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第10話 氷獄を貫く矢

放った氷矢が、青龍の吐き出した白い奔流と正面からぶつかった。


 青白い光に呑み込まれ、矢が消える。


 そう見えたのは、一瞬だけだった。


「ユキメ!」


『うん!』


 わたしの魔力を受け取ったユキメが、その力を氷へ変える。


 矢を中心に、螺旋状の氷が広がった。


 青龍の息吹を止めることはできない。


 正面から押し返す必要もない。


 流れを、左右へ分ければいい。


 巨大な氷矢が回転しながら白い奔流を切り裂き、その後ろに人一人が通れるほどの細い空間を作り出す。


 周囲の岩も地面も凍りついていく中、そこだけが青龍へ続く一本道になった。


「行ってください、メイ様!」


「言われなくても!」


 メイ様が駆け出した。


 左右を荒れ狂う冷気が、金色の髪を白く染める。


 道は長くもたない。


 先頭を進む氷矢には、青龍の魔力によって無数の亀裂が走っていた。


「まだです……!」


 弓を握る左手から、さらに魔力を注ぎ込む。


 矢が砕かれるたびに新しい氷を重ね、押し潰されかけた空間を広げていく。


 腕の感覚が薄れ、視界が白くかすんだ。


 それでも、メイ様が走っている限り、道を閉ざすわけにはいかない。


『小賢しい!』


 青龍が息吹を強める。


 氷矢が、ついに先端から崩れ始めた。


 あと十歩。


 メイ様が青龍へ届くより先に、矢が砕ける。


 しかも、その手に残っているのは、半ばから折れた剣だけだ。


「ミルロ、あと少しよ!」


「分かっています!」


 残る魔力を氷矢へ注ぎ込む。


 大きく開いた亀裂を塞ぎ、崩れかけた先端を強引に作り直した。


 あと五歩。


 三歩。


 一歩。


「《雷装》!」


『行くよ、メイ!』


 金色の雷が、メイ様の全身を包む。


 青龍の懐へ飛び込み、折れた剣を振り上げた。


 狙うのは、硬い額でも胴体でもない。


 息吹を吐くために持ち上げられた顎。


 その下に、周囲とは異なる鱗が見えた。


 青い鱗の中に一枚だけ、逆向きに生えた白い鱗がある。


 弱点だという確証はない。


 けれど、狙うならそこしかない。


「メイ様、顎の下です!」


「見えているわ!」


 メイ様が、最後の一歩を踏み込んだ。


「はあああああっ!」


 雷をまとった折れた剣が、白い逆鱗を斬り上げる。


 轟音。


 青龍の息吹が途切れ、白い冷気が夜空へ散った。


 メイ様の剣が完全に砕ける。


 その全力を受けても、逆鱗は割れなかった。


 表面に、髪の毛ほど細い亀裂が一本走っただけだ。


『ほう』


 青龍が、わずかに目を見開いた。


 メイ様の身体が攻撃の反動で宙へ投げ出される。


 息吹から解放されたわたしは地面へ新たな矢を放ち、氷の坂を作った。


 メイ様の身体が、その表面を滑りながら戻ってくる。


「やった……?」


 メイ様が荒い息をつく。


「傷はつけました。ですが――」


 青龍は倒れていない。


 巨体が揺らいだ様子さえなかった。


 逆鱗に残された細い亀裂を確かめるように、青龍が首を動かす。


『我が鱗へ傷をつけるか。小さき者と侮っていたが、なかなか楽しませてくれる』


 青龍の声には、怒りよりも喜びが滲んでいた。


『ならば、次はこれを防いでみせよ。我は氷だけを操るのではないぞ』


 二本の角が、青白く輝き始める。


 浮かぶ丘の上空へ雲が集まり、その内側で雷が鳴った。


 青い稲妻が、浮かぶ丘へ降り注ぐ。


「散って!」


 わたしとメイ様は左右へ分かれた。


 地面を穿つ雷を避けながら、わたしは矢を放つ。


 一本目で青龍の右前脚と地面を凍らせる。


 二本目で左後脚。


 三本目は岩へ撃ち込み、膨らませた氷で巨大な尾の軌道を塞いだ。


 どれも青龍を倒すためではない。


 次の攻撃を、一瞬だけ遅らせるための矢だ。


 青龍が力を込めるたび、拘束した氷が砕けていく。


『そこか!』


 頭上から雷が落ちた。


 避けきれない。


 身をひねった直後、右肩のすぐ脇を雷がかすめた。


「うっ……!」


 地面へ転がり、銀色の弓が手から離れる。


 焼けるような痛みと痺れで、右腕が動かない。


 青龍の前脚が、わたしの頭上へ持ち上がった。


『まずは一人』


「ミルロから離れなさい!」


 金色の光が、青龍の横顔へ激突した。


 メイ様の蹴りが巨体をわずかに揺らし、振り下ろされた前脚の向きをそらす。


 爪がわたしのすぐ横へ突き刺さり、岩盤が割れた。


 次の瞬間、青龍の尾がメイ様を薙ぎ払う。


「メイ様!」


 小さな身体が地面を跳ね、岩へ叩きつけられた。


 メイ様は立ち上がろうとしたものの、その場へ膝をつく。


 身体を覆っていた《雷装》も、消えかけていた。


