第47話 暴走の刻
第六話 暴走の刻
地面が揺れた。
最初は錯覚だと思った。楔の地下通路を歩いているとき、足元がわずかに震えた。地震かと思って立ち止まったが、揺れはすぐに収まった。
「……今の、感じた?」
僕が聞くと、カイさんが頷いた。
「ああ。地鳴りだな。小さいが——嫌な感じだ」
その瞬間、片眼鏡越しの視界が一変した。
魔素が——叫んでいた。
他に表現のしようがなかった。いつもは空気の中に静かに漂っている光の粒が、一斉に激しく脈動し始めた。方向も密度も滅茶苦茶だった。まるで水面に巨大な石を投げ込んだように、魔素の流れが乱れている。波紋が重なり合い、干渉し合い、視界が光の洪水になった。
「——っ」
頭が割れるかと思った。両手で頭を押さえた。片眼鏡を外しても、もう関係なかった。肉眼でも見える。魔素が激しく光っている。通路の壁に走る回路が、いきなり全力で稼働を始めたかのように白く輝いていた。
「ユーリ!」
ミラさんが駆け寄ってきた。
「大丈夫? 顔が真っ青だよ」
「うるさい……全部が叫んでる」
自分でも何を言っているか分からなかった。魔素の粒が一つ一つ声を上げているような——いや、それは僕の共鳴視が拾っている情報の奔流だった。楔のネットワーク全体が、突然活性化している。
「何が起きている」
ルークさんが壁の回路に手を当てた。回路は触れるだけで分かるほど熱を帯びていた。
「回路が暴走的に活性化している。外部から強制的に——誰かがシステムを起動した」
「誰か、だと?」
カイさんの声に怒気が混じった。
「ヴェルナーだ」
ナギさんが低い声で言った。着古した外套のポケットから小型の通信具——情報屋としての仕事道具——を取り出し、耳に当てていた。
「協力者から連絡が入った。軍が楔の地上施設を占拠した。ヴェルナーが装置を起動したらしい」
「装置?」
「灯台計画の中核装置だ。楔のノードに直接接続して、ネットワーク全体を掌握する——そういう触れ込みの代物だな」
ナギさんの声は皮肉を通り越して、冷えていた。
「やりやがった。安全装置のことを知らないまま——」
「ヴェルナーのやつ、やりやがったな」
カイさんが吐き捨てた。核魔石混合の大剣の柄を握りしめている。
「だから言ったんだ。あいつは焦りすぎてる。楔の仕組みも分からないまま、力ずくでこじ開けようとしてる」
二度目の揺れが来た。今度は大きかった。
通路の天井から砂埃が落ちてきた。壁の回路がさらに明るく脈動した。僕の視界では、魔素の密度が急速に上昇していた。空気が重い。呼吸が苦しいほどではないが、胸の奥が圧迫されるような感覚があった。
「地上に出よう」
セラスさんが言った。白い装束の裾が砂埃で汚れていた。
「ここにいては状況が把握できません。地上で何が起きているのか、確認する必要があります」
「セラスの言う通りだ。行くぞ」
カイさんが先頭に立った。
地上に出た瞬間、空を見て——息を呑んだ。
空が、蒼かった。
夕暮れの赤でも、夜の闇でもない。魔素が大気中で異常に高い密度に達し、空全体が蒼い光を帯びていた。灰原で見た蒼い植物の色に似ている。あの、ナノマシンが活性化したときの——蒼。
街路に出ると、風が吹いていた。生暖かい、不自然な風だった。風に乗って魔素の粒が渦を巻いている。街灯の魔石が異常に明るく輝いていた。通常の三倍か四倍の光量で、眩しいほどだった。
レフカの街並みが——蒼い光に照らされていた。
「なんだ、これは……」
カイさんが呟いた。
街路を人々が走っていた。子供を抱えた母親。荷物を背負った老人。商店の扉を閉める店主。誰もが恐怖に駆られた顔をしていた。空を見上げて、蒼い光に怯えている。
