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第4話 ただいまを言える家

馬車の窓から弓の的が見えた瞬間、わたしは座席から身を乗り出した。


「危ないぞ」


 向かいに座るマルチーズ男爵――お父様が、低い声で注意する。


「ご、ごめんなさい。でも、あれは弓の練習場ですよね?」


「そうだ。騎士団の者も使うから、邸の敷地にしては広く造ってある」


 馬車が正門をくぐる。


 右手には弓の射場。


 左手には剣や槍を扱うための演習場。


 その奥に、灰色の石で建てられた三階建ての邸が見えた。


 伯爵家ほど贅沢はさせてやれない。


 お父様はそう言っていたが、昨日まで路地裏で眠っていた身からすれば、お城と呼びたくなる大きさだ。


「あんなにたくさん、弓が……」


 射場の壁に並ぶ弓から、目が離せない。


「気に入ったか?」


「はい!」


 即答すると、お父様はわずかに口元を緩めた。


「まずは医師に身体を診せる。それからだ」


「少しくらいなら、今日からでも――」


「それからだ」


「……はい」


 取りつく島もない。


 けれど、昨夜たった一射で尻餅をついたことを思えば、反論もできなかった。


 馬車が玄関前で止まる。


 扉が開くより早く、外から明るい声が聞こえた。


「あなた、その子がミルロね?」


 淡い茶色の髪をした女性が、青いドレスの裾を揺らしながら駆け寄ってくる。


 後ろでは、使用人たちが慌てて追いかけていた。


 貴族の夫人というより、待ちきれずに娘を迎えに来た母親に見える。


「ケイト。まずは落ち着け」


「無理よ。娘ができるのよ?」


 女性――ケイト・マルチーズは、馬車から降りたわたしの前で膝をついた。


 目の高さを合わせ、顔をじっと見つめる。


「初めまして、ミルロ。わたしはケイト。今日からあなたのお母様になる人よ」


「初めまして。ミルロです。よろしくお願いいたします、お母様」


「まあ……!」


 次の瞬間、柔らかな腕に抱きしめられた。


 甘い花の香りがする。


 驚いて身体が固まった。


 ミルロは、母親に抱かれた記憶を持っていない。


 綾として母に抱きしめられたことなら、病気になってから数え切れないほどあった。


 けれど、あの温もりはもう二度と戻らない。


 違う人だ。


 分かっているのに、胸の奥が痛くなる。


「痛かった?」


 わたしが黙り込んだため、ケイトお母様は慌てて腕を緩めた。


「いいえ」


 首を横に振り、今度はわたしから細い身体へ腕を回す。


「嬉しかったんです。こうしてもらったのが、久しぶりで……」


 お母様は何も尋ねず、もう一度そっと抱きしめてくれた。


 その背後に、一人の少年が立っている。


 年齢はわたしより一つ上の十一歳。


 母親譲りの茶色い髪と瞳。


 まだ幼さの残る顔立ちだが、身体は同年代より明らかに鍛えられている。


 アーサー・マルチーズ。


 ゲームでは巨大な盾を操り、どんな攻撃からも仲間を守る重騎士だ。


 剣と盾を使う前衛でありながら、マルチーズ家の騎士として弓術も身につけている。


 頼れる仲間として何度も助けられた相手が、今は警戒するようにこちらを観察していた。


「アーサー。挨拶なさい」


 お父様に促され、少年は一歩前へ出た。


「アーサーだ。今日から、君の兄になる」


「ミルロです。よろしくお願いします、お兄様」


 差し出された手を握る。


 その手には、年齢に似合わない剣だこができていた。


「父上が先に寄こした使者から聞いた。君も騎士を目指すそうだな」


「はい」


「騎士の訓練は厳しい。家に入るための口実なら、今のうちに取り消した方がいい」


 玄関前の空気が凍った。


 ケイトお母様が息を呑み、お父様の眉間にしわが寄る。


 けれど、アーサーの瞳に意地悪さはなかった。


 父と同じ、真っすぐな目だ。


 騎士を目指すという言葉を、軽く扱われたくないのだろう。


「口実ではありません」


 わたしも、目をそらさず答えた。


「弓を引きたいから、この家を選びました。どれほど厳しくても、やめません」


「そうか」


 アーサーはそれ以上何も言わず、手を離した。


 歓迎されたとは言い難い。


 それでも、嘘をつかずに向き合ってくれるなら、きっと分かり合える。


     ◇


 医師の診察は、予想以上に長くかかった。


「ひどい栄養不足です。大きな病気はありませんが、まずは食事と休養を。剣も弓も、当分は禁止です」


 医師の宣告に、わたしは診察室の椅子でうなだれた。


「当分とは、どのくらいですか?」


「少なくとも一か月」


「一か月も……」


「一か月で済むよう、きちんと食べて眠ることです」


 お父様には、口元だけで笑われた。


 その日の昼食には、柔らかな白パンと野菜のスープ、薄く切った肉が並んだ。


 全部食べたいのに、痩せた身体は半分ほどで苦しくなってしまう。


「残しても大丈夫よ」


 隣に座るお母様が、背中を優しく撫でる。


「でも、せっかく作ってくださったのに」


「明日また食べればいいの。これからは毎日、食事があるのだから」


 これからは、毎日。


 何気ない言葉に、胸が詰まった。


 食べられるときに詰め込まなければ、次がいつになるか分からない。


