二話
※
多目的教室に突然入ってきた青い肌の大男に、賑わっていた教室は一瞬にして静まり返る。
「こ……こんにちは。先週振りの子もいますが……」
覚えていますか?
ユズリハがそう問おうとした瞬間、教室内は瞬く間に阿鼻叫喚の『大合唱』が始まってしまった。
ユズリハはがっくりと肩を落として俯く。
「……やっぱりなぁ……」
「な、何故……」
「毎月の恒例行事なんですよ」
毎月、というのは、月初めに必ず、新しく入所してくる『新入生』がいる為だ。彼等が一人、二人と泣き出すと、皆がつられてパニックを起こしていく。
どうしてユズリハがこんなに怯えられるのか分からず、背後にいたクミンも戸惑った様子で彼の背後からその光景を覗く。そんな時、後ろから入ってきたローズマリーがユズリハに座るよう促すと、突然子供達に向けて声を張り上げた。
「皆、見ろ! 皆が泣くから、ユズ君も泣いてるじゃないか!」
「!?」
その言葉にクミンが驚いてユズリハの顔を覗き込むが、ユズリハは「またかー……」とうんざりした顔でカーペットの床に腰を下ろす。
その間にもローズマリーはユズリハを指差し、子供達に向けて芝居がかった口調で訴えている。
「早く友達になってあげないと、ユズ君は『独りぼっち』になってしまうぞ!」
すると、その言葉を聞いた子供達は、少しずつ声を抑えて泣き止んでいく。鼻を啜る子、しゃくり上げる子、皆が様々に心を落ち着かせ、ユズリハを見つめている。
「な……何が起こってるんだ?」
「彼等も元は『独りぼっち』でした。この孤児院で信頼できる大人や友達と出会えたからこそ、『独りぼっち』がどれほど悲しく辛い事なのか、ここにいる子供達で知らない者はいません」
ユズリハの説明を受け、胸を締め付けられるような息苦しさを感じたクミンは思わず胸元を掴む。
一方、「ユズ君が『寂しがって』るぞ!」と子供達を煽るローズマリーは、ぱっとユズリハに顔を向けた。
「何してるんだ、ユズ君! 早く泣いたフリしろ!」
「やっぱりかー……」
「ほら照れてないで、早く!」
急かすローズマリーの言う通りに、意を決したユズリハは俯いてわざとらしく目を擦り始めた。
「……『えーん、寂しいよー』」
「!?」
突然泣き真似をし出したユズリハにギョッとしたクミンを他所に、ローズマリーは子供達の反応を見ながら「もっと大きい声で!」とユズリハに演技指導を入れる。
「ほらユズ君! 大袈裟に、感情込めて!」
「『えーん、みんなと仲良くしたいよー』!」
顔を手で覆う彼の耳は赤い。ローズマリーは、ユズリハを静かに観察している子供達を見て、「よしよし」と満足そうに口角を上げた。
しかし、意外にも棒読みの演技が一番効いたのは、隣でユズリハを見ていたクミンだった。
「ユズリハ……!?」
彼女は慌てて彼に寄り添い、その広い背に触れて心配し始める。
「どっ、どうした!? 何故泣くんだ!?」
「……見ないで下さい」
「ユズリハには私がいるではないか! 『寂しい』などと言うな!」
「本当にやめて下さい」
真面目に慰めてくれる必死な彼女に、余計に羞恥心を煽られたユズリハはいよいよ顔を見られなくなる。
声も無く、腹を抱えてカーペットに撃沈しているローズマリーの気配に気付いたユズリハは、「お前は笑うなよ」と真っ赤になった顔で身体を震わせ蹲る船長を睨んだ。
「いやっ……ふふっ……す、すまな……っ」
「おいコラ」
だが、クミンがユズリハに寄り添った事で、子供達が少しずつ二人に集まり始める。三歳、四歳程の小さな身体で、彼等なりに勇気を出して、ユズリハの大きな腕に触れる。
ゆっくりと集まってきた子供達に気付いたクミンは、少し驚いて身を引いた。
「……な、何だ貴様等……っ」
「クミンさん、今は静かに」
その時、最初の子がユズリハに「ごめんね」と呟いた。
「……泣いちゃって、ごめんなさい」
「ごめんね、ユズくん」
「一緒にあそぼう」
「ユズくん、さびしくない?」