『メイ、もう駄目だよ! これ以上は身体がもたない!』


「まだ……終わっていないわ」


『残っている魔力も、ほとんどないんだ!』


「メイ様! ライラの声を聞いてください!」


「でも、このままではあなたが――」


「一人で勝とうとしないでください!」


 左手を地面につき、無理やり身体を起こす。


 右腕は使えない。


 それでも、まだ左腕は動く。


 地面に落とした銀色の弓を拾い、その下端を岩の隙間へ差し込んだ。


 動かない右腕でも、指先にはわずかに感覚が残っている。


 右手の指へ弦をかけ、動く左腕で弓の握りを前へ押し込む。


 右腕で弦を引けなくても、弓そのものを反らせれば張力は生まれる。


 震える右手へ、普段の半分ほどしかない短い氷矢をつがえた。


 大きくは引けない。


 けれど、狙う場所までの距離は十メートルもなかった。


 狙うのは、メイ様が逆鱗へ残した細い亀裂。


 わたし一人の矢では、青龍の鱗を傷つけられない。


 けれど、すでに生まれた傷へ正確に矢を届けることならできる。


「わたしが逆鱗の亀裂を射抜きます。メイ様は、青龍の動きを一瞬だけ止めてください」


「止めるって、どうやって……」


「メイ様は、雷を遠くへ飛ばすことが苦手です」


「こんなときに喧嘩を売っているの!?」


「ですが、ご自分の身体や、触れたものへ流すことなら誰にも負けません」


 メイ様が息を呑む。


「青龍の懐へ入り、直接雷を流してください。倒す必要はありません。一瞬、身体を痺れさせてくだされば十分です」


『人の子の雷で、我を止めるだと?』


 青龍が愉快そうに喉を鳴らし、前脚を持ち上げる。


 メイ様はゆっくり目を閉じた。


「ライラ。残っている魔力を、全部雷に変えるわ」


『でも、無理をしたら……』


「無理やり力を引き出したりしない。あなたが変えられる分だけでいいわ」


『……分かった。僕とメイなら、まだ走れる!』


 消えかけていた金色の光が、再び灯る。


 先ほどまでのように激しく荒れ狂う雷ではない。


 メイ様とライラ、二人の呼吸に合わせて静かに脈打つ光だった。


「ミルロ。外したら承知しないわよ」


「誰におっしゃっているのですか」


 メイ様が笑った。


 次の瞬間、金色の雷が青龍の真下へ潜り込む。


 振り下ろされた前脚をかわし、その胸元へ両手で触れた。


「止まりなさいっ!」


 メイ様の両腕から、青龍の身体へ雷が流れ込む。


 硬い鱗を傷つけるための雷ではない。


 鱗の内側へ伝え、その巨体の動きを乱すための一撃だ。


『ぬうっ……!』


 青龍の四肢が硬直した。


 ほんの一瞬。


 それだけで十分だった。


「今よ、ミルロ!」


 白い逆鱗に残された、髪の毛ほどの亀裂。


 息を止める。


 弓を押していた左手から、最後の魔力を流し込む。


「ユキメ」


『うん。絶対に当てよう!』


 動かない右手の指を、弦から離した。


 短い氷矢が飛ぶ。


 十メートルの距離を越え、逆鱗の亀裂へ吸い込まれた。


 甲高い音が響く。


「広がって……!」


 亀裂の内側へ入り込んだ氷が、一気に膨らんだ。


 一本だった亀裂が二本へ。


 二本が四本へ。


 細い亀裂が枝分かれし、白い逆鱗の全体へ広がっていく。


 次の瞬間。


 青龍の鱗が、一枚だけ砕け散った。


 青白い欠片が流星の光を受け、星屑のように宙を舞う。


『――見事』


 青龍の動きを止めていた雷が消える。


 すべての魔力を使い果たしたメイ様は、その場へ膝をついた。


 わたしも銀色の弓から手を離し、地面へ座り込む。


「二人で全力を出して……鱗、一枚なのね」


 メイ様が、乾いた笑いを漏らす。


「そうみたいですね……」


 わたしたちの攻撃で砕けたのは、たった一枚の鱗だけ。


 その下にある青龍の身体には、浅い傷しかついていない。


 それなのに、わたしたちはもう立ち上がることさえできなかった。


 青龍が、ゆっくりと首を下ろす。


 巨大な顔が、膝をついたメイ様へ近づいていく。


 あれほどの攻撃を受けた青龍が、鱗を砕かれただけで満足するとは限らない。


(殺される)


 そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。


 わたしは残った力でメイ様のもとへ這い寄り、その身体を庇うように抱き締めた。


「ミルロ?」


「申し訳ありません、メイ様」


 わたしが青龍の話を持ち出した。


 沙耶から聞いただけで、一度も試していないゲームの知識を、軽い気持ちで口にしてしまった。


 ここは、ゲームの画面ではない。


 負けてもやり直すことはできない。


 メイ様が呪文を唱えたからではない。


 その言葉を教えたわたしが、危険を予想しなければならなかった。


(不用意に、ゲームの知識を持ち出すべきではなかった)