「魔素酔いだ」
ミラさんが通りに倒れている人に駆け寄った。中年の男性が地面にうずくまっている。顔色が悪い。吐いた跡があった。
「魔素濃度が急に上がったから、適応できない人が体調を崩してる。——大丈夫ですか、深呼吸して。ゆっくり」
ミラさんが男性の背中をさすりながら、薬草鞄から薬を取り出した。魔素酔い用の煎じ薬だ。灰原で使ったものと同じ。あのときは隠れ里の人々に配った。今度はレフカの市民に。
「ミラ、何人くらい倒れてる」
「この通りだけで五、六人は見える。子供と老人が多い。魔素への耐性が低いから」
ミラさんの声は落ち着いていたが、手は休みなく動いていた。鞄から薬草を出し、水筒の水で溶かし、倒れている人の口元に運ぶ。
三度目の揺れ。
今度は揺れだけではなかった。遠くで轟音が聞こえた。街の東側——港の方角から。
「地震じゃない。魔素の暴走だ」
ルークさんが眼鏡を押し上げながら言った。
「楔のネットワークが強制起動されたことで、周辺の魔素循環が崩壊している。魔素が一箇所に集中して——爆発的に放出されている」
「爆発?」
「比喩だ。物理的な爆発じゃない。だが、魔素濃度の急激な変動は環境に連鎖的な影響を及ぼす。天候の乱れ、地盤の不安定化、植物の異常成長——」
ルークさんの言葉が終わらないうちに、足元から何かが突き破ってきた。
石畳の隙間から——蒼い蔓草が伸びてきた。
速かった。数秒で指先ほどの蔓が腕の太さにまで膨れ上がり、石畳を押し割って這い出してくる。蒼い葉が開いた。葉脈が光っている。魔素を吸い上げて、異常な速度で成長している。
「灰原と同じだ……」
僕は呟いた。灰原で見た植生の暴走。五十年前に神罰で滅びた国の跡地で、蒼い植物が大地を覆い尽くしていた光景。あれが——今、レフカで起き始めている。
「植物が暴走してる。魔素濃度が高すぎて——成長が止まらないんだ」
「ユーリ、詳しく見えるか。この暴走はどこまで広がってる」
カイさんが聞いた。
僕は片眼鏡をかけ直した。共鳴視を使おうとして——頭に激痛が走った。情報が多すぎる。楔のネットワークから溢れ出す信号が、僕の目を通じて脳に流れ込んでくる。断片的な映像。数値。警告。全てが同時に押し寄せてくる。
「……広い。レフカの東側が特にひどい。楔の地上施設がある方角だ。そこを中心に——魔素の波紋が広がってる。街全体に」
「止められるのか」
「分からない。でも——この暴走は、楔のシステムが強制起動されたことが原因だ。システムを止めれば、たぶん収まる」
「たぶん、じゃねえよ」
カイさんがいつもの調子で言った。だが、目は笑っていなかった。
街が混乱していた。
通りを走る人々。泣き叫ぶ子供。家屋の壁を突き破って伸びる蒼い蔓草。魔石の街灯が次々と過負荷で割れ、ガラスの破片が散った。遠くで何かが崩れる音がした。
僕たちは街の中心部に向かって走った。ギルド本部の前に出ると、冒険者たちが集まっていた。銀牌や金牌の冒険者が、市民の避難誘導をしている。ギルド職員が拡声器を使って叫んでいた。
「全市民は港方面に避難してください! 繰り返します、東側には近づかないでください!」
拡声器の声が蒼い風に吹き散らされた。
「カイさん」
僕が呼ぶと、カイさんが振り返った。
「どうする」
「決まってるだろ。まず市民を逃がす。それから——楔だ」
カイさんの声は明快だった。
「ルーク、楔の地上施設の位置は分かるか」
「東区画の旧研究棟の地下だ。ナギの情報と、俺が以前調べた地図を照合すれば——行ける」
「よし。ミラは——」
「私はここに残る」