次々と声を掛け始める子供達に、ユズリハは優しく微笑み、一人ひとりの頭を柔らかく撫でていく。
大きな掌に触れられ、子供達は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「……みんな、ありがとうございます。もう寂しくありません」
「ほんとう?」
「さびしくない?」
「はい」
子供達がユズリハに心を許し、慰めるように背や肩を撫でる姿は、ローズマリーも寝転がりながら微笑ましく眺めていた。
しかし。
「……何だ、これは……?」
照れ臭そうな、しかし確かに嬉しそうに笑うユズリハと、さっきまで泣いていたのに突然楽しそうに彼と遊びだす子供達に、クミンは開いた口が塞がらなかった。
「クミン。おいで」
呆然とユズリハや子供達を眺めている彼女に、起き上がったローズマリーが歩み寄って隣に並ぶ。
「何だか困ってそうだな。どうした?」
声を掛けるとクミンは戸惑ったように目を泳がせたが、すぐに再び子供達に視線を戻す。
ユズリハは子供達を順番に軽々と抱き上げ、ただ持ち上げて下ろすを繰り返している。『高い高い』でもない屈伸運動だが、それでも、子供達は誰もが楽しそうに笑い声を上げ、「もう一回!」と彼に強請っている。
「……ユズリハは、分かった」
「ふむ?」
「泣いたフリ、だったんだよな。子供達を騙して、彼等の気を引くための……」
「んー、言い方が悪いなぁ」
しかし、ある意味では間違っておらず、ローズマリーは思わず苦笑を漏らした。
クミンは至って真面目に言葉を続ける。
「皆、ユズリハが怖かった筈だ。なのに……何故、彼等は歩み寄ってきたんだ? 怖いと思う相手に近付く理由は? 相手がもし、ユズリハのように優しい男でなかったら? あんな風に簡単に近付いては、それこそ簡単に殺されてしまうぞ」
「そうか……確かに、そういう捉え方も出来るな」
「敵に容赦など無い。彼等のような幼子こそ、『己の身の守り方』を教えるべきだ」
「うん、うん」
少し不満げに意見するクミンの言葉を否定せず、ローズマリーは受け止める。そして、そっとクミンの肩を抱き寄せた。
「よく聞け、クミン。教える必要が無いから、教えていないんだ」
「……何?」
「私が若い頃は、そんな教育が必要だった時期もあった。大人達がは皆疲弊し、彼等を守る人間がとても少なかったからな」
「………………」
「でも、今は違う。あの子達は何に怯える事もなく、のびのびと暮らせている。危険から身を守る方法は中学部でも習うから、今のあの子達にはまだ必要無い。それだけの事なんだ」
避難訓練は欠かさず週二で行っているけどな!
そう胸を張ったローズマリーを、クミンは訝しげな目で見る。
同時に、クミンは少しだけ悲しくなった。自分が何故『身を守る術を学ぶべき』と思うのかも、どういう経緯でそう思うようになったのかも、自分自身には全く分からないのだ。
ローズマリーの言うように、この世界ではそれを学ぶ必要が無いほど平和なのだという事なのに、自分はどんな生活をしていて、どのように生きていたのか。
……もっと純粋で何も知らない子供だったなら、あの子供達のように、ユズリハに「一緒に遊ぼう」と強請る事もできたのだろうか。
「………………」
視線の先には、楽しそうに笑う彼等の姿がある。いくら考えてみても答えは出ず、ただ静かにカーペットへと視線を落として、クミンは俯いた。
「……クミンも、一緒に遊んできたらどうだ?」
「……知らないんだ。どうすれば良いのか……」
「皆が教えてくれるさ」
すると、二人の下へ数人の女の子達が声を掛けてきた。
彼女達の内、一番背の高い子がローズマリーの袖を軽く引く。
「院長先生」
「やぁヒナゲシ。どうした?」
「その子は、『どこ』の子なの?」
どこ、というのは、三つの孤児院の内、何処に所属しているかを問う質問だ。
指を差されたクミンは目を丸くし、ローズマリーは幼い少女の頭を撫でる。
「ヒナゲシ、この子はクミンだ。リンと同じで、『友達に怪我をさせない訓練』をしなくちゃいけなくてな」
