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第27話 弓を打てない距離

テラとリリスへ個人訓練を提案した、その日の放課後。


 わたしは地面へ敷いた布の上に座り、《青龍の弓》を手の届かない場所へ置いていた。


 矢を放つためではない。


 身体の中を巡る魔力だけに、意識を集中させるためだ。


『ずいぶん静かね、ミルロ』


 雪と氷の精霊ユキメが、わたしの膝の上へ舞い降りた。


「考えを整理しています」


『入れ替え戦のこと?』


「はい」


 A・Bクラスの入れ替え戦まで、残り二週間。


 最初の一週間は個人の能力を高め、最後の一週間で三人の連携を仕上げる。


 そう提案したのは、わたし自身だ。


 テラとリリスは、それぞれの弱点と向き合い始めている。


 では、わたしが伸ばすべき力は何なのか。


 攻撃力なら、すでに奥の手がある。


 《青龍の弓》を使い続けるうちに、わたしは弓へ残された青龍の力を、一つだけ引き出せるようになっていた。


 青龍が使っていた、あらゆるものを凍りつかせる《氷獄の息吹》。


 その力を一本の矢へまとわせて放つ――《ブリザードアロー》。


 今のわたしが使える、最も強い矢だ。


 ただし、消費する魔力も桁違いに大きい。


 限界は五発。


 それ以上放てば、普通の氷矢を作る魔力すら残らない。


 その威力を、まだメイ様に見せたことはない。本番まで隠しておくつもりだ。


 けれど、それはメイ様も同じだろう。


 わたしが《青龍の弓》を使いこなしたように、メイ様も《青龍の剣》から新たな力を引き出しているはずだ。


 三年間、誰より近くで戦ってきたから分かる。


 あの方が、今見せている速さだけで満足するはずがない。


「わたしに切り札がある以上、メイ様にも必ずあります」


『それでも、勝てる?』


「一対一なら、五分五分だと思います」


 遠距離から先に《ブリザードアロー》を当てるか。


 メイ様がわたしの矢を潜り抜け、剣の間合いへ入るか。


 勝敗を分けるのは、ほんの一瞬だ。


 けれど、入れ替え戦は一対一ではない。


 メイ様と同じAクラスから選ばれた二人がいる。


 どのような魔法を使い、どれほどの力を持つのか、わたしはまだ知らない。


 今のテラとリリスが、その二人を相手に長く戦い続けるのは難しいだろう。


 ならば、わたしが二人を支えなければならない。


 ゲームの中のミルロが、そうしていたように。


     ◇


 ゲームに登場したミルロは、後方から仲間を支えるヒーラーだった。


 傷ついた仲間へ氷の癒やしを与え、戦線を立て直す。それが、本来のミルロに与えられた役割だ。


 この世界で回復魔法を使えるのは、アリアの光属性だけではない。


 光属性は、精霊や呪いにまで作用する特別な力だ。その希少さゆえ、一般的な治療には、水属性と氷属性の魔法が多く用いられている。


 水で生命の流れを整え、氷で傷口と乱れた魔力を安定させる。


 氷属性のわたしにも、回復魔法を使える素質はあるはずだった。


「ユキメ。もう一度、お願いします」


『分かったわ』


 弓弦で擦れた左手の指へ、右手をかざす。


 傷というほど深いものではない。薄く赤くなり、触れるとわずかに痛む程度だ。


 それでも、回復魔法が働いたかを確かめるには十分だった。


 冷気で指先を凍らせるのではない。


 乱れた魔力を鎮め、身体が元へ戻ろうとする力だけを助ける。


 何度も教わったとおり、ユキメへ魔力を流す。


 わたしの魔力がユキメを介して淡い青白い光へ変わり、指先を包んだ。


 けれど、指に残る赤みは何も変わらない。


「……やはり、駄目ですか」


『ミルロの魔力は、すぐに形を作ろうとするの』


 ユキメが、わたしの手へ触れた。


『癒やすためには、優しく身体へ溶け込ませなければならない。でも、ミルロの魔力は弓や矢になろうとしてしまう』


「長年、そればかり鍛えてきましたからね」


 氷の弓を作る力。


 何本もの矢を同時に操る力。


 敵との距離を保つため、自分の身体を強化する力。


 わたしは使える魔力のほとんどを、その三つへ注ぎ込んできた。


 回復魔法の練習をしてこなかったわけではない。


 けれど、何年試しても一度も発現しなかった。


 入れ替え戦までの短い時間で、長年できなかったことが急にできるようになるとは思えない。


「それでも、今より強くならなければ……」


「何を難しい顔で悩んでいる?」


 背後から声がした。


 振り返ると、演習場の入り口にゲイルが立っていた。


 その肩には、アイスクリームのような精霊ハゲンが浮かんでいる。


「ゲイル。どうしてこちらへ?」


「お前を探していた」


 ゲイルはわたしの前まで来ると、背筋を伸ばした。


 そして突然、深く頭を下げた。


