第43話 灯台計画
第二話 灯台計画
ヴェルナーが接触してきたのは、レフカに着いて三日目の夜だった。
その三日間は、表向きは観光客のように過ごしていた。ナギさんが情報収集に動いている間、僕たちは市場を歩いたり、街を散策したり、ギルド本部を遠くから眺めたりしていた。
ギルド本部は——想像以上に大きかった。大通りに面した五階建ての石造りの建物で、正面に巨大なギルドの紋章が刻まれている。出入りする冒険者の数も桁違いだった。銀牌や金牌の冒険者が、普通にすれ違う。
「あそこに入れば記録が残る。入るな」
ナギさんにそう言われていたから、近づかなかった。
三日目の夕方、ナギさんが宿に戻ってきた。いつもの外套を羽織って、いつもの無精髭で——でも、目つきがいつもと違った。
「来い。全員だ」
ナギさんが言った。
宿の裏口から出て、路地を幾つか曲がった。人通りのない細い路地を抜けて、小さな広場に出た。石造りの噴水が一つだけある広場で、周囲の建物は空き家のようだった。
広場のベンチに——男が一人、座っていた。
軍服だった。整った軍服。暗色の生地に銀の釦。背筋が真っ直ぐで、座っているのに隙がない。短く刈り込んだ灰色がかった髪。鋭い目。手帳を膝の上に置いている。
「ヴェルナーだ」
ナギさんが低い声で言った。
「こちらから仕掛ける前に、向こうから来た」
カイさんの体が一瞬硬くなった。右手が背中の大剣の柄に触れた。
「カイ、抜くな」
ナギさんが制した。
「話を聞くだけだ。——あの男がここに一人で来ているのは、戦う気がないという意味だ」
ヴェルナーが立ち上がった。
僕を——見ていた。
カイさんでも、ルークさんでもなく、僕を。まっすぐに。冷静で、計算されていて、でも敵意のない目だった。品定めとも違う。何かを確認するような目つきだった。
「初めまして」
ヴェルナーが口を開いた。声は低く、落ち着いていた。軍人のように簡潔で、でも丁寧だった。
「ヴェルナーと申します。あなたがユーリさんですね」
「……はい」
「お噂はかねがね。ルークの報告で——いえ、その話はもういいでしょう。ルークが離反したことは承知しています」
ヴェルナーの視線がルークさんに移った。ルークさんは——眼鏡の奥の目をまっすぐにヴェルナーに向けていた。逸らさなかった。
「恨んではいません、ルーク。あなたには感謝しています。多くの有用な情報を提供してもらいました」
「……世辞はいい。用件を聞こう」
ルークさんの声は平坦だった。感情を押し殺した声。この二人の間には——言葉にならない何かがあった。かつての上司と部下。知的好奇心で繋がっていた同志。そして決別した二人。
「では、率直に」
ヴェルナーが僕に向き直った。
「ユーリさん。あなたに協力をお願いしたい。——灯台計画に」
「灯台計画」
「ご存知ですか」
「名前だけ」
「では、説明しましょう」
ヴェルナーがベンチに座り直した。手帳を開いたが——読むためではなく、手を動かすためのようだった。話しながら、手帳の角を指で弾いている。
「この都市の地下に、巨大な遺跡があることはご存知でしょう。我々はそれを『楔』と呼んでいます。全大陸に散在するノード——遺跡のネットワーク中継点——が、全てこの場所に集約している」
「……うん。知ってる」
「なるほど。では話が早い。——灯台計画とは、このノードネットワークを制御下に置く計画です」
ヴェルナーの声が——少し熱を帯びた。抑制された熱。冷静な表面の下にある、信念の温度。
「ノードネットワークは、この世界の根幹を成す仕組みです。魔素の流れ、遺跡の機能、そして——禁忌の監視と神罰の発動。全てがこのネットワークを通じて行われている。我々はそう推測しています」
「推測」
ルークさんが口を挟んだ。
「確証はあるのか」
「完全な確証はありません。しかし——十年以上の調査と、あなたが提供してくれたデータを含む膨大な情報から、確度の高い推測は立てています」
ヴェルナーが手帳を閉じた。
「灯台計画の目的は三つです。第一に、ノードネットワークの全容を把握すること。第二に、ネットワークを通じて遺物技術を安全に解放すること。第三に——」
ヴェルナーの声が低くなった。
「神罰を無力化すること」
沈黙が広場に落ちた。
噴水の水音だけが聞こえていた。
「神罰を——無力化」
セラスさんの声が硬かった。
「神罰が何であるか、あなたは理解しているのですか」
「安全装置の一種である、と推測しています」
ヴェルナーがセラスさんを見た。
「あなたは神聖国家の聖騎士だったそうですね。——失礼。元、聖騎士。灰原で何があったかは、我々も把握しています」
「……」
「安全装置が存在することは、灰原の一件で確実になりました。問題は、その安全装置が誰の意思で動いているのか、です。神の意思なのか、それとも——自動的な仕組みなのか」
「それは——」
