。BGMが消えた瞬間に、会場中のペンライトが同時に光を放った。スタンドの端から端まで、一瞬で。
周りを見回した。
夕暮れの空の下に、人工の星空が広がっている。
(……始まる)
胸の奥が、痛いくらいに高鳴っている。
手が震えている。
ペンライトを握る指に、力が入る。
目の前の景色が、涙で少しだけ滲んだ。
まだ何も始まっていない。
光くんはまだ出てきてもいない。
一音も鳴っていない。
それなのに——もう、泣きそうだった。