それを聞いた少女達は、クミンを見上げて少し悲しげな顔をした。
「大変だね。リンちゃん、泣いてたの知ってる」
少女の言葉に、今度はクミンが戦慄する。
「……『友達に怪我をさせない訓練』とやらは、そんなに厳しいものなのか……?」
「気にするな、クミン。リンが泣くのは大抵フェノンが相手してくれなかった時だから」
「えぇ……?」
「じゃあ、ミンちゃんね」
「ミンちゃん」
「な、何だ、お前達。私は『クミン』だ」
スカートの裾を掴まれたクミンは、戸惑った様子で少女達を訂正する。しかしローズマリーは子供達に笑いかけ、膝を着いて「頼みがあるんだが」と優しく言った。
「実は、ミンちゃんは皆との遊び方を知らなくてな。教えてあげてくれないか?」
「ろ、ローズマリー、私は……!」
しかし、少女達は満面の笑みで「いいよ」と快諾した。
「ねぇ、お姫様ごっこしようよ」
「私おけしょう屋さん!」
「ドレス作ろう、どうぐ持ってくる!」
「ミンちゃんお姫様ね!」
「あっ、ちょっ、ちょっと待て……!」
腕を引かれ、ローズマリーに助けを求めるクミンだったが、あっという間に部屋の隅にある子供達のドレッサーへ座らされている。されるがままになっているクミンに、ローズマリーは彼女の素直さと優しさに微笑んだ。
内心、彼女が抵抗したら、どうしようかとも考えてはいたが。
「……要らない心配だったな」
遠目から様子を見ていたユズリハが隙を見てクミンに声をかけようとした時、少女達に「男の人は来ないで」と追い払われているのを見てしまったローズマリーは、再び腹を抱えて笑いを堪えていた。
※
一方、外では壮絶な鬼ごっこが繰り広げられていた。
「きゃーっ!」
「リンちゃんが鬼になったぞ!」
「にげろー! リンちゃんだー!」
子供達が騒ぎ立て、リンデンはニヤリと悪い顔で口角を上げる。
「俺が鬼だぞーっ!」
総勢20人程の子供達が、蜘蛛の子を散らすように一斉にリンデンから逃げ出していった。
リンデンの身体能力の高さが尋常でない事は孤児院の職員達も周知の事実ではあるが、実際、彼の能力で最も恐ろしいのは、その驚異的な『持久力』にあった。
リンデン程のフィジカルならば、子供達の走る速さなど一瞬で追い付けてしまう。しかし、絶妙な距離とスピードを保ちつつ皆を平等に追い掛け続ける事が出来るとなると、子供達の休む時間は二十秒と取れず、五分ほど逃げ回った頃に子供達が音を上げ始めてしまう。
休憩し始めた子を見定め、今度はまだ走れそうな体力のある子を選んで追い掛け始めたリンデンは、最終的に一番逃げ続けた男の子に近付き、壁に追い詰めて躙り寄った。
少年にとっては、息も絶え絶えに逃げてきた筈なのに、少しずつ近寄ってくる青年は呼吸を乱すどころか汗一つ掻いていない。
「り、リンちゃん、バケモノすぎるよ……!」
「へっへっへ〜、観念して次の鬼に……」
しかしその時、リンデンの服を掴み、動きを封じようとした少年が叫んだ。
「逃げろ、ホップ!」
「トチ……!」
「え、何っ? や、やだぁ、動けないぞっ?」
驚いたリンデンだったが、咄嗟に機転を利かせて動きを封じられたフリをする。その様子に、休憩で身体を休めていた子達が今が好機と言わんばかりにリンデンに飛び掛かった。
「みんな、かかれー!」
「きゃーっ、お助けーっ!」
腰や背中、腹に膝など、子供達は数人掛かりでリンデンを抑えつける。追い詰められた男の子も加わり、リンデンは子供達を敷いてしまわないよう位置に気を付けながら、芝生の地面に寝転がった。
「わーっ!」
「どうだ、まいったか!」
「リンちゃんの負け!」
「あっはっは、降参、降参! やられたーっ!」
皆で寝転がり、笑い合う。そしてまた起き上がり、誰かが叫んだ「ダルマさんが転んだ」にリンデンは「俺、鬼ね!」と笑った。
彼が疲れた子供達からブーイングを貰う様子を、乳幼児用のベビールームから赤子の尻をゆっくりと叩きながら眺めていたフェンネルは、呆れたように小さく笑みを零した。