セラスさんが言葉を詰まらせた。彼女は知っている。灰原で、イレーネ様から聞いた。安全装置は自動で発動する。神の意思ではなく、パラメータに基づいて。でも——それをヴェルナーに言うべきかどうか。
「答えなくて結構です。我々には我々の情報がある」
ヴェルナーが手を上げて制した。
「重要なのは、こちらの提案です。——ユーリさん」
また、僕を見た。
「あなたの目——魔素が視える目。あなたはノードネットワークの回路を直接視ることができる。灰原で、記録室の回路に接触し、情報を読み取ったと聞いています」
「……ナギさん」
僕はナギさんを見た。
「俺じゃない」
ナギさんが首を振った。
「灰原の隠れ里には、ヴェルナーの息のかかった者がいたということだ。——俺の情報網にも穴はある」
「申し訳ありません」
ヴェルナーが軽く頭を下げた。形式的だった。
「情報収集は我々の仕事です。——本題に戻りましょう。ユーリさん、あなたの目があれば、ノードネットワークの全容を把握し、制御することが可能です。我々の技術者だけでは、ネットワークの構造が複雑すぎて手が出ない。しかし、あなたの目があれば——回路を直接視て、構造を読み解き、制御命令を入力できる」
「制御命令」
「ネットワークを通じて、遺物技術の封印を解除する。禁忌のパラメータを書き換える。神罰の発動条件を無効化する。——それが灯台計画の最終目的です」
ヴェルナーの目が——真剣だった。冷静さの奥に、切実さがあった。
「この国は——いえ、人類は、いつまでも禁忌に縛られているわけにはいかない。技術の発展を恐れ、知識を封じ、文明の進歩を止めている。それは——正しいことですか。人類の可能性を、恐怖で押さえつけることが」
僕は——ヴェルナーの言葉を聞いていた。
間違ったことは言っていない。禁忌が人類を縛っている。神罰が発展を止めている。それは事実だ。灰原を見た。神罰で一つの国が丸ごと消えた。あの恐怖が——世界を動けなくしている。
でも。
「ユーリ」
カイさんが横から声をかけた。低い声。いつもの軽い調子じゃない。
「お前が決めろ。俺たちは——お前の判断に従う」
僕は——少し考えた。
ヴェルナーの計画は、合理的だ。ネットワークを制御すれば、禁忌を書き換えられる。神罰を止められる。人類は自由になれる。それは——望ましいことのように聞こえる。
でも。
灰原の記録室で、僕の共鳴視が触れたもの。断片的な情報。「管理プロトコル」「人口監視」「発展抑制パラメータ」。あの言葉たちは——ただの機械的な設定ではなかった。もっと大きな何かの一部だった。
そして——今日も含めて何度か透視で見た、レフカの地下の光。あの巨大な脈動。心臓のような鼓動。あれは——ただの機械じゃない気がした。根拠はない。でも、僕の目が——僕の目だけが——そう感じている。
「ヴェルナーさん」
僕は言った。
「制御じゃなくて——対話、はできませんか」
「対話?」
ヴェルナーの表情が——初めて動いた。困惑。理解できない、という顔。
「対話です。ネットワークを制御するんじゃなくて、ネットワークの向こうにあるものと——話をする」
「向こうにあるもの?」
「灰原の記録室で——回路に触れたとき、感じたんです。情報が流れ込んでくるだけじゃなくて、向こう側に——何かがいる、って」
「何か」
ヴェルナーの目が細くなった。分析する目。データを処理する目。
「つまり——ネットワークを管理している何かがいる、と。管理者のような存在が」
「存在かどうかは分からない。でも——あの回路は、ただ動いているだけじゃなかった。反応してた。僕が触れたことに——反応した」
沈黙。
ヴェルナーが、しばらく黙っていた。手帳の角を弾く音が、規則的に響いていた。
「興味深い情報です」
ヴェルナーが言った。声は冷静に戻っていた。
「しかし——対話、とおっしゃいましたね。それは科学的に言えば、機構との通信プロトコルの確立ということになります。しかし、機構には意思がない。機構は設計された通りに動くだけです。対話などできません」
「できないと決めつけるのは早いんじゃないですか」
意外な声が上がった。ルークさんだった。
「ネットワークの構造は、俺たちが思っているよりはるかに複雑だ。デルガで見たノードも、灰原の記録室も——単純な機械としては説明がつかない挙動を示していた。ユーリの言う『反応』が事実なら、少なくとも調査の価値はある」
「ルーク……」
ヴェルナーが——ルークさんを見た。複雑な表情だった。かつての部下が、自分に反論している。でもその反論が——かつて自分と共有していた知的好奇心から来ていることを、ヴェルナーは分かっていた。
「調査の価値がある、という点では同意します。しかし、我々には時間がない」
ヴェルナーの声が硬くなった。
「神聖国家が動いています。イレーネの聖騎士団がレフカに向かっているという情報がある。灰原の一件で、楔の存在が彼女たちにも知られた可能性が高い。イレーネが楔に到達すれば——封印される。永遠に。人類はまた、禁忌の檻に閉じ込められる」