 わたし一人なら、まだいい。


 けれど、そのせいでメイ様まで死なせてしまう。


「せめて、メイ様だけは……」


 震える腕へ力を込める。


 盾にもならないと分かっている。


 それでも、青龍から少しでも遠ざけるように、メイ様を強く抱き締めた。


 ところが、青龍は攻撃してこなかった。


『何をしておる?』


 その声には、怒りではなく困惑が混じっていた。


「……とどめを刺さないのですか?」


『なぜ我がお前たちを殺す必要がある』


「だって、わたしたちは、あなたの鱗を……」


 青龍は砕けた逆鱗へ目を向ける。


 怒っている様子はない。


 むしろ、愉快そうに喉を鳴らした。


『我が鱗を一枚砕くとは、矮小なる人の子にしてはよくやった』


「一枚だけですけれど……」


『我の鱗を砕ける人間など、そうはおらぬ。まして、お前たちはまだ幼い。十分に誇るがよい』


 青龍が満足そうに夜空を仰ぐ。


 流星群は、いまだ途切れることなく降り続いていた。


『今宵は星が美しい。久方ぶりに、よい運動になったぞ』


「運動……?」


 メイ様が、わたしの腕の中で顔を引きつらせる。


「あれほど攻撃しておいて、運動だったの?」


『戯れに付き合うと言ったであろう』


「では、ずっと手加減していたのですか?」


『当然だ。我が本気で攻撃していれば、最初の氷柱で終わっておる』


 否定できなかった。


 メイ様とわたしは顔を見合わせ、そろって深いため息を吐いた。


「先に言いなさいよ……」


『言えば、お前たちはここまで力を振り絞らなかったであろう?』


 青龍の言うとおりだった。


 危険がないと知っていれば、あの一枚の鱗へ全力をぶつけることはできなかったかもしれない。


『だが、お前たちの力は確かに見せてもらった』


 青龍の金色の瞳が、わたしたちを映す。


『前へ進み、我が鱗へ亀裂を刻んだ雷の娘。そして、その小さな亀裂を見逃さず、正確に射抜いた氷の娘。どちらか一人では、我が鱗を砕くことはできなかった』


「わたしたち二人だから、できた……」


「はい」


 わたしは、抱き締めていたメイ様の身体から腕を離した。


『よかろう。今宵の戯れは、我を十分に満足させた。褒美を取らせよう』


 青龍の角が、淡く輝いた。


 冷たい光が、雪のように降り注ぐ。


 身体を包んだ光は冷たいはずなのに、不思議なほど心地よかった。


 焼けるように痛んでいた右肩から、熱と痺れが消えていく。


 裂けた皮膚が閉じ、打ちつけた身体の痛みもなくなった。


 メイ様の口元に流れていた血も消え、その呼吸が穏やかになっていく。


 青龍の操る氷は、凍らせ、砕くだけではない。


 傷ついた肉体を、傷つく前の形へ整えることさえできる。


 これほど精密で穏やかな氷魔法を、わたしは見たことがなかった。


「すごい……」


『驚くほどのことではない。氷を極めれば、これしきのこともできよう』


 青龍の言葉に、ユキメと顔を見合わせる。


『わたしたちにも、できるようになるかな?』


「分かりません。でも、目標にはできます」


『うん!』


『褒美も、すでに与えた』


「すでに?」


 周囲を見回す。


 けれど、武器らしいものはどこにもない。


 青龍はそれ以上答えず、長い身体を宙へ浮かべた。


 青い鱗が流星の光を反射し、夜空を泳ぐように昇っていく。


「もう行ってしまうの?」


『我を呼び出した星が尽きる。今宵の戯れは、これまでだ』


 メイ様が、飛び去ろうとする青龍を見上げる。


「また、あなたに会えるかしら」


 青龍は空中で一度身体をくねらせ、わたしたちを振り返った。


『もし本気の我と戦いたくなったなら、再びこの地で我を呼ぶがよい』


「本気の、あなたと……」