「……元気な奴等だ」
抱いていた赤ん坊を、そっとベッドへ戻す。ミルクを飲んで満腹になった赤ん坊は、反射で起きる事もなく、ぐっすりと眠っている。
一通りのミルク、オムツ替え、寝かしつけを終えて、フェンネルは赤子のベッドが並ぶ壮観な景色を眺めて一息吐いた。
「フェンちゃん、今なら休憩なさって大丈夫ですよ」
いつまで経っても聞き馴染まない呼び名に、その都度フェンネルは苦い顔をする。
「……他に呼び方あるだろ」
「ローズマリー様が『そう呼ぶように』と仰っていますので」
あのクソババアめ。
絶対に口には出さないが、フェンネルは腹の中で盛大に悪態を吐く。
職員の女性は優しく微笑み、「いつもありがとうございます」と頭を下げてベビールームを出て行った。
ベビールームにはモニターもセンサーも完備されているため、大人達も安心して休憩が出来るのがこの孤児院の強みだ。職員である彼女達も、紅茶で一服しようと事務室へと移動していく。
一人残ったフェンネルは、直射日光が当たらないよう設計された薄暗い室内の中で、レースカーテンが優しく風に靡く窓に歩み寄った。
開かれた出窓の枠に腰掛け、桟に凭れ掛かった彼は持参した水筒の蓋を開けて一口だけ緑茶を含む。その時、中庭を挟んだ向こうの棟に、フェンネルはクミンの姿を見つけた。
「………………」
緊張した様子で玩具のドレッサーに座らされ、子供達に囲まれてあれこれと髪を弄られ飾り立てられている。
完全に遊び道具と化した彼女を見て、フェンネルは複雑な表情で目を細め、その眉間にきつく皺を寄せた。
戸惑いながらも、彼女は心から楽しそうに微笑んでいる。ついさっき知り合ったばかりの子等と対等に会話し、驚いたり、相談したり、年下の少女の指示にすら素直に従う。
その笑顔に、彼女の優しさに、他の子供達と何の違いがあろうか。
「……後は、俺だけか」
再び茶を呷り、飲み下す。深く息を吐き、空をゆっくりと流れる雲を見上げた。
心地良い。春の日差しに、フェンネルはそっと目を閉じる。自分に駆け寄ってくる気配を感じながら、彼はスッと出窓から降りた。
そっと静かに窓を閉めようとした時、「いや待って待って」と苦笑しながら中庭を走ってきたリンデンが止める。
「うるせぇ。仕事しろ、サボり魔め」
「俺も休憩中なの! お話しようよ」
「何が『休憩』だ、体力無尽蔵のくせに」
「子供らの体力は有限だからね。お昼前でいい感じに疲れさせたから、砂場遊びは先生方が変わってくれるって」
「役立たずが」
「いやいや、まだ遊べますけど?」
リンデンは出窓の横にある花壇に腰掛け、フェンネルは呆れた様子を見せながらも、出窓の枠に座り直す。フェンネルが持っていた水筒をリンデンに渡すと、彼は心から嬉しそうに水筒を受け取った。
礼を言い、茶を飲んだリンデンは息を吐きながら「うめーっ」と小声で叫ぶ。
「赤ちゃん達は? 元気?」
「一応、次のミルク補給は十二時十五分の予定だ。その前にオムツ交換が何人かあるだろうな」
「そのスケジュール通りにいくからスゴいよねぇ」
「統計が取れれば大体把握できるだろ」
「無理無理、赤ちゃんにも個人差ってあるじゃん。俺は泣かせないようにするので精一杯だからさぁ」
「阿呆リンデンめ。担当職員が赤子個人の『記録』取ってんだから、三日分もあれば一人ひとりのタイミングと回数の統計ぐらい計算できるだろうが」
「フェンちゃん、普通の人はそんな事出来ないからね? 俺がバカだからとか関係無いからね?」
「テメェが『フェンちゃん』言うな」
お昼の給食の準備が始まるまで、あと五分。二人は昼食を知らせるチャイムがなるまで、ベビールームの窓際で和やかな休憩時間を過ごしていた。
※
「さぁ、みんな! 手を合わせて!」
ローズマリーの号令に、子供達も職員達も一斉に「いただきます」と叫ぶ。『チャーチグリム』の船員達も続いて手を合わせ、この二日間で食事の挨拶に慣れてきたクミンも一緒に頭を下げた。