「ミルロ・マルチーズ。改めて謝罪させてほしい」


「代表決定戦の後にも、謝っていただきましたが」


「あの場では、敗北直後の勢いで言葉にしただけだ。今度は、きちんと謝りたかった」


 頭を下げたまま、ゲイルは続ける。


「噂だけを信じ、お前を不正を働いた人間だと決めつけた。同じ騎士の家に生まれた者として、礼を欠いた態度だった。本当に申し訳ない」


 真面目な人なのだろう。


 だからこそ不正という言葉を許せず、わたしへ強く当たった。


「顔を上げてください。もう気にしていません」


「許してくれるのか?」


「次からは、噂だけで人を判断しないでくださいね」


「肝に銘じる」


 ゲイルが顔を上げる。


「それと、もう一つ頼みがある」


「何でしょう?」


「どうしても、Aクラスに勝ってほしい」


 その声は、謝罪していたとき以上に真剣だった。


「俺たちは代表決定戦で負けた。だが、お前たちと戦ったことで、Bクラスにも勝てる可能性があると初めて思えた」


 ゲイルが演習場の外へ目を向ける。


 以前なら放課後と同時に帰っていたBクラスの生徒たちが、離れた場所で魔法や剣の練習をしている。


「今では、ほかの連中も勝負を気にしている。最初から負けるための試合ではないと、お前たちが教えたんだ」


「ゲイル……」


「俺にできることがあれば、何でも協力する。だから、勝ってくれ」


 差し出された手を、わたしは握った。


「分かりました。力を貸してください」


「もちろんだ。それで、何をすればいい?」


「回復魔法を使えるようになりたいのです」


「俺には教えられない」


 即答だった。


「もう少し考えてから答えていただけませんか?」


「俺も氷属性だが、回復魔法は使えない。できない者同士で悩んでも、時間が減るだけだ」


「正論ですね……」


「それより、先に直すべき弱点がある」


「わたしの弱点ですか?」


 ゲイルは、地面に置かれた《青龍の弓》を指した。


「弓を持て」


     ◇


 弓を拾い、ゲイルと十歩の距離を空けて向かい合う。


「俺をAクラスの代表だと思え」


「メイ様ほど速くはありませんよ」


「分かっている。まずは普段どおりに戦ってみろ」


 ゲイルが地面を蹴った。


 ハゲンの冷気が足元へ集中し、氷の上を滑るように距離を詰めてくる。


 わたしは両脚へ魔力を流した。


 身体強化。


 地面を蹴ると同時に後方へ跳び、ゲイルが進んだ以上の距離を取る。


 氷の矢を作り、弦へつがえ、引き絞った。


 ゲイルが最初の十歩を詰め切るより早く、矢の先がその胸元を捉える。


「これで終わりです」


「……やはり、普通に戦えば俺では届かないか」


 ゲイルが足を止め、木剣を下ろした。


「当然です」


「だが、それでは弱点を克服する訓練にならない。次は身体強化を使うな」


「それでは、実際の模擬戦とは条件が違います」


「これは俺に勝つための訓練ではない。身体強化が間に合わなかったときや、ほかの魔法へ力を割いているときに、生き残るための訓練だ」


 ゲイルは木剣を構え直した。


「王女殿下がお前の身体強化を上回る可能性もある。接近を許した時点で何もできなくなるなら、その一度で負けるぞ」


 反論できなかった。


「分かりました。身体強化は使いません」


「氷壁で最初から進路を塞ぐのも禁止だ。俺がお前の間合いへ入ったところから対処しろ」


「ずいぶん不利な条件ですね」


「不利な状況を覆す方法を探しているのだろう?」


「……もう一度お願いします」


 条件を変えた最初の一戦。


 身体強化を使わずに矢を作ろうとした瞬間、懐へ入られた。


 次は横へ逃れようとしたが、進路を読まれた。


 さらに後方へ下がりながら弓を引こうとして、木剣を突きつけられた。


「メイ様がこの距離まで来たら、どうする?」


 胸元へ木剣を突きつけたまま、ゲイルが尋ねる。


「……どうしましょう」


「まったく考えていなかったのか?」


「接近される前に止めるつもりでした」


「止められなかった場合を聞いている」


 答えられない。


 通常の相手なら、身体強化と弓術で近づかれる前に止められる。


 けれど、相手はメイ様だ。


 わたしの想定を超えて懐へ入られる可能性は、決して低くない。


 弓は、距離があってこそ力を発揮する武器だ。


 敵に触れられるほど近づかれれば、長い弓身も、矢を引く動作も邪魔になる。


「剣は使わないのか?」


「使えません」


「弓術がそれほど得意なのに?」


「剣術には、驚くほど適性がなかったのです」


 ゲイルが信じられないという顔をした。


「そこまで言うほどか?」


「試してみますか?」


 木剣を借り、正面に構える。


 重心をどこへ置けばいいのか分からない。


 右手と左手の力も揃わず、剣先が小刻みに揺れる。


「その構えは……何だ?」