『そのときは、もはや手加減はせぬ。メイ、ミルロ――お主たちの挑戦を待っているぞ』


「ええ。次は、もっと強くなって挑むわ!」


「わたしも、今度は鱗一枚では終わりません」


『よい返事だ』


 青龍は愉快そうに笑い、さらに高く昇っていく。


 その巨体が青白い光へ変わり、流星群の中へ溶けていった。


 直後、夜空に一際大きな星が瞬いた。


 まばゆい光が、わたしたちと浮かぶ丘を包み込む。


「メイ様!」


「ミルロ、手を!」


 互いの手を握った瞬間、視界が真っ白に染まった。


     ◇


 光が収まり、恐る恐る目を開く。


 目の前に、見覚えのある木々が立っていた。


 遠くには、祭りの光に彩られた王都が見える。


 浮かんでいたはずの丘は、いつの間にか元の場所へ戻っていた。


 けれど、地面が降下した感覚も、着地した衝撃もなかった。


 古い石は最初に見たときと同じように並び、地面へ走ったはずの亀裂も綺麗に消えている。


「戻ってきた……のよね?」


「そのようです」


 わたしは立ち上がり、自分の身体を確かめた。


 青龍の雷がかすめた右肩には、傷一つ残っていない。


 腕も問題なく動く。


 メイ様も身体の各所へ触れ、何度か腕を回した。


「全部、治っているわ」


「丘も元どおりです。本当に青龍と戦ったのでしょうか」


「まさか、二人で同じ夢を見たの?」


 一瞬、本当にそうだったのではないかと思った。


 流星群の下で伝説の青龍を呼び出し、空に浮かぶ丘で戦った。


 あまりにも現実離れしている。


 けれど、身体の内側へ意識を向けた瞬間、その考えは消えた。


「魔力が……」


 ほとんど残っていない。


 傷と身体の疲労は完全に消えているのに、戦いで使い果たした魔力だけは戻っていなかった。


「夢では、なかったようですね」


「ええ。わたしの魔力も空っぽだわ」


 メイ様が腰へ手を当て、不意に動きを止めた。


「ミルロ」


「どうしました?」


「わたしの剣、こんな形だったかしら」


 メイ様の腰には、一振りの剣が収められていた。


 青い鞘から引き抜くと、透き通った刀身が流星の光を反射する。その奥では、細い雷が水脈のように脈打っていた。


 青龍との戦いで、メイ様の剣は完全に砕けたはずだ。


 それなのに、見覚えのない剣が腰へ差されている。


「もしかして、これが青龍の言っていた褒美?」


「おそらくは」


 そう答えたとき、背中に感じる重みが変わっていることに気づいた。


 今日購入した銀色の弓ではない。


 背負っていたのは、青い鱗を重ねたような美しい長弓だった。


 弦は青龍の髭のように細く、月明かりを受けて淡く輝いている。


 手に取った瞬間、丘を吹き抜ける風の流れが指先へ伝わってきた。


「わたしの弓まで……」


「やっぱり、夢ではなかったのね」


 メイ様は新しい剣を眺め、満足そうに頷いた。


「青龍からもらった剣だから、《青龍の剣》と名づけるわ」


「そのままですね」


「だったら、あなたの弓は《青龍の弓》よ」


「そちらも、そのままではありませんか」


「分かりやすくていいでしょう?」


 正式な名前があるのかもしれない。


 けれど、青龍は何も教えてくれなかった。


 結局、メイ様が思いついた名前を、そのまま使うことになった。


 翌日、王都では一つの噂が広まった。


 フェアリーデイズ・イブの流星群に、青龍の丘の上で、これまで誰も見たことのない巨大な星が瞬いた――と。


 その光の下で何が起きていたのか、知る者はいない。


 わたしたちの手に残された《青龍の剣》と《青龍の弓》だけが、あの戦いが夢ではなかったことを証明していた。

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