今日のメニューは訪問日恒例のカレーライスで、お腹が空いた子供達はまるで飲むようにカレーライスを口に掻き込んでいく。
「おかわり行ってこよー」
「テメェは遠慮しろ阿呆」
真っ先に立ち上がったリンデンに、向かいに座るフェンネルが小声で野次を飛ばす。慣れている子供達もクスクスと笑いながら、彼に続いて『おかわり』を所望する子達が順番に鍋の前に並び始めた。
ふと、クミンは目の前のグラスが空になっているのに気付く。子供向けの味付けではあるが、意外と辛さを強く感じていたのか知らぬ間に手が進んでいたらしい。隣のユズリハに頼もうかとも思ったが、麦茶の入ったピッチャーは自分の右側、左側に座る彼とは反対側にある。
ピッチャーに一番近いのは……。
「行くなら早く行けよ、鬱陶しい」
子供達に先を越されて尻込みするリンデンの脚裏を引っ叩き、叩かれた本人は「やぁん」と気色悪い声を出して子供に笑われている。
フェンネルが手を伸ばしてくれれば簡単に届く距離だが。
「!」
その時、あまりに見つめてくるクミンの眼差しにフェンネルが気付く。再び視線がかち合い、やはり、クミンは戸惑ったように視線を泳がせ始めた。
しかし、フェンネルは彼女の空になったグラスや、皿に残るカレー、彼女の反応から瞬時にクミンが何を望んでいるのかを察知する。
欲しいのは『これ』か。フェンネルは自分の斜め前にある麦茶のピッチャーを見て、小さく溜め息を吐いた。
手を伸ばしてピッチャーを手に取ると、「あっ」と困った様なクミンの声を聞く。無表情を貫きつつ自分のグラスに麦茶を注いだ彼は、ピッチャーを元あった場所の反対方向へ置くと、更にその先へと押しやった。
突然手元にやって来たピッチャーに、クミンは目を輝かせ、次にわたわたと焦り、そっと立ち上がって両手でピッチャーを持ち上げた。
クミンはフェンネルを見る。相変わらず彼は自分から視線を背け、無表情のままグラスの麦茶を啜っている。
彼が持つグラスは、波々と注がれた麦茶が今にも溢れてしまいそうだった。
「……あ、ありがとう……!」
「………………」
フェンネルは答えない。しかし、一瞬だけ此方を向いた彼の視線に、自分に対する敵意はもう感じなかった。
クミンは嬉しさに満面の笑みを浮かべ、麦茶をグラスに注いで席に着く。直後に口に運んだカレーは、先程よりもずっと美味しく感じられた。
当然、その一部始終を見ていたユズリハが、驚愕に目を見開いたまま動けなくなっていたのは言うまでもない。
「リンちゃん、おかわり無いってー」
「ええぇーーーーっ!!」
※
午後四時。
子供達は、涙ながらに『久々に会った友達』を引き止めていた。
リンデンに至っては子供達と一緒に抱き合い、「また会おうねぇ」と目を潤ませている。
「大袈裟だな、来週も会うだろう?」
「ユズさん酷い! 来週は『カマリア』じゃん、『マーガレット』と『ガーベラ』は来月になっちゃうでしょ!」
「はっはっ、そうだったな。悪かった」
そんなユズリハも、最初は怖くて泣かれていたが今は別れを惜しんでしゃくり上げる子供達に、苦笑しながら頭を撫でて回っていた。
フェンネルが今日の記録を事務室に提出している間、ローズマリーはクミンを連れて『マーガレット学習院』の室長に挨拶を述べる。室長はローズマリーと同じ緑色の瞳を細め、優しくお微笑んでいる。
「今日もありがとう、パキラ」
「いえ、こちらこそです。ローズマリー様のお陰で、皆が健やかで優しい子達に育っています」
「次に来る時は、小学部や中学部の子達とも会いたいな」
「もちろん、いつでもいらして下さい。ここにいる皆が、貴女の『子供達』なのですから」
ニコッと微笑んだ室長に、ローズマリーも嬉しそうに微笑む。その様子を不思議そうに見ていたクミンは、室長の表情が、リンデンやフェンネルに近いものを感じ取った。
「……室長も、ローズマリーの『子供』なのか?」
その言葉に、二人は静かに微笑んだ。
「クミン、実はパキラも孤児だったんだ」
「!」