「だから急いで制御を確立したい——そういうことですか」
ナギさんが言った。
「その通りです」
「焦りは判断を誤らせる。——あんたほどの男が、分からんはずはないだろう」
「分かっています。しかし——」
「ユーリはどう答えた」
ナギさんがヴェルナーの言葉を遮った。
「この子は『対話したい』と言った。あんたは『対話はできない』と言った。話は平行線だ。——今日のところは、これで終わりにしないか」
ヴェルナーが——黙った。
しばらくの沈黙の後、ヴェルナーが立ち上がった。
「分かりました。今日のところは」
ヴェルナーが軍服の襟を正した。
「ユーリさん。一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「楔の地下——最深部に、我々がまだ到達できていない区画があります。封印が厳重で、我々の技術では突破できない。しかし——あなたの目なら、あるいは」
「封印された区画……」
「何があるのかは分かりません。しかし——ネットワークの構造から推測すると、楔の最も重要な部分がそこに集約されている。制御であれ対話であれ、鍵はおそらくそこにある」
ヴェルナーが背を向けた。
「考えてください。——また連絡します」
ヴェルナーの姿が路地の闇に消えていった。軍靴の音が、石畳に響いて、やがて聞こえなくなった。
宿に戻って、六人でテーブルを囲んだ。
「どう思う」
カイさんが全員の顔を見回した。
「対話、か」
ナギさんが蒼湯を啜った。
「正直——俺にも分からん。ヴェルナーの言い分にも一理ある。ネットワークを管理しているものに意思があるかどうかなんて、分からないだろう」
「でも、ユーリの目は——」
ミラさんが僕を見た。
「ユーリくんが『反応した』って言うなら、そうなんだと思う。ユーリくんの目は、今まで嘘をついたことがないもの」
「嘘とかの問題じゃない」
ナギさんが首を振った。
「ユーリの目が正確だとしても、それが『意思ある存在の反応』なのか、『自動的なシステムの反応』なのか、区別がつかないということだ」
「区別がつくかどうかは、近づいてみないと分からない」
ルークさんが言った。
「楔の中に入って、直接確かめるしかない」
「だな」
カイさんが腕を組んだ。
「結局、やることは同じだ。楔に入る。中を調べる。——そこで見たもので判断する」
「ヴェルナーの灯台計画を止められるかどうかも、それ次第だな」
ナギさんが呟いた。
「あの男の目は本気だった。待てと言って、いつまで待つか分からん」
セラスさんが——静かに手を組んでいた。祈りの姿勢に似ている。でも、祈ってはいない。考えている。
「ユーリさん」
セラスさんが僕を見た。
「あなたが『対話したい』と言ったこと。——私は、理解できる気がします」
「セラスさん」
「楔の地下に何があるのか、私には見えません。あなたのように魔素を視ることはできない。でも——灰原で、遺跡の中で、私も何かを感じました。神の光と呼んでいたもの。あれが——ただの仕組みだとしても、そこに何かがあることは——感じていました」
「……うん」
「対話が可能かどうかは、分かりません。でも——試す価値はあると、私は思います」
セラスさんの言葉は静かだったけれど、重みがあった。元聖騎士として神に仕え、神の光を感じてきた人の言葉だ。
「じゃあ決まりだ」
カイさんが立ち上がった。
「楔に入る。中で——ユーリがあの光に触れる。対話できるなら対話する。できないなら、そのとき考える。——それでいいな」
全員が頷いた。
「問題は——どうやって楔に入るか、だ」
ナギさんがテーブルに肘をついた。
「地下への接続路はいくつか見つけた。公式のものは軍が管理している。非公式のもの——つまり、軍の目を逃れて入れるルートが、一つだけある」
「一つだけ?」
「旧い下水道だ。レフカの地下には旧文明の排水路が残っていて、一部が現在も使われている。その旧排水路の奥が——楔の外壁に接触している場所がある」
「どこだ」
「明後日、案内する。——今日は寝ろ。やることは多い」
部屋に戻って、ベッドに横になった。
目を閉じても——地下の光が見えるような気がした。
あの巨大な脈動。心臓のような鼓動。
対話したい、と僕は言った。
なぜそう言ったのか——自分でも、はっきりとは分からなかった。ヴェルナーの計画は合理的だった。制御できるなら、制御した方がいいのかもしれない。
でも——あの光に触れたとき、僕は感じた。制御される側の「何か」を。
灰原の記録室で、共鳴視が捉えたもの。断片的な情報の向こうに——応答があった。機械的な応答ではなく、もっと——繊細な何か。
それが何なのかは、まだ分からない。
でも、分からないからこそ——まず話を聞きたかった。
制御する前に。壊す前に。変える前に。
まず——聞きたい。
窓の外で、レフカの魔石灯がまたたいていた。
その下に——楔が、脈打っている。




