第5話 兄妹の弓勝負
一か月後。
マルチーズ家の射場に、二つの的台が並べられていた。
それぞれの台には、小さな円形の的が五枚、横一列に取りつけられている。一射ごとに、左端の的から順番に狙っていく。
距離はおよそ二十八メートル。
前世で綾が立っていた近的の射場と、ほとんど同じ距離だ。
「勝負は五射。的へ当てた数が多い方を勝者とする。中心からの距離は問わない」
審判を務めるお父様が、わたしとアーサーを交互に見る。
「使用する弓と矢は自由。ただし、相手への妨害は禁止だ。異論はあるか?」
「ありません」
「俺もありません」
アーサーと並び、それぞれの射位に立つ。
一か月前、医師から弓を禁止された日に交わした約束。
今日の診察でようやく、短時間なら訓練してもよいと許可が出た。
それを聞いたわたしとアーサーは、その日のうちに勝負を始めることにしたのだ。
「二人とも頑張って!」
少し離れた場所では、お母様が祈るように両手を組んでいる。
「ミルロ、無理しちゃ駄目だよ」
ユキメはわたしの肩に座り、心配そうに何度も同じ注意を繰り返していた。
「分かっているわ」
「さっきから、その言葉、あんまり信用できないよ」
失礼な精霊だ。
けれど今日は、倒れるまで続けるつもりはない。
五本だけ。きっちりすべて当てて、アーサーに勝つ。
わたしは練習場から借りた木製の弓を握り直した。
アーサーが普段使っているものと、同じ強さの弓だ。
身体つきの違う相手と同じ弓を使う必要はない。それでも最初の勝負くらい、同じ条件で技術を比べてみたかった。
「始め!」
お父様の声が射場に響いた。
◇
第一射。
先に射たのはアーサーだった。
矢は一枚目の的の左をかすめ、そのまま後ろの土壁へ突き刺さる。
「くっ……」
アーサーが小さく息を吐く。
わたしの番だ。
足を開き、矢をつがえ、弓を構える。
ここまでは問題ない。
けれど、弦を引き始めた途端、右腕に予想以上の重さがかかった。
(重い……!)
この一か月、食事と散歩で少しずつ体力を取り戻してきた。
それでも、十年間の栄養不足は簡単には埋まらない。
前世の身体なら難なく引けた強さなのに、今の細い腕は途中から震え始めた。
力で押さえ込もうとするほど、肩が上がり、狙いがぶれる。
放った矢は大きく失速し、的の手前で地面へ落ちた。
第一射は、二人とも外れ。
第二射。
アーサーの矢は、二枚目の的の右端を射抜いた。
中心からは遠い。それでも的中は的中だ。
「アーサー、一」
お父様が結果を告げる。
続いて、わたしも二本目の矢をつがえた。
今度こそ。
足から背中へ力を通し、腕だけに頼らず弓を押す。
けれど、弓そのものが今の身体に合っていない。引き切る寸前に右肘が下がり、矢は的の上を通り過ぎた。
「ミルロ、外れ」
これで、〇対一。
残された矢は三本。このままでは勝てない。
「弓を替えるか?」
お父様が尋ねた。
悔しかった。
技の誇りが、同じ弓で勝てと叫んでいる。
けれど今ここにいるのは、弓田綾ではない。
十歳のミルロだ。
身体に合わない弓へ意地を張り、的を外し続けることに何の意味がある。
弓を握る目的は、誰かと同じ条件で戦うことではない。
矢を、狙った場所へ届けることだ。
「替えます」
木の弓を台へ戻し、左手を前に出す。
「ユキメ」
「うん!」
胸の奥から冷たい魔力を引き出す。
ユキメとの契約を通じて魔力が形を変え、水色の光となって伸びていく。
やがて、透き通った弓身がわたしの手の中に生まれた。
握りを境に上下の長さが異なる、ミルロのための氷の和弓。
木の弓より長い。しかし重さも弦の強さも、今の身体に合わせて自由に調整できる。
右手には、同じく氷で作った一本の矢。
夕日を受けた弓と矢が、淡い青色にきらめいた。
「それが、君の弓か」
アーサーは氷弓を見つめ、嬉しそうに口元を上げた。
「ここからが本番だな」
「ええ」
第三射。
アーサーの矢が、的の左下へ刺さる。
二本連続の的中だ。
わたしは氷の矢をつがえた。
足踏み。胴造り。弓構え。
身体の中心から左右へ伸びるように、氷の弦を引き分ける。
木の弓を持っていたときの震えはない。
狙うのは、円の中心。
ただ一点。
放れ。
澄んだ弦音とともに、氷の矢が青い軌跡を描いた。
的のど真ん中へ突き刺さる。
「ミルロ、一」
お父様の声は冷静だったが、その目がわずかに見開かれていた。
第四射。
アーサーは的の上端へ、ぎりぎりながら命中。
わたしの氷矢は、再び中心を射抜いた。
第五射。
アーサーの矢は、今度も外周近くへ刺さる。