「もう何年も前になります。革命戦争で家族を失い、ローズマリー様が保護してくださった。今の学習院の前身である施設で暮らし、今はこの『マーガレット』を任せて頂いています」
皆に今日があるのは、全てローズマリー様のお陰です。
そう言い切った室長にローズマリーも照れたように「んもー」と苦笑している。ローズマリーがここの院長であり一番権力がある事はユズリハから聞いて知ってはいたが、それよりも、クミンは室長が放つ清らかさに眩しさを感じ、思わず目を細めた。
ユズリハやローズマリーに対してとは、少し違う感情。その『憧れ』という感情が、彼女の心を掴んで離さなかった。
「……なれるだろうか?」
「ん?」
「私も、室長のような立派な人間になれるだろうか」
ローズマリーと室長は、彼女の言葉に顔を見合わせる。室長は嬉しそうに目を潤ませて口元を抑え、ローズマリーも「そうかそうか」とクミンの頭を撫でた。
「きっとなれるさ! クミンは優しいからな!」
「……室長のような、清らかな人間には程遠いかも知れんが……」
「何を言いますか、ミンちゃん。貴女ほど清らかな人など、そうはいませんよ」
二人に褒められ、クミンは照れ臭そうに頬を赤らめて俯く。その時、書類を全て書き終えて提出したフェンネルが「終わったぞ」とローズマリーに告げた。
皆で礼を言い、見送りに出てきてくれた子供達に手を振る。帰り道、名残惜しい一時を皆で振り返り、リンデンが鼻を啜りながら「今日も楽しかったな」と呟いた。
「ちっちゃい子の可愛さは本当無限大だよね。赤ちゃん、もっと抱っこしたかったなぁ」
「テメェが昼寝時に真っ先に寝なけりゃ、触るぐらいは出来ただろうがな」
「やだぁ、言わないでぇ?」
ローズマリー、ユズリハと共に先を行くクミンが、後ろから付いてくる二人の会話に静かに振り返る。ローズマリーと、自分と手を繋ぐユズリハは明日の予定を話し合っているらしく、案を出し合って「どうしようか」と相談しているようだ。
「………………」
クミンは、先程の室長の笑顔を思い出す。彼女の様な清らかさは無くとも、少しでも、彼女に近付く事が出来るなら。
貰った愛を、愛で返す。彼女は決意に空いた拳を握り締め、ユズリハの手をすり抜けて走った。
「クミンさんっ?」
驚いて振り返ったユズリハの声に、ローズマリーもクミンを視線で追う。駆け出した彼女が行き着いた先に、追い掛けようとしたユズリハも、クミンを引き留めようと口を開きかけたローズマリーも目を見張った。
「っ!」
何より、誰よりも驚いたのはフェンネルだ。
「お、どしたの?」
リンデンはフェンネルの前で立ち止まったクミンに声を掛けるが、同時に、隣に並ぶフェンネルが自分のシャツを掴んだのに気付く。脇腹から背中の布をしっかりと握り締めるその手は、緊張で固くなっているが、やはり何処か小さく震えているようだった。
彼の見開かれた瞳は、一歩先の位置から見上げてくるクミンを緊張した様子で凝視している。
「………………っ」
「……フェンネル」
クミンが名を呼べば、服を掴む手がグッと強くなる。俯くクミンは自分のスカートの裾を掴み、決意を込めてフェンネルを見上げた。
「……朝ご飯を、ありがとう。すごく美味しかった」
彼女の赤い瞳に、他意は感じない。フェンネルは戸惑った目をゆっくりとクミンから逸らし、隣に立つリンデンに、助けを求めるような眼差しを送った。
目が合ったリンデンは、微笑んで頷く。眉を下げてぐっと唇を噛んだフェンネルは、リンデンの服を掴んだまま、反対側の手でウエストポーチの中から何かを取り出した。
その様子に嬉しそうに笑ったリンデンが、クミンに向き直る。
「クミン、手ぇ広げて」
「……?」
言われるまま、クミンは両手を広げてリンデンに見せる。するとその小さな掌に、両端を捻って包まれた白い球体が乗せられた。
クミンは、目を丸くして顔を上げる。そこには、顔を背けすぎて殆ど後ろを向いているフェンネルの姿があった。
「くれるって。そのキャンディ、フェンネルの手作りなんだぞ」
