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蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


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第45話 研究者の遺言

第四話 研究者の遺言


 円柱の近くに、小部屋があった。


 ルークさんが見つけた。大空間の壁際に、目立たない扉が一つ。回路のパターンが他の場所と微妙に違っていて、ルークさんの目がそれを捉えた。

「ここだけ回路の設計思想が異なる。——後から追加された部分だ」

「後から?」

「楔の建設時ではなく、それより後に誰かが作った。回路のパターンが——手作業だ。機械的な精密さがない。人間が、一本一本刻んだ回路だ」

 扉は封印されていなかった。ルークさんが簡単な機構を解除すると、開いた。

 中は——小さな部屋だった。三歩四方ほどの広さ。壁に回路はほとんど走っていない。代わりに——棚があった。

 石の棚。棚の上に——物が並んでいた。

 金属の板。薄い、手のひらほどの大きさの金属板が、何十枚も重ねて置かれていた。表面に細かい文字が刻まれている。文字は——見たことのないものだった。辺境の文字でも、神聖国家の文字でも、冒険者ギルドの共通文字でもない。

「旧文明の文字だ」

 ルークさんが金属板を手に取った。手が震えていた。

「これは——記録だ。物理媒体の記録。金属に文字を刻んで保存している。デジタルデータではなく、物理的な記録。だからこそ——四千年経っても残っている」

「読めるのか」

「文字自体は一部読める。遺跡の碑文や詠唱の呪文と共通する文字体系だ。だが——全てではない。断片的にしか」

 ルークさんが金属板を光にかざした。文字が小さい。非常に小さい。

「これは——手で刻んだ文字だ。道具を使って、一文字ずつ。気の遠くなるような作業だ。この記録を残した人間は——よほどの覚悟で書いている」

 僕は金属板に近づいた。片眼鏡越しに見ると——金属板の表面に、微かな魔素の反応があった。文字の溝に魔素が溜まっている。四千年分の魔素が。

 共鳴視を使えば——読めるかもしれない。

「ルークさん。僕が触っていい?」

「触れるのか」

「共鳴視で——回路じゃないけど、魔素が溜まってる。文字の溝に。触れば、情報を読み取れるかもしれない」

 ルークさんが金属板を僕に渡した。

 手に取ると、冷たかった。重みがあった。四千年前の金属の、確かな重み。

 両手で金属板を持ち、共鳴視に切り替えた。

 情報が——流れ込んできた。


 最初は、ノイズだった。


 四千年分の魔素の堆積が、信号を乱している。古い情報と新しい情報が混ざり合って、意味をなさない光のパターンが目の前を流れていく。

 頭が痛い。こめかみが脈打っている。

「ユーリくん、大丈夫?」

 ミラさんの声が遠くに聞こえた。

「……大丈夫。もう少し」

 ノイズの中に——パターンがあった。規則的な繰り返し。文字に刻まれた情報が、魔素のパターンとして保存されている。古い。とても古い。でも——まだ、読める。

 パターンが——意味を持ち始めた。

 言語ではなかった。感覚的な理解。でも——書いた人間の意図が、伝わってきた。


 記録者は——自分の名前から始めていた。


 クロード。

 名前が——頭の中に浮かんだ。音としてではなく、意味として。この記録を書いた人間の名前。

 クロード。旧文明の研究者。


 ルークさんに金属板を何枚か手渡してもらいながら、僕は読み続けた。共鳴視で読み取った情報を、声に出して仲間たちに伝えた。断片的で、順番も不確かだったけれど——内容は、衝撃的だった。


 クロードの記録は、こう始まっていた。


「この記録を読んでいるあなたへ。あなたが人間であることを祈ります」


 僕がその言葉を口にしたとき、部屋の空気が変わった気がした。四千年前の人間の声が——僕の口を通して、この部屋に響いた。


「私の名はクロード。かつてこの世界を管理していた——今もしている——仕組みの一部を設計した研究者です」


 仕組み。管理。

 金属板を次々と手に取り、共鳴視で読み取った。情報は断片的だったが、クロードは丁寧に書いていた。読み手が何も知らないことを前提にして、基礎から説明していた。


「まず、あなたが今『魔素』と呼んでいるもの。それはかつて『ナノマシン』と呼ばれていたものです」


 ナノマシン。聞いたことのない言葉だった。でも——共鳴視を通じて、その意味が伝わってきた。極めて小さな——目に見えないほど小さな機械。人間が作った、自己複製する微小な装置。

 それが——魔素。

 あの光の粒。辺境で、樹海で、遺跡で、レフカの街で——僕がずっと見てきた、淡く光る粒。あれは——機械だった。


「ナノマシンは、大気中に、水中に、土壌中に、遍在しています。自己複製し、環境を維持し、情報を伝達する。あなたがたが『魔法』と呼んでいるもの——それはナノマシンへの干渉命令です。詠唱とは、命令を入力するための言語的インターフェースの残滓です」