ミラさんが言い切った。薬草鞄を開いて、中身を確認している。
「倒れてる人がたくさんいる。治療しないと。——大丈夫、私一人でもなんとかなるよ。ギルドの救護班と合流する」
「一人にはしねえ。ナギ」
「分かってる」
ナギさんが頷いた。
「俺はここで情報を集める。街の状況を把握して、お前たちに伝える。ミラの護衛も兼ねる。——戦闘は期待するなよ」
「しねえよ。お前に期待するのは頭だ」
カイさんが笑った。短い笑いだった。
「ユーリ、セラス、ルーク。俺と来い。楔に行く」
「了解です」
セラスさんが細剣の柄に手をかけた。白い装束が蒼い光に照らされて、異様な色を帯びていた。
走り出す前に、僕は一度だけ空を見上げた。
蒼い空。魔素の粒が渦を巻いている。その奥に——何かが蠢いている気配がした。巨大な何かが、目を覚まし始めている。楔の中で感じた、あの「存在」だ。
僕たちが対話を試みる前に、ヴェルナーが叩き起こしてしまった。
安全装置が——動き出そうとしている。
嵐が来る。
蒼い光の中を、僕たちは走った。崩れかけた石畳を踏み、蔓草を避け、逃げ惑う人々の間を縫って。東に向かって。
レフカの街が悲鳴を上げていた。
四千年間眠っていた仕組みが、今——目を覚まそうとしている。
街角を曲がったとき、東の空に光柱が立った。
蒼い光の柱。樹海で見たものと同じだ。一巻の第六話で、樹海の中で目にした光柱。あのときは遠くから見ただけだった。今は——近い。レフカの東区画から、まっすぐに空に向かって伸びている。
「あれは——」
「神罰の予兆だ」
セラスさんが呟いた。声が震えていた。
「あの光を——私は知っています。灰原で見ました。五十年前に国を滅ぼした光と、同じものです」
セラスさんの顔が蒼白だった。聖騎士としての訓練で感情を抑えているが、瞳の奥に恐怖があった。灰原を見た者だけが知る恐怖。あの蒼い死地が——今、この街にも広がろうとしている。
「急ごう」
僕は言った。
「急がないと——レフカが、灰原になる」
東区画に近づくにつれて、魔素の密度が上がった。
空気が重い。息をするたびに、肺の中に魔素の粒を吸い込んでいるのが分かった。普通の人なら魔素酔いで動けなくなる濃度だ。カイさんが額の汗を拭いた。ルークさんが足を引きずり始めた。
「きつい。魔素の濃度が——灰原の遺跡内部と同等か、それ以上だ」
「耐えろ。もう少しだ」
カイさんがルークさんの腕を掴んで引っ張った。
セラスさんは——平然としていた。高い魔素適合度を持つ聖騎士は、この濃度でも影響を受けにくいのだろう。僕も、目の中のナノマシンのおかげか、体調に大きな変化はなかった。
東区画の旧研究棟が見えてきた。
建物の周囲に——軍服の兵士が展開していた。バリケードが築かれている。通常の市民は近づけない。だが、兵士たちの顔にも動揺があった。空の蒼い光柱を見上げて、何が起きているのか理解できていない様子だった。
「どうする。正面から行くか」
カイさんが聞いた。
「裏口がある」
ルークさんが答えた。
「以前の調査で確認した。旧研究棟の北側に、地下に直結する搬入口がある。軍の警備はおそらく正面に集中している。——行ける」
「よし。行くぞ」
裏口は、瓦礫に半ば埋もれていた。蒼い蔓草が這い上がっている。ルークさんが工具ベルトから道具を取り出し、手際よく蔓を切り、扉の錠前を開けた。金属の軋む音がした。
扉の向こうには、下に続く階段があった。
壁の回路が——脈動している。心臓の鼓動のように。規則的で、しかし速い。焦っているように見えた。
僕たちは階段を下りた。楔の中へ。
蒼い光が、僕たちを飲み込んだ。




