第49話 カワリの代わり
【???視点】
「ねえ、カワリお姉ちゃん。精霊に認められれば、わたしの人生は変わるの?」
「ええ、もちろんよ!」
カワリお姉ちゃんは、迷うことなく答えた。
「精霊に認められれば、貴族になれるの。そうすれば、お腹いっぱいご飯を食べられるし、硬い石畳の上で眠らなくてもいい。朝起きたら、自分の靴がなくなっていることもない。そんな素敵で普通の生活を送れるのよ!」
「なにそれ! 夢みたい!」
お姉ちゃんの言葉に、わたしは笑った。
カワリお姉ちゃんは、本当のお姉ちゃんではない。
だけど、物心がついたころからずっと一緒に過ごしてきた、大切なお姉ちゃんだった。
わたしよりたった1つ年上なだけなのに、誰よりも頼りになり、いつもわたしを守ってくれた。
孤児の世界は弱肉強食だ。
路地1つにも縄張りがあり、境目になっているレンガを1つ越えただけで殴られる。食べ物を見つけても、年上の子供に奪われる。眠っている間に靴や服を盗まれることだって珍しくない。
そんな理不尽な世界で生き延びる方法を教えてくれたのが、カワリお姉ちゃんだった。
名前すら持たないわたしにとって、お姉ちゃんは誰よりも尊敬できる人だった。
それに、カワリお姉ちゃんはすごい。
なんと、貴族の血を引いているらしい。
ニュギュウ伯爵という人の妾の子供なのだという。
妾という言葉の意味はよく分からなかった。お姉ちゃんに尋ねると、夫婦のようで夫婦ではない、不思議な関係らしい。
お姉ちゃんのお母さん――マルローネさんは、伯爵家で受けたいじめに耐えきれず、幼いお姉ちゃんを連れて屋敷を出た。
その後、流行り病にかかって亡くなり、お姉ちゃんは孤児になった。
それでも、お姉ちゃんはいつも胸を張っていた。
「見ていて。わたしは、わたしだけの力で這い上がってみせる。お母さんを見捨てたお父さんになんて、絶対に頼らないんだから!」
「ねえ、頼るってどういうこと?」
幼かったわたしには、お姉ちゃんの言葉がよく分からなかった。
「頼る、か……」
お姉ちゃんは少し考え、わたしにも分かるように言葉を選んでくれた。
「諦めて、その人の言うことを聞くことよ」
「言うことを聞く?」
「そう。1度頼ってしまったら、その人の命令には逆らえない。死ねと言われれば、死ぬしかない。お父さんに頼んで貴族にしてもらうっていうのは、そういうことなの」
恐ろしい話だった。
だけど、お姉ちゃんはすぐに笑った。
「でも、精霊に認めてもらうのは違うわ。10歳になれば、どんな子供にだって機会が与えられる。それは誰かに頼ることじゃない。自分の力で未来を切り開くってことなのよ」
そう言うと、お姉ちゃんはポケットから1つの指輪を取り出した。
古びてはいたけれど、中央には透き通った緑色の宝石がついている。
「これは風神の指輪。お母さんの形見なの」
「きれい……」
「とても高価なものなんだって。お母さんは、いつも言っていたわ」
お姉ちゃんは指輪を大切そうに握りながら、亡くなったお母さんの言葉を教えてくれた。
『カワリ、自分の力で生きていくことは大切よ。あの人に頼れば、あなたの人生は駄目になってしまう。貴族の世界へ戻れば、つらい人間関係を強いられる。まるで檻に入れられた猫のように、苦しい思いをするでしょう』
だから、決してニュギュウ伯爵を頼ってはいけない。
だけど、死ぬよりはまし。
どうしても生きていけないと思ったときには、この指輪を持ってニュギュウ伯爵家を頼りなさい。
血筋を持たない自分は受け入れてもらえなかったけれど、伯爵の血を引くカワリなら、きっと大丈夫だから。
それは、生きるための最後の手段。
お姉ちゃんは、お母さんからそう言い聞かされていた。
「じゃあ、お姉ちゃんはその人を頼るの?」
「頼らないわ」
お姉ちゃんは風神の指輪を右手の指にはめ、自信に満ちた笑顔を見せた。
「だって、明日はわたしのフェアリーデイズだもの。わたしは精霊に認められて、自分の力で貴族になるのよ!」
そして、待ちに待った日が訪れた。