「わたしにも分かりません」


 振り下ろすと、剣はゲイルから大きく外れ、土へ深々と突き刺さった。


 抜こうとしても、なかなか抜けない。


『ミルロ。弓を使っているときと、別人みたい』


「ユキメ、わざわざ言わなくても分かっています」


『ここまでとは……』


 ハゲンまで絶句している。


「剣は諦めよう」


「そうしていただけると助かります」


「なら、格闘術はどうだ?」


 ゲイルが木剣を置いた。


「ダイフクン家では、剣を失ったときのために体術も学ぶ。力で殴り倒すものではない。相手の勢いと重心を利用して投げる技だ」


「相手の力を利用する……」


「王女殿下が速いほど、利用できる力も大きくなる」


 ゲイルが、わたしの右腕をつかんだ。


「試しに、俺を押してみろ」


 言われたとおり、前へ力を加える。


 次の瞬間、ゲイルの身体が横へずれた。


 伸びきった腕を引かれ、足を払われる。


 視界が一回転した。


 背中から地面へ落ちる寸前、顎を引き、腕で地面を打つ。


 衝撃を逃がし、そのまま横へ転がって立ち上がった。


「今の受け身は……」


 ゲイルが目を見開いている。


 わたし自身も驚いていた。


 前世で綾だった頃、ほんの少しかじった柔道。


 忘れていたはずの動きが、意識の奥から呼び起こされ、とっさに今の身体を動かした。


「ずっと昔に、少しだけ似た技を習ったことがあります」


「マルチーズ家にも同じ体術が?」


「そのようなところです」


 まさか、別の世界で習いましたとは言えない。


「なら、話は早い。今度はお前が俺を投げろ」


「はい!」


     ◇


 もちろん、すぐに成功したわけではなかった。


 腕だけで投げようとして、逆に引き倒された。


 足の位置を間違え、ゲイルと一緒に転んだ。


 相手の勢いを利用するはずが、自分から力を入れすぎて、簡単に踏ん張られた。


 それでも、技の考え方は理解できる。


 正面から力をぶつけず、流れを変える。


 重心が浮いた一瞬だけ、自分の腰と足を使う。


 前世で習った動きと、ダイフクン家の体術はよく似ていた。


 一日目は、何度やっても投げられなかった。


 二日目には、ゲイルの足が一度だけ浮いた。


 三日目。


 わたしたちは再び、十歩の距離を空けて向かい合った。


「条件はこれまでと同じだ。身体強化と、俺が接近する前の攻撃は禁止する。氷壁で進路を塞ぐのもなしだ」


「はい」


「今度も、俺を王女殿下だと思え」


「メイ様は、そんなに怖い顔で突撃してきませんよ」


「顔は関係ない!」


 ゲイルが木剣を構え、氷の上を滑る。


 わたしは身体強化を使わず、その場で動きを見据えた。


 速い。


 けれど、代表決定戦のときより、その動きがよく見える。


 剣先だけを見ない。


 踏み込む足、肩の向き、身体の重心。


 木剣が振り下ろされる直前、わたしは《青龍の弓》を足元へ落とした。


 同時に薄い氷を作り、弓身の端を留める。


 そのままゲイルの懐へ一歩踏み込んだ。


 右手で手首を取り、左腕を肘の下へ入れる。


 勢いを止めず、身体を回す。


「なっ――!」


 ゲイルの両足が地面から離れた。


 大きな身体が弧を描き、背中から演習場の土へ落ちる。


 投げた。


 でも、これで終わりではない。


 弓を留めていた氷を解き、足元へ新たな薄い氷を作る。


 後方へ滑りながら《青龍の弓》を拾い上げ、弓を使える距離まで離れた。


 氷の矢を作り、弦へつがえる。


 ゲイルが起き上がったときには、その胸元へ矢の先を向けていた。


「わたしの勝ちですね」


「……三日で投げられるとは思わなかった」


 ゲイルは土を払いながら立ち上がる。


「だが、勘違いするな。王女殿下は俺より速く、力も強い。同じように投げられる保証はない」


「一度で十分です」


「一度?」


「弓を引ける距離へ戻る機会が、一度あれば」


 五本の《ブリザードアロー》。


 そして、接近されたときに一度だけ使える投げ技。


 もちろん、本番では身体強化も氷壁も使う。


 この投げ技は、それらをすべて突破されたときに使う、最後の手段だ。


 回復魔法は、まだ使えない。


 接近戦が得意になったわけでもない。


 けれど、今のわたしにできる戦い方は、確かに増えた。


「ありがとうございます、ゲイル」


「礼を言うのは、Aクラスに勝ってからだ」


「では、勝った後にもう一度」


「必ず聞かせてもらう」


 ゲイルが差し出した拳へ、わたしも拳を軽く当てた。


 弓が使えない距離を、恐れる必要はない。


 そこで勝とうとしなくていい。


 もう一度、弓を射てる場所へ戻ればいいのだから。

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