これでアーサーは四本的中。わたしが最後の一本を当てても、三本にしかならない。
勝敗は決まった。
それでも、射る前に諦める理由にはならない。
氷の弓を構え、呼吸を整える。
放った矢は、三度続けて中心を貫いた。
「五射終了。アーサー四、ミルロ三。勝者――」
「待ってください、父上」
アーサーが、お父様の宣告を遮った。
「どうした」
「このままでは、俺の勝ちとは思えません」
アーサーは二つの的台を指さした。
彼の的には、端へ散らばった四本の矢。
わたしの的には、最初の二枚を外した跡と、中心を正確に射抜かれた三枚が並んでいる。
「決められた勝負には勝った。それでも、弓の腕で勝ったとは言えません。延長をお願いします」
「規則は規則だ。お前が勝者であることに変わりはない」
「分かっています。だから、これは俺のわがままです」
アーサーがわたしへ向き直る。
「ミルロ。先に外した方が負け。それで、もう一度勝負してくれないか?」
その顔に、勝者の余裕はなかった。
わたしを対等な相手として見ている、真剣な目だった。
「もちろんです」
断る理由などなかった。
「待て」
お父様の低い声が、わたしたちを止める。
「ミルロ。医師から許されたのは、短時間の訓練だけだ。続けられるのか?」
「はい。あと五射までなら」
ユキメが心配そうに、わたしの顔をのぞき込んでくる。
「本当に大丈夫?」
「無理はしないわ」
お父様はしばらくわたしの顔を見つめたあと、厳しい表情で告げた。
「少しでも異変を感じたら、その時点で中止する。それが条件だ」
「分かりました」
「アーサーもだ。勝負に夢中になって、妹の状態を見落とすな」
「はい、父上」
お父様の許可を得て、延長戦が始まることになった。
◇
新しい的が、さらに五枚ずつ並べられた。
第六射。
アーサーの矢は外周の内側。わたしの氷矢は中心。
第七射。
アーサーの矢は右端ぎりぎり。わたしの氷矢は中心。
第八射。
アーサーの矢は的の下半分。わたしの氷矢は中心。
第九射。
アーサーの矢は、初めて中心に近い内側の円へ刺さった。
それでも、わたしの氷矢は中心を外さない。
どちらも、一度も外れない。
射場から話し声が消えていた。
お母様も、使用人たちも、息をすることさえ忘れたように勝負を見守っている。
「すごい……」
肩にいるユキメが、小さくつぶやいた。
けれど、余裕があるわけではない。
七本の氷矢を作り続けたことで、魔力が残り少なくなっている。氷の弓にも、細かなひびが浮かび始めていた。
アーサーも肩で息をしている。
次が、互いに十射目。
先に構えたのはアーサーだ。
大きく息を吸い、弦を引く。
疲れていても、その姿勢は崩れていない。
アーサーは最後まで中心を狙った。
矢が放たれる。
わずかに強い横風が、射場を吹き抜けた。
矢は的の縁をかすめ、後ろの土壁へ突き刺さった。
「……外した」
アーサーが悔しそうに唇を噛む。
だが、勝負はまだ終わっていない。
わたしも外せば、もう一度続く。
「ミルロ、大丈夫?」
ユキメが不安そうに尋ねる。
「大丈夫」
ユキメへ答え、ひびの入った氷弓を構える。
風はまだ止んでいない。
頬をなでる流れを感じ、狙いをほんの少しだけ左へずらす。
腕が重い。視界もかすかに揺れている。
それでも、的の中心だけは鮮明に見えた。
弦から指を離す。
最後の氷矢は風を切り裂き、十枚目の的、そのど真ん中へ突き立った。
一拍遅れて、射場に歓声が上がった。
「延長戦、勝者ミルロ!」
お父様の声を聞いた途端、身体から力が抜けた。
崩れそうになった氷弓を消し、その場へ座り込む。
アーサーがすぐに駆け寄り、手を差し出した。
「負けた。完敗だ」
「最初の勝負は、お兄様の勝ちです」
「だが、弓の腕は君が上だ」
悔しそうなのに、その声はどこか晴れやかだった。
手を借りて立ち上がると、お父様が目の前まで歩いてくる。
「ミルロ」
「はい」
「最初の二射を外したとき、同じ弓にこだわり続けていれば、お前を叱るつもりだった」
大きな手が、わたしの頭へ置かれた。
「弓兵の務めは、己の力を誇示することではない。どんな状況でも、必要な場所へ矢を届けることだ。お前は意地を捨て、自分に合った武器を選んだ」
お父様の手が、不器用に水色の髪を撫でる。
「その後の八射も見事だった。よくやった、ミルロ」
厳しかった青い瞳が、優しく細められた。
「お前なら、きっと本物の弓兵になれる。私の娘として、誇りに思う」
その言葉は、どんな的中音よりも深く、わたしの胸に響いた。