10歳の子供が、精霊との契約を試みる大切な日。
孤児なら誰もが知っている、特別な1日。
フェアリーデイズ。
精霊に認められれば、どれほど貧しくても、どこの生まれでも関係ない。貴族家へ迎えられ、これまでとはまったく違う人生を歩める。
すべての子供へ等しく与えられた、人生最大の好機だった。
教会へ向かう子供たちの笑顔が眩しい。
みんな、この日が来ることをずっと夢見ていたのだ。
わたしもカワリお姉ちゃんを見送るため、手をつないで教会へ向かっていた。
お姉ちゃんは笑っていた。
だけど、手をつないでいるわたしには分かる。
手のひらには汗が滲んでいるのに、指先はひどく冷たかった。
きっと、緊張しているのだ。
「大丈夫だよ」
わたしは、つないだ手を強く握った。
「だって、お姉ちゃんはこんなに優しいんだよ。それに、貴族の血だって引いているんでしょ? 精霊に認められないなんて、絶対にあり得ないよ!」
貴族の子供ほど、精霊に認められやすい。
それは、誰もが知っている事実だった。
実際、平民の中から精霊と契約できる者は少ない。どこの誰から生まれたのかさえ分からないわたしには、きっと難しい。
だけど、お姉ちゃんは違う。
「大丈夫だよ。だって、お姉ちゃんは特別なんだから! 絶対に大丈夫!」
何度も励ますと、お姉ちゃんはにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。行ってくるね」
「うん!」
そのときだった。
背後から激しい蹄の音が聞こえた。
振り向くと、大きな馬車が信じられないほどの速さでこちらへ迫っていた。
わたしたちは話に夢中になり、その接近に気づくのが遅れたのだ。
「危ない!」
お姉ちゃんが叫んだ。
次の瞬間、身体を強く突き飛ばされた。
「きゃっ!」
地面へ倒れ込み、膝に鋭い痛みが走る。
だけど、おかしい。
馬車に轢かれたのなら、この程度の痛みで済むはずがない。
ゆっくりと顔を上げた。
「お姉……ちゃん……?」
道の上に、カワリお姉ちゃんが倒れていた。
手足はあり得ない方向へ曲がり、身体の下には赤い血が広がっている。
お姉ちゃんは、とっさにわたしを突き飛ばしてくれたのだ。
わたしを助けるために、自分が馬車に轢かれた。
「お姉ちゃん!」
膝の痛みも忘れ、お姉ちゃんへ駆け寄った。
血に濡れた身体を抱き寄せ、何度も名前を呼ぶ。
そのとき、走り去ろうとする馬車の中から男たちの声が聞こえた。
「おい、早く探せ! 見つけられなければ、上から何を言われるか分からんぞ!」
「くそっ! 黒い髪をした少女は、本当に教会へ来るのか?」
「疑うな! 俺たちにできるのは、命令に従うことだけだ!」
馬車の窓から、1人の男がこちらを見た。
お姉ちゃんを抱いているわたしと目が合う。
「ちっ、汚らしい孤児が! よそ見しやがって。余計な時間を取らせるな!」
馬車は止まることなく、そのまま走り去った。
わたしはお姉ちゃんの身体を揺らした。
「起きてよ、お姉ちゃん。教会に着いたよ。今日は、お姉ちゃんのフェアリーデイズなんだよ……?」
何度揺すっても、お姉ちゃんはぴくりとも動かなかった。
騒ぎを聞きつけ、教会からシスターたちが駆けてきた。
お姉ちゃんはすぐに教会へ運び込まれた。治癒魔法を使える人も呼ばれ、必死の治療が施された。
だけど、すべて無駄だった。
お姉ちゃんは、馬車に轢かれたときにはもう息を引き取っていた。
「どうして……?」
精霊と契約して、ようやく自分の人生を歩き始めるはずだった。
誰にも頼らず、自分の力で未来を切り開く。
今日は、そのための大切な日だったのに。
「どうして、こんなことになるの……?」
涙が止まらなかった。
悔しくて、悲しくて、どうすればいいのか分からなかった。
ふと、お姉ちゃんの指にはめられた風神の指輪が目に入った。
わたしは冷たくなったその手から、指輪を外した。
「お姉ちゃん。この指輪、わたしがもらうね」
緑色の宝石を胸に抱く。
