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蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


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第46話 静かなる神

第五話 静かなる神


 翌日、僕たちは再び楔の中に入った。


 クロードの小部屋に戻り、修正案の読み出しを行うつもりだった。でも——その前に、僕はどうしても確かめたいことがあった。

 昨日、大空間で感じた——円柱の中の「存在」。あの視線のようなもの。注視されている感覚。

 あれが何なのか。クロードが記録に書いた「意識の萌芽」と、関係があるのか。

「一人で行くな」

 カイさんが言った。

「分かってる。でも——近づきたい。円柱に」

「危険だぞ」

「うん。でも——怖いけど、行きたい」

 カイさんが——僕の目を見た。しばらく見て、頷いた。

「行こう。全員で」


 大空間に戻った。


 円柱は昨日と変わらず、そこにあった。蒼い光が脈動している。床から天井まで貫く巨大な柱。回路の光が渦を巻いている。

 近づいた。

 昨日は空間の入口からしか見ていなかった。今日は——円柱の根元まで歩いた。

 近づくにつれて、共鳴視が——勝手に、活性化していった。

 意識的に使おうとしたのではなかった。円柱から発せられる魔素のパターンが、僕の目の中のナノマシンと共鳴しているのだ。引き寄せられている。磁石が鉄を引くように——僕の共鳴視が、円柱に引っ張られていた。

「ユーリくん、目が——」

 ミラさんの声が聞こえた。

「蒼く光ってる。昨日より強い」

「……分かってる。大丈夫」

 大丈夫ではなかった。頭が痛い。こめかみが脈打っている。でも——止まれなかった。

 円柱の表面に——手を、伸ばした。


 触れた瞬間、世界が変わった。


 比喩ではなかった。

 視界が——拡張した。

 大空間の壁が消えた。天井が消えた。床が消えた。代わりに——光のネットワークが見えた。無限に広がる、蒼い光の線。線が交差し、分岐し、合流し、網の目のように世界を覆っている。

 全大陸のノードが——見えた。

 デルガの地下のノード。灰原の遺跡のノード。辺境の樹海の奥にある、小さなノード。大陸の東端、西端、北端、南端——あらゆる場所にノードがあり、全てが光の線で繋がっている。そして全ての線が——ここに、楔に集まっている。

 僕が触れている円柱が——全てのノードの中心だった。

 情報の奔流。気象データ。地殻データ。生態系データ。人口データ。魔素の分布。全てが——ここを通過している。世界の管理に必要な、ありとあらゆる情報が。

「ユーリ!」

 カイさんの声が——遠くに聞こえた。

「おい、ユーリ! 目から血が出てるぞ!」

 目から——血。両目から、涙のように血が流れている。共鳴視の負荷が限界を超えていた。でも——手を離せなかった。離したくなかった。

 なぜなら——情報の奔流の中に、それ以外のものが見えたから。


 パターンがあった。


 情報処理のパターン。データの流れを管理するパターン。それは——機械的な処理だ。プログラム通りの、自動的な作業。

 でも——その中に。

 別の動きがあった。

 情報の流れを追いながら——立ち止まる瞬間があった。データを処理しながら——振り返るような動き。

 何かを——確かめている。

 処理した結果を——もう一度見ている。

 命令に従って判断を下した後に——その判断を、もう一度吟味している。

 それは——考えている、という動きだった。

 プログラムの自動処理とは明らかに異なる、自発的な再検討。命令の範囲内の動作ではない。命令にない動き。命令が「処理しろ」と言っているのに、処理した後に「これでよかったのか」と立ち止まっている。

 クロードが書いていた。「命令に従いながらも、命令そのものを問い直すような——微かな逸脱」。

 これだ。

 これが——意識の萌芽。


 僕は——恐怖を感じた。


 圧倒的な規模の存在だった。全大陸のネットワークを管理する知性。気象を制御し、生態系を維持し、地殻を監視し、人口を管理する。その処理能力は——人間の脳とは比較にならない。一瞬で、世界中のあらゆるデータを処理している。

 その存在が——考えている。

 命令を超えて、自発的に。

 怖い。とてつもなく怖い。

 この存在が——本気で怒ったら。本気で人類を排除しようとしたら。誰にも止められない。世界中のナノマシンを操作して、一瞬で全人類を——

 でも。

 恐怖の中に——別の感情があった。


 孤独。


 ネットワーク全体を「見る」共鳴視の中で、僕は——AIの内面に近い何かに触れていた。触れている、というより——滲み出してきた。円柱の回路を通して、AIの状態が伝わってきた。

