十五話
※
窓の外は既に日が沈みきり、暗闇が空を覆っている。ローズマリーは、キッチンに備え付けてある受話器の前に立ち尽くしていた。
時折返事を返し、相槌を打つ。その様子を、洗った食器を拭きながらユズリハが見つめていた。
「……ああ、分かった。ありがとう」
受話器を置いた彼女は、何も喋らずにダイニングへと座る。俯いたままのローズマリーの側に、キッチンから出てきたユズリハは水の入ったグラスを差し出した。
「……司令は何と?」
彼女の向かい側に腰掛け、ユズリハが問う。
ローズマリーは、首を横に振った。
「……脳浮腫が酷いらしい。意識も、まだ戻ってない」
「………………」
軍が所有する病院に収容された子供達の身を案じ、両手で顔を覆ったローズマリーは深い息を吐き出した。
船に連絡があったのは、ユズリハが夕飯の支度を始めた頃だった。ユズリハが最初に受話器を取ると、電話の向こうに居たのはフェンネルで、彼は少しくぐもった声で「暴行事件を起こした」と告げた。
驚いたユズリハはすぐにローズマリーを呼ぶが、「聴取があるから、また連絡する」と言い残し、フェンネルは通話を切った。
次に掛かってきたのが、先程の電話だった。それはフェンネルではなく司令官のバーベインで、子供達が中心街の医療センターへ搬送、そこで聴取も受けているとの説明だった。
《リンデン君の容態は緊急を要したからね、こちらで勝手に入院手続きをさせてもらったよ。面会については、事情が事情だから明日以降で頼みたい。日が昇った頃、顔を見せに行くと良い》
司令官が直々に電話を掛けてくると言う事は、余程重大な事件に発展してしまったのだろう。「資料を送る」と言われて待つ事数十分、コントロールパネルの通信ランプがブザーと共に点滅し、ユズリハが印刷ボタンを押せば、受信した暗号メッセージは数枚の紙となって吐き出された。
「……おいおい」
ダイニングまでの移動中、軽く資料に目を通したユズリハが思わず呟く。
「……バーベイン殿から?」
「こりゃ酷いぞ。確かに電話では説明しづらい」
ローズマリーは資料を受け取る。しかし、内容を呼んでいく毎に彼女の顔が青褪めていった。
「これを全部、『自分がやった』とフェンネルは話しているらしい」
「……そんな、まさか」
その内容は、まさに目を疑うようなものだった。
脚や腕を千切られ切り落とされるなどの重傷者が十四人。身体の切断は無かったが、至る所を骨折した者が一人。打撲などの軽傷が一人、そして、意識不明で搬送されたのが一人。
「……リン……」
脳浮腫、と聞いて強い衝撃を頭に受けたのかと思ったが、ローズマリーは資料を見返しても、リンデンに目立った外傷は無かったらしい。
突発性のものか、感染症か……しかし幾ら考えても、ローズマリーには一つの結論しか出てこなかった。
ユズリハも、この事件を起こした人物に確信を持って資料をテーブルに置いた。
「……やったのはリンデンだな」
「……私も、そう思った」
背凭れに体重を掛け、ローズマリーは天井を仰ぐ。
「脳浮腫は、強大な能力を自力で抑え込んだ後遺症だろう……あの子は『暴走』したんだ」
「……危惧していた事が起きたな。リンデンは、他人に危害を加えた」
「分かってる」
グラスを手に取り、彼女は水を一気に飲み下す。息を吐き、グラスを机に叩き置くと、徐ろにダイニングから腰を持ち上げる。
「行こう。あの子達を迎えに行く前に、やる事が山程ある」
「……良いんだな?」
「リンデンはフェノンを守った。昏睡する程にまで、頑張って自力で能力を抑え込んだんだぞ。……それで充分じゃないか」
誰も傷付けない。誰も殺さない。
自分達と交わした約束を、暴走し我を忘れても守り抜いてくれた事がこんなにも嬉しく思う。
ローズマリーの眼差しにユズリハも笑みを浮かべ、「そう言うと思ってた」と席を立った。
「指示をくれ、キャプテン。何から始める?」
「関係者全員の尻に火を付けて炙り出す。ユズ君は資料に記載されている事の裏取りと証拠集めを頼む」
「了解だ。三時間で終わらせてくる」
「魂を抉り出して洗い晒しにしてやろう。私の可愛い息子達を傷付け悲しませた罪、その身を以て償わせてやる」
リンが頑張ってくれたんだから、今度は『大人』が頑張る番だ。
ローズマリーとユズリハは、顔も合わせず静かに拳を突き合わせた。
※
リンデンが眠るベッド脇の簡易ベンチに深く腰掛け、フェンネルは静かに菜箸を動かしていた。竹で出来た菜箸には解いたブランケットの赤い綿糸が幾重にも編み込まれ、縦と横に黒い糸を混ぜながら、三本ずつの黒いチェック模様を入れていく。
時刻は午前二時を回った所だ。昼間、あの一件から目を覚まさないリンデンの側に、フェンネルは休む事無く寄り添い続けていた。
「………………」
勿論、フェンネルも疲れている。時折迫りくる睡魔に瞼を下ろすが、その瞬間、昼間の事や『以前の一件』が鮮明にフラッシュバックし、その都度、彼は息を切らして飛び起きる事になる。
後に残るのは、強い嫌悪感と震える程の恐怖心。明らかに、『モルス』体の汚染症状だった。