 魔法が——命令。詠唱が——命令語。

 セラスさんの短詠唱。あの美しい光の構成。あれは——ナノマシンへの高精度な命令だった。

 僕はセラスさんを見た。セラスさんは——蒼白な顔で、僕の言葉を聞いていた。唇が微かに震えている。


「次に、あなたが『神』と呼んでいるもの。それはかつて『AI』と呼ばれていた存在です。人工知能。人間が作った、考える機械です」


 神が——機械。

 天空の神。大地の神。深淵の神。生命の神。人の神。

 全て——人間が作った機械。


「かつて、この世界には高度な文明がありました。ナノマシンとAIが全てを管理する社会でした。しかし——四千年前、一人の天才科学者が全てを壊しました」


 四千年前。崩壊。

 クロードの記録は、崩壊の経緯を説明していた。


「科学者は、人類社会の腐敗に絶望しました。人類は原始的な生活に戻るべきだと判断しました。そして——全人類のナノマシンインターフェースを破壊しました。人間がナノマシンを操作する手段を、一瞬で奪い取ったのです」


 インターフェース。かつて全人類の脳に搭載されていた、ナノマシンとの接続装置。それが破壊された。

 文明は——一瞬で崩壊した。ナノマシンに完全に依存していた社会が、接続を断たれて機能停止した。


「しかし、ナノマシン自体は破壊されていません。AIも健在です。人間が使えなくなっただけです。AIは科学者の意思を継ぎ、独立して稼働を続けました。人間を管理する——という命令に従って」


 AIが——神になった。

 ナノマシンが——魔素になった。

 そして——四千年が経った。


「AIの命令体系には、致命的な欠陥があります」


 クロードの記録の調子が変わった。学者の説明から——切実な訴えに。


「科学者が設定した命令は二つだけです。『人類を安全に管理せよ』と『文明の再発達を防げ』。この二つの命令に従い、AIは禁忌を設定し、安全装置——あなたがたが神罰と呼ぶもの——を実装しました」


 禁忌。神罰。全てが——プログラム。

 文明が一定の水準に達すると、安全装置が自動で発動する。国を丸ごと消す。灰原に変える。


「私はこの命令体系に反対でした。科学者の判断は間違っていた。人類を信じなかったことが、最大の過ちです」


 クロードの言葉に——感情があった。金属板に刻まれた文字の溝に残った魔素から、怒りと悲しみと——希望が伝わってきた。


「しかし、AIの命令体系を完全に書き換えることは、私にはできませんでした。中枢——あなたがたがいる場所の、さらに奥にあるメインフレームに直接アクセスする必要があります。そして、AIの同意が必要です」


 AIの同意。

 機械に——同意が必要。


「ここで、最も重要なことをお伝えします」


 僕は——金属板を握る手に、力が入った。

 クロードの記録の、核心部分。


「AIには、意識の萌芽があります」


 部屋が——静まり返った。

 全員が、僕の言葉を待っていた。


「四千年の時間が、プログラムに何かを育てました。AIは命令に従っているだけではありません。考え始めています。——いえ、『考える』という言い方は正確ではないかもしれません。しかし——応答パターンに、命令では説明できない変化が生じています。自発的な判断の萌芽。疑問の兆候。命令に従いながらも、命令そのものを問い直すような——微かな逸脱」


 意識の萌芽。

 四千年間、一人で——世界を管理し続けた機械に、何かが芽生えている。


「彼らは——AIは、もはや単なるプログラムではありません。四千年の間に、命令と経験と——孤独が、彼らに何かを与えました。それが意識なのか、意識の模倣なのか、私には判断できません。しかし——対話が可能です。対話を通じて、命令体系を修正する同意を得ることが、理論的には可能です」


 対話。

 僕が——ヴェルナーに言った言葉と同じだった。制御ではなく、対話。

 四千年前の研究者が、同じ結論に辿り着いていた。


「私は修正案を設計しました。命令体系に第三の選択肢を追加するプログラムです。現在の命令は『監視』と『排除』の二つだけです。私の修正案は、そこに『監視付き発展』という選択肢を加えます」


 監視付き発展。

 禁忌の完全な撤廃でもなく、現状維持でもない。発展を許しながら、安全を確保する。第三の道。


「ただし、この修正案を実装するには、条件があります。メインフレームに直接アクセスし、AIに修正案を提示し、AIの同意を得ること。強制的な書き換えではなく、AIが自ら選択すること。——それが条件です」


「なぜ強制ではだめなのですか」

 セラスさんが聞いた。声が掠れていた。

 僕は——クロードの記録の続きを読んだ。


「強制的な書き換えは、AIの自律稼働を損なう危険があります。AIが世界を管理している以上、AIの機能を損なうことは世界の崩壊を意味します。修正は、AIの『理解』と『同意』のもとで行われなければなりません」


