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二話

よろしくお願い致します。



 ここは何処だ。

 それが、目を覚ました少女が最初に思った事だった。

 目を動かして天井に張り巡らされた細い鉄のパイプを辿り、次に首を動かして四面の壁を見渡す。室内の壁には掲示板のような物が設置されており、そこには幾つか張り紙がされていた。

 業務的なものや、野菜や果物の様な植物と一緒に、日用雑貨が描かれた広告……掲示の種類は豊富だが、そこに書かれている内容や文章は少女には理解できない。

 他、設置されたテーブルに置かれた文房具らしきものや器具、床に置かれた箱の様な機械。決して広くはないが、消毒液の匂い漂う整頓された部屋。

 少女にとって、そこはまさに異世界そのものだった。


「………………あー……」


 声は出る。耳も聞こえる。次に少女は上体を起こし、己の手や身体を見下ろしてみた。

 袖の無い、見慣れぬ白いヒラヒラとした衣服。そこから伸びる濃い褐色の腕に、これまた見慣れぬ半透明の管が伸びているのを見つける。その管を辿れば、銀色の棒に吊るされた、透明の液体が入った袋に行き着いた。

 少女は何故か、それが『身体に液体を入れるもの』とすぐに理解した。確かこれは、血管から直接栄養や水分を入れるための装置だった筈。だとしたら、自分に繋がった管の先には針が付いている。

 少女は時折流れてくる長い紺色の髪を掻き分けながら、管を覆っていたシール状の包帯を剥がし、何処か慣れた様子で点滴針を引き抜くと、その針を小さな手の中に包み隠した。

 逃げなければ。本能的にそう感じたが、ここから出るには、まず何をすべきか。

 そんな事を考えた時、突然部屋に響いたノックの音に彼女は肩を飛び上がらせた。

 最初に二回、一秒空けて、もう二回。「失礼します」という低い声を聞いて、少女は点滴針を握り締め、背を壁にするためベッドの隅へと身を隠すように詰めた。


「入りますね」


 ドアが外側に開き、見覚えの無い男が液体の入ったボトルとグラスを乗せたトレーを持って入ってくる。灰色の髪をヘアバンドで上げた厳つい見目をしたその男は、上着を着ていてもその体格の良さが分かる程に筋肉質な身体をしている。背も高く、袖からは太い腕と、夜明け前の空の様な薄い青色の肌が覗いていた。

 己が立ち向かって勝てる相手ではないだろう。だが、怯ませ逃げる事は可能だろうか?

 少女は男の仕草や動きを見ながら、頭の中を高速で回転させていく。しかしそんな彼女に気付いたのかか否か、男は少しだけ苦笑を浮かべ、優しい声音で少女に声を掛けた。


「カメラで確認していたら、貴方が目を覚ましたのを見かけましてね。気分はどうです?」


 柔らかい口調。そして聞き慣れた言語に、少女はほんの僅かに眉間の皺を緩めた。

 彼女から見た大男は、その大きな背を堂々と彼女に向けて持ってきたトレーからグラスとボトルをサイドテーブルに移して並べている。相手に敵意は無いと感じた少女は、その小さな口を恐る恐る開いた。


「……ここは何だ」

「!」


 言葉を返してくれると思っていなかった男は、驚いた様子で少女に振り返る。視線が合い、男の反応の速さに少したじろいだ様子を見せた少女だったが、それを相手に悟られないよう健気に男を睨み返してくる。

 男はすぐに柔らかく微笑み、落ち着いた声で「救護室です」と答えてやった。

 彼はボトルからグラスに液体を注ぎ、少女にそっと差し出す。強く警戒していた筈の少女が何故か素直に受け取ったのを見て、男は、彼女が本来は危険の無い人物なのだろうと悟った。

 点滴針を隠し持っている事に気付いていたが、彼女がそれを武器として扱う方法を知っているとは思えない。様子を見て、少女が怪我をしないよう、彼女から針を取り上げるべく男は隙を伺う。