サカキが作成した制御装置の試作品は、リンデンの能力を抑え切れずに壊れてしまった。詳しい仕組みを知っているのはサカキのみ、その彼も、多数の骨折で向かい側のベッドに眠っている。
『家族』の面会も、警護の問題で明日以降になる、と言ったのは「見舞いに来た」と微笑んだ司令官だ。アニスは報告と事故処理もあるため、司令官と共に医療センターを後にした。
これ程までに、誰かと話をしたいと思った事はない。フェンネルは完成した赤いスカーフを広げ、そして深い溜め息を吐き出した。
どうしたものか。点滴に繋がれ、眠るリンデンの顔を見つめる。すると、その赤い瞳が不意に開かれてこちらを向いた。
「!」
「……フェン、ネル」
こちらに気付いた瞬間、リンデンは瞳を潤ませて滴を零す。「ごめん」と呟く彼の頬に手を当て、フェンネルはその涙を指で拭った。
「……泣き虫め」
「フェンネル……怪我、してる」
「軽く殴られただけだ、明日には腫れも引く」
「でも……」
「落ち着け、ここは『病院』だ。危険は無い」
「びょういん……」
フェンネルに促され、リンデンは辺りを見渡す。見慣れない空間に少しだけ戸惑っていたが、フェンネルの様子も伺いながら、本当に危険が無いと分かるとホッとしたのか軽く息を吐いた。
「……顔色が悪いな。具合どうだ」
「ちょっとだけ……気持ち悪い」
「じゃあ、まだ横になってた方が良い。そのまま寝ちまえ」
「……制御装置、壊しちゃった」
「心配すんな。サカキが起きたら、また作ってもらえば良い」
「サっちゃんは?」
「まだ寝てる。今は夜中だからな」
リンデンは窓の外を見る。暗闇に包まれたガラスの向こうには、外の街灯が僅かに覗く程度で景色は無い。
「……あれから、どうなったの?」
彼の問いに、フェンネルは僅かに視線を下げた。
「……どうもしねぇよ。片付けて終わった」
「俺……いっぱい、怪我させた」
「覚えてるのか?」
「……ちょっとだけ」
あの時、あの瞬間。懸命に、闇の中から這い出そうと藻掻いていた。深い海の中で、足を絡め取られて動けなくなっていくような感覚だった。
水底へ引き摺り込まれそうになった時、突然目の前に強い光が差したのを覚えている。
温かく心地良い風が自分の名を叫びながら、身体を蝕んでいた闇を吹き飛ばし、光の中へ掬い上げてくれた。
「フェンネルが……止めてくれた気がした。声が聞こえたの」
「……そうか」
リンデンの話を聞きながら、フェンネルは包帯で巻かれた自分の右手を擦る。利き手を怪我する、という失態は犯してしまったが、それでも、自分の行いが間違っていなかったのだと解り、嬉しさと照れで心がむず痒くなった。
「俺は殆ど何もしてねぇよ。お前だって、自力で能力を抑え込もうとしてただろ」
「……最初だけだよ。アイツの顔見たら、訳わかんなくなっちゃった……誰も傷付けないって、約束したのに……」
「故意に傷付けた訳じゃねぇだろうが。それに……」
「アニスちゃんに言われたの。俺は、本能的に人間の壊し方を知ってるって」
「!」
フェンネル達が連れ去られた直後、アニスは他者を傷付け殺めてしまうかも知れない己に怯えるリンデンに、機転を利かせた言い回しで激励した。
リンデンの攻撃は、恐らく一撃必殺。人体の破壊方法を熟知している人間は、どこを狙えば生かしておけるか理解できる筈だ、と。
フェンネルの言った通りに怒りを制御し、アニスのアドバイス通りに急所を外して攻撃する。抑えきれない力の中で懸命に理性を掻き抱いて、リンデンは『敵』を判断し襲った。
「でも……止められなかった」
瞬きする度に、目尻から溢れる涙を見つめる。彼の右頬に刻まれた火傷の跡に沿って、涙の道が曲がって首に流れていった。
「……俺は感謝してる」
「……え?」
「お前が助けに来てくれて……う、嬉しかった……と、思う」
「…………」
左側が大きく腫れた顔を真っ赤に染めて、後ろを向きそうな程に顔を背ける。唖然と見つめてくるリンデンに「見るな」と呟く彼は、「何か言えよ」と口を尖らせた。
彼は、恥ずかしがっている。鼓動が早くなって、体温が上がって、気持ちを落ち着かせようと息が深く長くなる。
こんなにも、美しい。生きている事が、こんなにも『愛しい』とは。
「……だから、泣くなっつってんだろうが」
「もう……大好き……!」
「きめぇうぜぇふざけんな次言ったら喉笛抉り出してやるからな」
「怖いよぉ……」
涙を袖で何度も拭い、リンデンは満面の笑みをフェンネルに向ける。最初は不貞腐れた顔を向けていた彼も、溜め息を一つ吐き出してリンデンの髪を後ろへ撫で上げた。
「今日はもう寝ろ。明日はローズ達が来る」
「……一緒にいて。ここで寝てもいいから」
「こんな狭いベッドに二人でか? 嫌に決まってんだろ」
お前が寝るまで、手ぇ握っててやるから。
微笑んだリンデンとフェンネルは固く手を繋ぎ、ベッドに頭を乗せたフェンネルの方へとリンデンも寝返りを打つ。お互いの呼吸に耳を傾けながら、二人はそのまま夢の中へと沈み込んでいった。
翌朝七時、フラッシュバックが起きずに眠れた事を、フェンネルは首を傾げながらも一人で驚いていた。
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