 そんなミルロの常識は、もう捨ててもいいらしい。


「……ごちそうさまでした」


 残したことを、誰にも責められなかった。


 温かな食事と、温かな部屋。


 安心した途端、昨夜ほとんど眠っていなかった身体に、強烈な眠気が押し寄せてきた。


     ◇


 目を覚ますと、見知らぬ天井があった。


 陽はすでに傾き、窓から差す光が部屋を橙色に染めている。


 ふかふかのベッド。


 水色のカーテン。


 机の上には、わたしのために用意された新しい服が畳まれていた。


「ここが、わたしの部屋……」


「よく寝てたね」


 枕元から声がする。


 ユキメが、掛け布団の上にちょこんと座っていた。


「ユキメ。ずっといてくれたの?」


「うん。ずっと一緒にいたよ」


 小さな頭を指先で撫でると、ユキメは気持ちよさそうに目を細めた。


 窓の外へ目を向ける。


 そこからは、馬車で見かけた弓の練習場がよく見えた。


 整然と並んだ的。


 弓を立て掛けるための台。


 矢を入れた筒。


 見ているだけで、指先がむずむずしてくる。


「少しだけ、見に行きましょう」


「お医者さんに、練習しちゃ駄目って言われたばかりだよ?」


「訓練はしないわ。見るだけよ」


「その言葉、あんまり信用できない」


 ユキメの疑いに満ちた視線から逃げるように、わたしは新しい靴へ足を入れた。


     ◇


 夕暮れの射場には、乾いた弦音が響いていた。


 練習していたのは、アーサーだった。


 剣士である彼も、マルチーズ家の騎士として弓術を学んでいるのだろう。


 放たれた矢は的へ届いたものの、中心からは大きく右へ外れた。


 続く二射目も、ほとんど同じ場所へ刺さる。


 矢を同じ場所へまとめる力はある。


 けれど、身体の軸がわずかに傾いていた。


「今、首を傾げた?」


「傾げてないわ」


「少し傾いてたよ」


 ユキメと小声で言い合っていると、アーサーがこちらを振り返った。


「そこで何をしている」


「見学です」


「医師に訓練を止められたと聞いたが」


「ですから、見ているだけです」


 嘘はついていない。


 アーサーは疑わしそうに目を細めたが、追い返しはしなかった。


 新しい矢をつがえ、的へ身体を向ける。


 やはり左の肩がわずかに上がっている。


「何か言いたいことがあるなら言え」


「え?」


「さっきから、俺の肩ばかり見ている」


 気づかれていたらしい。


「左肩を、もう少し下げた方がいいと思います」


「弓を握ったこともないような手で、よく分かるな」


 言われて、自分の手を見る。


 前世では硬くなっていた指も、弦で擦れた痕も、この身体には残っていない。


「父上から聞いた。氷で弓を作り、教会の木へ矢を当てたそうだな。どこで習った?」


「それは……夢で、少しだけ」


 全国大会で優勝しました、とは言えない。


 苦し紛れに答えると、アーサーの眉が寄った。


「夢?」


「長い夢です。そこで何年も弓を引いていました」


 これ以上うまい説明は思いつかなかった。


 しばらく見つめられたあと、アーサーは手にしていた弓を差し出した。


「では、見せてみろ」


「いいんですか?」


「構えるだけだ。弦は引くな」


「はい!」


「返事だけは立派だな……」


 弓を受け取り、射場へ立つ。


 矢はつがえない。


 弦にも指を掛けない。


 ただ的へ身体を向け、足を開き、弓を構える。


 前世で使っていた和弓より、短くて軽い。


 それでも、弓を安定させるための姿勢と身体の軸は共通している。


 肩の力を抜き、背筋を伸ばす。


 数秒だけ構えて、すぐに弓を下ろした。


「これでいいですか?」


 アーサーは答えなかった。


 代わりに弓を受け取ると、先ほどより慎重に足を開く。


「左肩は、もう少し下です」


「……こうか?」


「はい。それと、腕だけではなく、身体の中心から弓を押すように」


 言われたとおりに姿勢を直し、アーサーは矢を放った。


 乾いた音が響く。


 矢は先ほどまでより、中心に近い場所へ突き立った。


 アーサーは的とわたしの顔を、交互に見る。


「一か月後だ」


「え?」


「医師の許可が出たら、俺と勝負しろ。君の夢とやらが本物か、確かめる」


 挑むような目だった。


 今度こそ、わたしは笑う。


「分かりました。負けませんよ、お兄様」


「俺も負けるつもりはない」


 アーサーは弓を片づけると、射場の出口へ歩き出した。


「夕食の時間だ。行くぞ、ミルロ」


「はい」


 その背中を追いかける。


 新しい父と母。


 まだ少し距離のある兄。


 そして、自分だけの部屋。


 ここが今日から、わたしの帰る場所になる。


 いつか自然に「ただいま」と言える日が来たらいい。


 並んで邸へ戻る途中、アーサーが前を向いたまま口を開いた。


「ミルロ」


「はい?」


「マルチーズ家へ、ようこそ」


 夕日に照らされた耳が、少しだけ赤い。


「――はい。ただいま、お兄様」


 初めて口にしたその言葉は、自分で思っていたよりも、ずっと自然に出てきた。

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