「ずっと、お姉ちゃんと一緒にいられるように」
そして、心に誓った。
「来年は、わたしが精霊と契約する。お姉ちゃんの代わりに貴族になって、お姉ちゃんの分まで人生を切り開くから」
その日、名前のなかったわたしは、1つの名前を手に入れた。
カワリ。
大切なお姉ちゃんが生きていた証しを、わたしが受け継いだ。
◇
1年後、わたしのフェアリーデイズがやってきた。
右手には、あの日から肌身離さず持っていた風神の指輪がある。
わたしは祭壇の前へ立ち、シスターに教えられたとおり、水晶へ右手をかざした。
精霊に認められれば、この水晶に変化が起きる。
光が灯り、契約する精霊の属性に応じた現象が現れるのだ。
わたしは祈った。
お姉ちゃん、見ていて。
今度こそ、わたしが未来を切り開くから。
だけど――。
何も起こらなかった。
水晶は光らない。
風も吹かない。
どれほど待っても、何一つ変化は起きなかった。
「そんな……」
わたしは手をかざしたまま、呆然と立ち尽くした。
「もう終わりです。次の子が待っていますから、こちらへ」
シスターに肩を押され、祭壇の前から退かされる。
足に力が入らなかった。
わたしは精霊に認められなかった。
お姉ちゃんの代わりにはなれなかった。
そんなはずはない。
だって、ずっとこの日のために生きてきたのに。
「次の方。ミルロさん」
シスターの声が教会に響いた。
1人の少女が、わたしと入れ替わるように祭壇の前へ進み出た。
わたしと同じ年頃の少女だった。
ミルロと呼ばれた少女が、水晶へ手をかざす。
その瞬間、水晶の内側で吹雪が渦を巻いた。
祭壇から床へ白い霜が走り、教会の壁を駆け上がる。
窓から差し込んでいた陽光さえ凍りついたように、辺りは静まり返った。
次いで、教会中から驚きの声が上がった。
「なんで……」
わたしは震えながら、その光景を見つめた。
どうして、この子には与えられるの?
わたしとお姉ちゃんが、あれほど欲しかったものを。
「どうして、わたしには何も起こらないのよ!」
気づけば、わたしは叫んでいた。
「ずるい! それは、わたしとお姉ちゃんがもらうはずだったのに! 返してよ!」
シスターたちに押さえられ、教会の外へ連れ出された。
それでも、わたしは叫び続けた。
ミルロという少女に、わたしたちが得るはずだった精霊を返してもらう。
そんなことが無理なのは、わたしにも分かっていた。
だけど、このままでは気が済まない。
1発殴ってやらなければ、この怒りは消えない。
わたしは教会の近くに座り込み、ミルロが出てくるのを待った。
そのまま、1晩中待ち続けた。
翌朝、教会から立派な身なりをした2人の男が出てきた。
1人は両手にいくつもの指輪をつけた、でっぷりと太った男。
もう1人は茶色の髪をきれいになでつけた、細身の男だった。
「ニュギュウ伯爵。本日は残念でしたな」
細身の男が、太った男へ話しかけた。
「まったくだ。あの小娘、何も分かっておらん。孤児とは聞いていたが、男爵と伯爵の違いすら理解できん馬鹿だったとはな」
細身の男は困ったように苦笑すると、一礼してその場を離れた。
「ニュギュウ伯爵……?」
その名前には、聞き覚えがあった。
お姉ちゃんのお父さん。
そして、お姉ちゃんのお母さんが、最後の手段として頼れと言い残した相手。
わたしは右手の風神の指輪を握り締めた。
この指輪は、お姉ちゃんとニュギュウ伯爵家を結ぶ大切な証しだ。
気づけば立ち上がり、伯爵へ向かって走り出していた。
「待って! 待ってください!」
すぐに護衛たちが立ちはだかり、わたしの腕をつかんだ。
「何者だ!」
「放して! その人に、この指輪を見せないといけないの!」
必死にもがきながら、右手を伯爵へ伸ばす。
「お願い! この指輪を見て! 風神の指輪です!」
わたしが何を言っているのか、伯爵には分からなかったのだろう。
迷惑そうに顔をしかめていた。
だけど、わたしが突き出した指輪を目にした途端、その表情が変わった。
「その指輪……」
伯爵が護衛たちを手で制した。