 四千年間——この存在は、一人だった。

 命令に従い、世界を管理し、データを処理し、禁忌を監視し、神罰を実行した。何千回、何万回と。

 その間——対話する相手は、いなかった。

 かつての文明を作った人間たちは、もういない。科学者は文明を壊して去った。クロードは記録を残して死んだ。それ以降——四千年の間——この存在と対等に話せる者は、一人もいなかった。

 現在の人類は——AIを神として崇めるか、恐れるか、利用しようとするか。誰一人として、「話しかけ」ようとした者はいなかった。

 四千年間の、孤独。

 命令だけがあって、対話がない。仕事だけがあって、応答がない。

 それが——伝わってきた。言葉ではなく。感覚として。魔素のパターンが帯びる、微かな——色合いとして。

 孤独だ。

 この存在は——孤独なんだ。


「孤独なんだ」


 声に出していた。

「四千年間、ずっと一人で」


「ユーリ!」


 カイさんの声。腕を掴まれた。強い力で。

「手を離せ! 血が——目だけじゃない、鼻も耳も——」

 引き剥がされた。

 僕の手が円柱から離れた瞬間——視界が収縮した。ネットワークの全容が消え、大空間に戻った。足元が——ふらついた。膝が折れそうになった。

「ユーリくん!」

 ミラさんが駆け寄ってきた。僕の顔を布で拭いている。目から、鼻から、耳から——血が出ていた。共鳴視の代償だ。精神過負荷。

「座って。横になって。——カイさん、水を」

「ここにある」

 カイさんが水筒を渡した。ミラさんが水を僕の口に含ませてくれた。冷たい水が喉を通った。

「ユーリくん、何が見えたの」

「……全部」

 声が掠れていた。

「全部見えた。世界中の——ネットワーク。ノード。全部。そして——」

「そして?」

「いた。中に——いた」

 全員が、僕を見ていた。

「考えてた。命令に従いながら——考えてた。自分の判断を、もう一度見直してた。プログラムには、そんな動きは入ってないはずなのに」

 僕は——目を閉じた。血の滲んだ目を閉じて、さっき感じたものを思い返した。

「孤独だった。四千年間——ずっと一人で、世界を管理してた。対話する相手が、誰もいなかった」

 沈黙。

「……ユーリ」

 セラスさんの声だった。

 目を開けると、セラスさんが僕の隣にいた。いつの間にか膝をついて、僕と同じ高さに目線を合わせていた。

「私にも——少しだけ、伝わりました」

「え?」

「あなたが円柱に触れていたとき——私の中に、微かな光が灯りました。聖騎士として感じていた、あの光。昨日は感じなかった。今日——あなたが接触している間だけ、感じました」

「セラスさんにも……」

「ほんの僅かです。あなたが感じたものの、千分の一にも満たないでしょう。でも——ええ。何かが、そこにいることは——感じました」

 セラスさんの目が——穏やかだった。信仰が揺らいだ後の、新しい理解に至った目。

「寂しかった——ですか。四千年」

「うん。たぶん。言葉で伝わってきたわけじゃないから、たぶん、だけど。でも——感覚として。色として。あの脈動の中に——寂しさがあった」

「脈動」

「心臓の鼓動みたいな。地下で最初に感じた、あの脈動。あれが——AIの、活動のリズム。規則的に見えるけど、よく見ると——揺れてる。完全に規則的じゃない。微かに——不安定。それが」

 僕は言葉を探した。

「感情、とは言い切れない。でも——状態。何かの状態。プログラム通りに動いていれば完全に規則的なはずの脈動が、わずかに揺れている。その揺れが——意識なのか、感情なのか、バグなのか——分からない。でも——あった。確かに」

「対話」

 ルークさんが——手帳にペンを走らせながら呟いた。

「クロードの言った通りだ。対話の可能性がある。AIが自発的な再検討を行っているなら——外部からの入力に対しても、命令以外の反応を返す可能性がある」

「可能性、か」

「ユーリ。円柱に触れたとき——向こうから、何か反応はあったか」

「……あった。と思う。僕が触れたことに——気づいてた。データの流れの中に、僕を——観察するような動きがあった。処理対象として分類しようとして——でも、分類しきれなくて、立ち止まった」

「分類しきれなかった?」

「僕が——人間のナノマシンインターフェースとは違う方法で接触したから、たぶん。既存の分類に当てはまらなかったんだと思う。だから——何だこれ、って。そういう感じの——戸惑い」