満面の笑みで、リンデンが言葉を添えた。
「い……いいのか?」
「………………」
「……いいってさ」
やはりリンデンが答える。しかし、何の反応も見せない事が、彼なりの『肯定』なのかも知れない。
しかし、クミンが礼を言おうとした瞬間、フェンネルは此方を見る事無く、来た道を戻るように走り出してしまう。
クミンは戸惑い、リンデンは唖然と口を開く。
「なっ……」
「あ」
「逃げた!」
叫んだのはローズマリーだった。
「リン、捕まえろ! バスに乗り遅れちゃうぞ!」
「分かった!」
リンデンが踏み込んだ途端に強い突風を感じ、クミンは砂埃を避けようと腕で顔を覆う。風が止み、目を開けるとリンデンの姿は遥か彼方だった。
数百メートル先で微かに声が聞こえる。どうやらフェンネルはすぐに捕まったらしい。
「……………」
キョトンと目を丸くするクミンに、後ろからユズリハが声を掛けた。
「先に行きましょうか、クミンさん。バスが来るまでには、アイツ等も追い付くでしょう」
「……うん」
再び彼に手を引かれ、クミンは目的の方向へと向き直った。
「……ユズリハ」
「はい?」
「お礼、言えた。フェンネルに『ありがとう』って言えたぞ」
「……そうですね。見ていましたよ」
待っていたローズマリーと合流し、再び三人で
歩き始める。ユズリハがローズマリーに説明すれば、彼女もまた、「勿論見てたぞ」と微笑んだ。
「頑張ったな、クミン。フェノンに何を貰ったんだ?」
「キャンディだそうだ。リンデンは、フェンネルの手作りだと言っていた」
瞬間、ユズリハとローズマリーが顔を見合わせた。
「まさか、あの『ハーブキャンディ』か……!?」
「……まぁ、クミンさんも『試し』で一度は食べてみるのもアリだとは思いますが……」
「な、何だ、毒か? 毒なのか?」
「いえ、毒どころか身体に良いものしか入ってないんですがね」
クミンが包みを開ける。中には、黒々とした歪な形の飴玉が入っていた。
ミントのような香りの中に、嗅いだ事のない甘さや苦さ、酸味など、よく分からない匂いを感じる。
「フェンネルにとっては、好物の一つなんですがね……如何せん、俺には少し合わなくて」
「何がだ? 味がか?」
「リンは暫くお腹を壊してたなぁ。私は匂いが苦手でな……」
「……それはもう、毒じゃないのか……?」
クミンはもう一度匂いを嗅ぎ、そっと舐めてみる。甘みを感じて口の中に入れると、少し口の中で転がして味わってみた。
「……どうだ?」
しかし、心配そうなローズマリーやユズリハの心配を他所に、クミンは両頬を押さえて目を輝かせた。
「……んまぁ……!」
「そ、それは良かったじゃないか……!」
顔を引き攣らせながら笑うローズマリーに、クミンは「また礼を言わねば」と心から嬉しそうに微笑み返す。二日前、目覚めた直後に食べたチョコレートと同じ反応を見せたクミンに、ユズリハは彼女の味覚をほんの少しだけ心配した。
船に帰還後、フェンネル特製のハーブキャンディをいたく気に入ったクミンは、逃げ回るフェンネルを追い掛けながら、ひたすらキャンディを強請っていた。
「あの飴はもう無いのか?」
「クミン、ダメだって! フェンネルがビビってるから!」
「び……ビビってねぇ……!」
「無くなったら、また作るのか? 次はいつ頃に作る予定なんだ?」
「フェンネル……お前、まさかあの飴に変な薬草入れてないよな……?」
「入れてねぇし! ってかユズさんもアレの監督なら捕まえといて下さいよ!」
「じき慣れるさ」
「なぁフェンネル、一個ぐらい残ってないか?」
「く、来るな……!」
「あぁん、マリーさぁぁん!!」
結局、クミンは行き過ぎたコミュニケーションとして、ユズリハと共にローズマリーにしっかりと注意を受けた。
「すみませんでした」
「なんで俺まで」
「監督不行き届きだ。フェノンから訴えがあったぞ?」
「悪かったよ……」
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