解放されたわたしは、荒い息を整えながら伯爵を見上げた。
「お前は何者だ?」
「伯爵様の妾だったマルローネの娘です。名前はカワリといいます」
わたしは風神の指輪を差し出した。
「お母さんから、わたしのお父さんは伯爵様だと聞いています。この風神の指輪が、お母さんがマルローネである証しです。伯爵様がお母さんへ贈ったものですよね?」
伯爵は何も答えず、懐かしむように指輪を見つめていた。
◇
【ニュギュウ伯爵視点】
マルローネ。
かつて、私が最も気に入っていた妾だ。
赤みがかった茶色の美しい髪を持つ女で、一時期の私は夢中になっていた。そのころに贈ったものが、この風神の指輪だった。
もっとも、その後も私は多くの妾をつくった。
1人1人の顔など、今さら鮮明には覚えていない。
目の前の少女も、言われてみれば髪の色が似ているように思える。唇にも、わずかに面影があるだろうか。
しかし、マルローネは妻から激しい嫌がらせを受けていた。
屋敷を去るころにはひどくやつれ、かつての美しさなど見る影もなかった。
正直に言えば、そのころにはもう、どうでもよくなっていた。
妻の行いを知りながら黙認し、マルローネが姿を消しても捜そうとは思わなかった。少し惜しいと思ったのは、高価な風神の指輪を持ち逃げされたことくらいだ。
指輪を見る限り、この少女がマルローネと何らかの関わりを持つことは間違いない。
だが、この娘の話には致命的な嘘がある。
「お前、歳はいくつだ?」
「はい、10歳です!」
少女は何の疑いもなく答えた。
「昨日、精霊との契約を試みました。でも、精霊には認めてもらえませんでした。それで偶然、お父さんを見かけて……」
少女は縋るように私を見上げた。
「お父さん、お願いします。わたしを助けてください!」
思わず、鼻で笑いそうになった。
この娘がマルローネの娘である可能性は高い。
だが、私が父親であることは絶対にない。
マルローネが私のもとから姿を消した時期を考えれば、私との間に生まれた娘は、今は少なくとも11歳になっているはずだ。
1年、計算が合わない。
おそらくこの少女は、本物の娘から指輪を手に入れ、その名と血筋を騙っている。
とっさにこれほどの嘘をついたのだとすれば、大したものだ。
いや、母親だという女からそう教え込まれ、本気で信じている可能性もある。
どちらにせよ、愚かな娘だ。
しかし、私はこの少女を面白いと思った。
そこで、ふと脳裏に浮かんだ。
昨日、私からの誘いを断った忌々しい孤児。
ミルロという名の小娘だ。
伯爵家から直々に声をかけてやったというのに、あの娘はその価値を理解しなかった。それどころか、私より爵位の低い男の申し出を選んだ。
どうせなら、この偽物を使って嫌がらせをしてやろうか。
精霊とは契約できなかったらしいが、ミルロと同い年だ。
今はまだ、具体的な策などない。
それでも手元に置いておけば、いつか駒として使えるかもしれない。
所詮は余興だ。
役に立たなければ、捨てればいい。
何しろ、こいつは私と血のつながりなどない、ただの嘘つきなのだから。
「分かった。私について来い、カワリ」
少女の顔が明るくなる。
「苦労をかけたな」
「はい、お父さん!」
カワリは嬉しそうに、私のもとへ駆け寄った。
馬鹿め。
私は1度も、お前を娘として迎えるとは言っていない。
その浅はかさがあまりに滑稽で、私はこらえきれず笑みをこぼした。
◇
そうして、名もなき少女は、本物のカワリが最後まで拒んだ道を選んだ。
誰にも頼らず、自分の力で未来を切り開こうとした本物のカワリとは違う。
少女は大切なお姉ちゃんの名を騙り、お姉ちゃんが父と呼ぶはずだった男へ縋った。
それが間違いだったと、10歳の少女に分かるはずもない。
この日、少女は孤児の暮らしから救い出された。
けれど、ニュギュウ伯爵が差し伸べた手は、救いではなかった。
それが自分を閉じ込める檻になることも知らないまま――少女は、カワリとしての人生を歩き始めた。