「さぁ、どうぞ。一気に飲まないよう、少しずつ飲んで下さい」

「……これは?」

「ウチの船員が作り置きしているレモネードを、更に希釈したものです。元気が出ますよ」


 最初に匂いを嗅いだ少女は、恐る恐るグラスに口を付ける。少しずつグラスを傾けて、ほんの僅かに液体を舐めた。

 瞬間、年相応にぱっと明るくなった表情。男も彼女の顔を見て満足気に口元を緩ませた。


「……甘くて酸っぱい」


 そう言いつつも、少女はグラスを離さず二口目を飲んでいる。いつの間にか手から離れて膝に乗る点滴針を見つけた男は、苦笑しつつも「お気に召したのなら良かった」と笑い掛けた。

 点滴チューブを手繰り寄せ、点滴台を片付けながら自然を装って針を回収する。少女は気付いていないのか否か特に気にした様子もなく、寧ろ少し機嫌良さ気に男を見上げてきた。


「お前、名はあるのか?」

「ユズリハと言います」

「ユズリハ……ユズリハか。良い名だ」

「どうも。……それと、もし貴方が許して下さるなら、その腕を手当したいのですが」

「腕?」


 少女がふと己の腕を見下ろせば、白い衣服が自分の腕から滴った血で赤く染まっている。同時に点滴針から漏れ出た輸液が思いの外布に染み込み、少女は「うわっ」と声を上げて驚いた。

 ユズリハ、と名乗った男は、これ以上濡らさないようにと慌てて少女からグラスを受け取る。すぐに備え付けのフェイスタオルを彼女に渡すが、少女は戸惑うばかりでタオルを持ったまま動けないでいた。

 ユズリハはグラスをサイドテーブルに置き、腰のポーチから取り出した薄いゴム手袋を履くとベッド脇に膝を着く。目の前で跪き、真っ直ぐに見上げてくる大男に少女は思わず自身の胸元を掴む。


「では、宜しいですか?」

「………………」


 黙って頷いた少女の手を取り、彼女からそっと受け取ったフェイスタオルを褐色の細い腕に乗せる。もう一方の少女の手をタオルに乗せて押さえているよう指示を出し、ユズリハはサイドテーブルの下にある棚からもう一枚フェイスタオルを出した。

 彼女が着る白いワンピースの濡れた部分に、新しく出したフェイスタオルを乗せる。そして再び少女の腕に手を添えて押さえていたタオルをそっと浮かせてみると、タオルに血痕などは無く、既に血は止まっているようだった。


「思いの外、濡れてしまいましたね。船長が戻ってきたら、新しい服を出してもらいましょうか」

「船長……ユズリハには主が居るのか?」

「そうです。その船長に貴方の事を報告したいのですが、貴方のお名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

「……名前。私のか?」

「そうです。何とお呼びしましょうか」

「………………」


 しかし、その時に見せた少女の反応は、唖然とも呆然とも取れない不思議なものだった。


「……『何と』……?」


 そう呟いた少女は質問に答える事なく、眉を顰め喋らなくなってしまう。無言でユズリハから目を逸らし、床を見つめたまま思い悩むように首を傾げて動かない彼女に、ユズリハはすぐに原因を悟った。

 恐らく、答えられない故だ。彼女は己の名を『知らない』、もしくは『思い出せない』のだろう。


「……では、仮に『胡蝶(こちょう)の君』と呼ばせて頂きましょう」


 彼女の細く幼い腕をタオルで拭い、念のため、点滴針の刺さっていた箇所に絆創膏を貼る。呼ばれ慣れない仮の名や、初めて見るであろう絆創膏を見つめながら、少女はやはり訝しげに首を傾げる。