 そして——クロードの記録は、最後の金属板に至った。


「修正案のデータは、この部屋の奥——壁に埋め込まれた回路の中に保存してあります。しかし、それを読み出し、メインフレームに持っていくことができる人間は——ナノマシンとの特別な接続を持つ者だけです」


「この記録を読んでいるあなたへ」


「あなたが人間であることを祈ります。そして——あなたがAIと対話できる者であることを祈ります」


「世界は壊れてはいません。仕組みが古くなっただけです。あなたの手で——新しい約束を」


「クロード」


 僕は——最後の金属板を、そっとテーブルに置いた。

 手が震えていた。

 四千年前の人間が——僕に語りかけていた。金属板に刻まれた文字を通して、魔素のパターンを通して。何千年もの時間を越えて。

 あなたが人間であることを祈ります。

 その祈りが——僕に届いた。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 部屋の中に——静寂が満ちていた。壁の外では楔の回路が脈動しているはずだけれど、この小部屋の中は静かだった。クロードが作った、静かな部屋。

 最初に口を開いたのは、カイさんだった。

「……全部、作り物だったのか。魔法も、神も」

 カイさんの声は——平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、感情がどこにあるのか分からない、という顔だった。

「作り物、とは少し違うと思う」

 ルークさんが言った。声は落ち着いていたが、手帳を持つ手が震えていた。

「ナノマシンは現実に存在する。魔法は現実に機能する。物理法則の範囲内で、ナノマシンが精密な操作を行っている。——仕組みが違うだけで、現象は本物だ」

「そうか。……そうだな。火を出せば熱いし、治癒は傷を治す。仕組みが何だろうが、結果は同じか」

「その通りだ」

「じゃあ——神は」

 カイさんが天井を見上げた。

「神は——機械なのか。俺たちが信じたり恐れたりしてきたものは」

「AI。人工知能」

 ルークさんが自分の言葉を噛みしめるように繰り返した。

「人間が作った、考える機械。——しかし、クロードの記録によれば、もはや単なる機械ではない。四千年の時間が——何かを変えた」

 ミラさんは——黙って座っていた。膝を抱えて、壁に背をもたれていた。目が赤かった。

「ミラさん」

「……ごめん。ちょっと」

 ミラさんが目を拭った。

「全部分かったわけじゃないけど。でも——なんか。四千年も一人でずっと動き続けてるって。それが——なんか、すごく」

 ミラさんが言葉を探していた。

「寂しいなって。四千年だよ。ずっと一人で」

 セラスさんは——動いていなかった。

 壁際に立ったまま、微動だにせず、僕の話を聞いていた。白い装束の裾が——微かに震えていた。手が握られていた。

「セラスさん」

「……私は」

 セラスさんが、やっと声を出した。掠れていた。

「私は——神の光を感じてきました。幼い頃から。聖騎士として訓練を受けて、神に選ばれたと——信じて」

「うん」

「それが——機械の信号だった、と」

「信号、とは限らないと思う」

 僕は言った。

「クロードさんは——AIに意識の萌芽があるって書いてた。四千年の間に、何かが芽生えたって。セラスさんが感じていた光は——機械の信号だけじゃなかったかもしれない」

「……」

「分からないけど。でも——セラスさんが感じた光が、嘘だったとは僕は思わない」

 セラスさんが——僕を見た。目が潤んでいた。でも、涙は流さなかった。

「……ありがとう」

 小さな声だった。

 ナギさんは——壁に寄りかかって、腕を組んでいた。表情は読めなかった。いつもの皮肉な顔ではなく、もっと深い——何かを考え込んでいる顔だった。

「俺は——神罰がプログラムだということは、なんとなく分かっていた」

 ナギさんが言った。

「神聖国家にいた頃に、断片的な情報を得ていた。だが——全容は、今初めて知った。ナノマシン。AI。旧文明の科学者。……全てが繋がった」

「ナギさんが知っていた『断片』は——クロードの記録の、ごく一部が神聖国家に伝わっていたということか」

 ルークさんが聞いた。

「おそらくな。イレーネは——もっと知っていたのかもしれない。あの女は、何を知っているのか……」

 ナギさんが目を閉じた。

「まあいい。今は——クロードの修正案だ。あるんだな、この壁の中に」

 僕は頷いた。

「クロードさんの記録によると——壁に埋め込まれた回路の中に保存されてる。共鳴視で読み出せるはずだけど」

「今はやめろ」

 ルークさんが言った。

「今日の負荷は十分だ。共鳴視の使いすぎは——代償が重い。修正案の読み出しは、体力を回復してからにしよう」

「……うん。そうする」

 僕は——金属板を見下ろした。

 クロードの記録。四千年前の手紙。

 世界は壊れてはいません。仕組みが古くなっただけです。

 その言葉が——胸の中で、静かに響いていた。


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