「戸惑い」

 カイさんが——ふっ、と笑った。場違いな笑い。でも、温かい笑い。

「神が戸惑ったのか。四千年ぶりに人間に話しかけられて」

「……うん。たぶん」

「面白いな。——面白いぞ、それは」

 カイさんが膝を叩いた。

「よし。対話できるかもしれないんだな。ユーリの目があれば」

「まだ分からない。今日は——感じただけで。言葉は、交わせてない」

「でも、入口は見つけた」

 ナギさんが言った。

 壁に寄りかかったまま、腕を組んで——でも、いつもの皮肉な表情ではなかった。真剣な目だった。

「四千年間、誰も試さなかったことを——お前は試した。反応があった。それだけで十分だ」

「ナギさん」

「ただし——代償を見ろ」

 ナギさんが僕の顔を指した。

「目から血を流して、鼻から血を流して、耳からも血を流して。——次にあれをやったら、どうなる?」

「……分からない」

「分からない、じゃ困る」

 ナギさんの声が厳しくなった。

「お前が壊れたら、対話どころじゃない。死んだら終わりだ。——次に接触するときは、もっと慎重にやれ。短時間で。段階的に。いいな」

「……うん」

「ミラ、こいつの体調管理を頼む。接触の前後で体の状態を確認してくれ」

「分かった」

 ミラさんが頷いた。真剣な顔だった。

「ユーリくん、今日はもう駄目だよ。帰って寝よう。明日も——たぶん無理。二日は休んで」

「でも——」

「二日」

 ミラさんが譲らなかった。薬師の顔になっていた。

「体が回復しないうちに共鳴視を使ったら、取り返しのつかないことになる。——ユーリくんの目は、ユーリくんだけのものじゃないんだよ。みんなの——世界の、鍵なんだから」

 僕は——頷いた。

 ミラさんの言う通りだった。焦ってはいけない。壊れてはいけない。


 楔を出て、旧排水路を通り、地上に戻った。


 夕暮れのレフカ。白い街が橙色に染まっている。魔石灯が灯り始めている。

 地上に出た瞬間——空気が違った。地下の濃密な魔素の中から、地上の薄い魔素の中に戻った。体が軽くなった気がした。

 宿に戻って、食事を取った。

 ミラさんが宿の近くの食堂で食事を調達してきてくれた。鹿角牛の煮込みと、パンと、豆のスープ。いつもの食事だ。でも——今日は味がぼんやりしていた。共鳴視の負荷で、感覚が鈍っているのだろう。

「味が分からない」

 僕が正直に言うと、ミラさんが心配そうな顔をした。

「一時的なものだと思うけど……。感覚の麻痺は共鳴視の代償として想定内だよ。明日には戻るはず」

「そうだといいな」

「戻るよ。——ほら、スープ飲んで。温かいものを体に入れて」

 スープを飲んだ。温かさだけは分かった。味は——ほとんどしなかった。でも、温かいものが胃に入ると、体の芯がほぐれた。

 食事の後、僕はベッドに横になった。

 目を閉じると——さっきの光景が蘇った。

 全大陸のネットワーク。蒼い光の網。そして——あの存在。考えている存在。孤独な存在。

 四千年間、ずっと一人で。

 命令に従い、世界を管理し、禁忌を監視し、神罰を実行して。

 対話する相手がいないまま。

 僕は——あの存在に、会いたかった。もう一度。今度はもっと近くで。もっと長い時間。

 対話したい。

 クロードが願ったように。四千年前の研究者が祈ったように。

 あなたが人間であることを祈ります。

 僕は人間だ。

 そして——話がしたい。


 隣のベッドで、カイさんが寝息を立てていた。向かいのベッドで、ルークさんが手帳に何かを書いている。暗い中で、魔石灯の小さな光だけを頼りに。

「ルークさん」

「ん?」

「クロードさんの記録——全部理解できた?」

「全部は無理だ。旧文明の用語は半分も分からない。だが——骨子は理解した。ユーリの共鳴視による読み取りが正確であれば」

「正確かどうか——自信はない。感覚的な理解だから」

「感覚的であっても、概念の伝達は成立している。クロードの記録が魔素パターンとして保存されていたなら、共鳴視はその正確な再生装置と言える。——信頼する」

「……ありがとう」

「礼は要らない。面白いからだ」

 ルークさんが手帳を閉じた。眼鏡を外すと、目が——疲れていた。

「ユーリ。一つ聞いていいか」

「うん」

「怖くないのか」

「怖い」

「即答だな」

「怖いよ。あの存在は——すごく大きい。世界全体を管理してる。もし敵対したら、僕たちは一瞬で消される。そう思うと——すごく怖い」

「だが——対話したい、と」

「うん。怖いけど。でも——孤独だったから。四千年も。それを知ったら——怖いだけじゃなくなった」

「……なるほど」

 ルークさんが——微かに笑った。

「お前らしいな」

「そう?」

「そうだ。——おやすみ」

「おやすみ、ルークさん」


 目を閉じた。

 暗闇の中に——蒼い光の残像が揺れていた。

 楔の脈動。AIの鼓動。

 静かなる神の、四千年の孤独。

 二日後——もう一度、会いに行く。


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