「……それは、私の名か? 私は『胡蝶の君』というのか?」

「いえ、あくまでも仮の名前です。今後の事が決まり次第、貴方だけの名前が貰えると思いますが……思い出せそうには、ありませんか?」

「何を?」

「貴方が生まれ持った全てです。他にも出生や身分、貴方が何処から来て、何をしていたのかも分かれば、後々に役立つかも知れないですが」


 しかし、少女の反応はやはり芳しくはない。

 ユズリハはそれでも笑みを絶やさず、少し落ち込んだ様子を見せる少女に「ご心配なさらず」と優しく声を掛けた。


「まぁ、焦らずとも何とかなるでしょう。今は体調を整えるのが先ですね」


 少女は立ち上がったユズリハを目で追うが、再び俯くと悲しげな顔でぽつりと呟く。


「……私は、役立たずだな……」

「……………」


 何処か上から目線で、態度も大きい、比較的『問題児』の部類には入るであろう少女。そんな彼女が、『自分に出来ない事』を『役立たず』だと嘆くとは。

 ユズリハはそっと寄り添うように、膝を抱える彼女の傍、ベッドの上へゆっくりと腰掛けた。


「……貴方が、責任感の強い方という事は分かりました」

「………………」

「ですが、貴方が役に立つか立たないかを決めるのは貴方ではありません。我々はまだ、出会ったばかりなのですから」


 彼の言葉に顔を上げた少女は、その大きな瞳を潤ませてユズリハを見つめる。本当に小さく呟かれた「ありがとう」の一言に、ユズリハはただ、彼女に優しく笑みを返した。


「気分の悪さや、身体に痛みなどはありませんか?」


 ユズリハの質問に、少女は首を横に振る。「それは何より」と彼は笑ったが、「では」とベッドからユズリハが腰を上げた瞬間、少女の腹から大きな低い音が三秒ほど室内に響いた。

 その音にユズリハは目を丸くし、少女は褐色の頬を真っ赤に染めて、幼くも美しい顔をゆっくりと膝に埋めていく。

 頭から湯気が上がるのが視えるようだ。年相応の可愛らしさを感じ、ユズリハは微笑ましそうに目を細めた。


「……空腹は身体が健康である証拠です。何ら恥ずかしがる事は無い」

「……すまない……」

「では、何か食べる物を用意しましょう。それまで、菓子で良ければ摘まんでいてください。これなら栄養価も高く、腹の足しにもなりますので」


 ユズリハは、ウエストポーチから銀色の包み紙に包まれた、一口大のオールシーズンチョコを三つほど取り出す。少女の小さな手を取り、その柔らかい掌に直接三つの包みを乗せた。


「……これは、食えるものなのか?」

「ええ。包みを開いて中身を食べて下さいね」

「この、薄い『紙』のような物は食べられないのか……」

「そうです。食べられるのは中の茶色い球体だけですので」


 まじまじと掌の上の包みを眺めている少女に少しだけ苦笑を浮かべ、ユズリハは片付けた点滴や濡れたタオルなどを乗せたトレーを持ち上げる。


「それでは、少々時間を頂きます。先の尖っている物、金属製の物、動く物には触らないようお願いします」

「わ、わかった」


 「それでは」と最後に一言声を掛け、ユズリハは静かに部屋を出る。医務室のドアを閉め、暫く耳を澄ませて中の様子を伺ってみると、十秒と経たない内に、部屋の中から銀の包みを開ける音が微かに聞こえてくる。


「……ん〜〜〜……!! う、うまぁ……!!」


 少女の感動に震える声に、ベッドでゴロゴロと悶えているらしい音。純粋かつ可愛らしい反応を感じ取り、ユズリハは思わず吹き出してしまった。

 取り敢えずは、一安心か。そのままメインホールへと戻った彼は、リビング奥のシンク台にトレーを置き、壁に設置された電話の受話器を取って外線のボタンを押した。

 五桁の通信チャンネルを続けて押し、最後に緑色のボタンを押す。受話器の中から呼び出し音が三回程続いた後、ブツ、という無音の直後に「ユズ君か?」という聞き馴染んだ少女の声が聞こえてきた。

 乗組員では年長者である彼を「ユズ君」とあだ名で呼ぶのは、この船では一人しかいない。


《キッチンからとは珍しいな。リストベルは?》

「俺のは充電中だ」


 リストベル、とは、軍から支給されている腕時計型の通信端末の事だ。


「それよりも、女の子が起きたぞ」

《ほ、本当かっ?》


 心から喜ぶ船長の声に、ユズリハもつい、胸を撫で下ろすように息を吐く。

 実は、少女を救助してから五日の日数が経っていた。帰還してからすぐに、ローズマリーの知り合いの医者には一度診てもらっている。だが調べても特に異常は見つからず、医者には「自然に起きるのを待つしか無い」と言われていた。


《ああ、良かった……! 女の子の様子はどうだ? 名前は? 何故あんな所に居たのか聞けたか?》

「名は『胡蝶の君』だ」


 その報告を聞いて、ローズマリーは少し残念そうに「そうか」と応えた。


《リンの時と同じ、か……》


 以前、彼女と同じ状況で発見され、同じ様に身元不明で船長に引き取られた少年がいた。彼も一時は『御剣(みつるぎ)の君』と男性の仮名で呼ばれていたが、現在は彼だけの名を与えられ、ユズリハ達と同じ船の乗組員として立派に成長し働いている。

 結局、未だに彼の記憶は戻っていないが、彼も特に気にした様子はなく、新たな人生を謳歌している最中だ。


《女の子は、不安そうだったんじゃないか? 怯えたりはしていなかったか?》

「多少警戒心はあったようだが、それも最初の内だけだったな。リンデンのレモネードを飲ませてみたら、多少緊張が解れたらしい。腹鳴らして照れてくれる程には打ち解けてくれた」

《あはは、可愛いなぁ。それなら良かった》

「ふっ、まぁな」


 微笑ましく笑い合う二人だったが、しかし、次の言葉でユズリハの声は少しだけ影を落とす。


「ただ、名前も住所も、何も覚えていないのは確かにリンデンの時と似てるように思うが、古風な言葉遣いや警戒の仕方とか、あの年齢では少々有り得ない程の知識量は持っているように思う。感謝も謝罪も出来てるが、如何せん『自分は役立たずだ』と嘆く様子も見せててな……」

《……何?》

「何か『されていた』のか、何か『させられていた』のか……憶測ではあるが、彼女との会話の中で、所々に闇を感じた。一応、今の報告はそれだけだ」

《そうか……》


 ローズマリは考え込むように数秒だけ黙る。しかし、すぐに明るいいつもの調子で「今は仕方無いな」と話し始めた。


《過去に起きた事を今の私達が悩んでも、何も出来る事は無い。この先『胡蝶の君』が記憶を取り戻した時のために、今から心を護ってやるのが私達がすべき事だからな》

「ああ。だが、まずは先に腹拵えだな」

《おお! そうかそうか、それなら長電話は良くないな。ユズ君は強面だし見た目も厳ついから、私達が帰るまで、くれぐれも女の子を怖がらせないように気をつ付けるんだぞ》

「失礼な奴だな。一応言われた事はいつも守ってるだろ?」

《ユズ君の緊張があんまりにも顔に滲み出てるから小さい子に泣かれるんだぞ? 先週だって孤児院の手伝いに行って、中に入った瞬間に泣き声の大合唱だったじゃないか》


 身に覚えがあるユズリハは、船長の言葉にぐっとたじろぐ。


《子供が大人に持つ第一印象が後々に響いてくるのはユズ君も知ってるだろ。小さい子には目線を合わせて、特にユズ君は笑顔と敬語を徹底する事! これは船長命令だからな》

「はいはい分かった分かった。もう時間だから、早く会議行ってこい」

《おっと、そうだな。じゃあ頼んだぞー》


 通信を切り、ユズリハは苦笑と溜め息を吐きつつ軽食を作る。出来上がった食事を新しいトレーに乗せて医務室へと戻ったユズリハが見たのは、香ばしいパンと玉子の匂いに目を輝かせた少女の笑顔だった。



ありがとうございました。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

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