第41話 アルヴァスの港
第十四話 アルヴァスの港
アルヴァスは、小さな港町だった。
灰原の東端から丘陵を越えて半日歩くと、海が見えた。灰色と蒼の入り混じった灰原とは打って変わって、青い海と白い波が広がっていた。潮風が頬を撫でた。塩の匂いがした。デルガの港を思い出す匂いだった。
町は港の周りにこぢんまりとまとまっていた。石造りの家屋が斜面に並び、路地を下ると波止場に出る。漁船が十数隻、桟橋に繋がれていた。干し網に魚が並び、作業場では女たちが魚を捌いている。子供が波止場を走り回っている。穏やかな町だった。
冒険者ギルドの出張所は、波止場から少し離れた場所にあった。二階建ての石造りで、看板が潮風で色褪せている。小さいが、受付と依頼掲示板と素材買取所が揃っていた。
「まず素材を売る。それから装備を整える。順番にいこう」
カイさんが言った。
素材の整理は、宿の一室で行った。
宿は港のそばの小さな建物で、部屋が三つしかなかった。男三人と女二人で分けて、残り一室をナギさんが取った。部屋は狭かったが、窓から海が見えた。塩の匂いと魚の匂いが混ざった風が入ってくる。ベッドは硬かったが、灰原の地面に比べれば天国だった。
テーブルの上に、灰原で得た素材を並べた。
核獣の核魔石。拳よりも二回りほど大きい、透明に近い白い結晶。内部に精密な回路が走っている。テーブルの上に置くと、部屋の空気が微かに震えた。魔素の密度が、この一つの石の周りだけ高い。
「これは売らない」
ルークさんが即座に言った。
「核魔石の回路構造は、楔の解析に必要になる可能性が高い。研究素材として保管する」
「売ったら家が何軒建つか分からんがな」
カイさんが肩をすくめた。
「まあいい。ルークが言うなら、そうだろう」
核獣の外殻片。指先大の破片が十数個。蒼牙を超える硬度を持つ魔石構造の素材だ。
「外殻片は一部を売却して資金にする。残りは——新装備の素材に使う」
ルークさんが外殻片を大きさと純度で分類した。手つきが丁寧だった。
「この三つは純度が高い。武器の素材になる。残りは売却だ」
他にも、遺跡内で回収した遺物の部品、守護者の残骸から得た回路片、貯蔵庫で見つけた保存状態のいい金属部品がいくつか。ルークさんが一つずつ鑑定して、売却品と保管品に分けた。
ギルドの出張所で売却を済ませると——カイさんが目を丸くした。
「金貨が……こんな枚数になるのか」
「核獣の外殻片だぞ。市場にほとんど出ない素材だ。買い手がつくだけでも幸運だ」
「出張所の受付嬢が腰抜かしてたな」
カイさんが笑った。
装備の発注は、町の鍛冶師に依頼した。
アルヴァスの鍛冶師は老人が一人だけだったが、腕は確かだった。漁具と日用品が主な仕事だが、かつてはデルガの工房で修業したことがあるという。核獣の外殻片を見せたとき、老人の目が変わった。
「こいつは……見たことがねえ素材だ。魔石構造の——しかもこの純度。どこで手に入れた」
「灰原の遺跡の奥で」
カイさんが答えた。
「大剣を一振り、打ってほしい。この外殻片を鋼に混ぜて鍛えられるか」
老鍛冶師が外殻片を手に取り、光に翳し、爪で弾き、舌で舐めた。
「混ぜるのは難しい。鋼と魔石構造の素材は溶融点が違う。——だが、不可能じゃない。粉末にして鋼に練り込む方法がある。出来上がりは——通常の鋼より遥かに硬く、軽く、そして魔素を通す」
「魔素を通す?」
「魔石の性質が残るんだ。刃に魔素が宿る。斬撃に魔素が乗る。——まあ、魔法使いが持てば、の話だがな。素養のない人間が持っても、ただの硬い剣だ」
「ただの硬い剣で十分だ」
カイさんが笑った。
「俺に魔法の素養はねえ。硬くて軽い大剣があれば、それでいい」
「注文は受けた。三日くれ。——いい仕事をする」
老鍛冶師の目が輝いていた。職人の目だった。
ルークさんは、僕の遺物レンズの改良に取りかかった。
遺物レンズの片眼鏡。デルガで手に入れた、遺跡の光学部品を加工した特注品だ。透視を使うときに、焦点を合わせやすくなる。ルークさんが以前から調整してくれていたものだが、灰原での酷使で——レンズの固定具が歪んでいた。
「レンズ自体は無事だ。固定具を作り直す。ついでに——核魔石の破片を一つ、ここに嵌め込みたい」
ルークさんが片眼鏡を分解しながら言った。工具ベルトから精密な道具を次々と取り出す。
「核魔石の破片をレンズフレームに組み込めば、魔素の集光効果が得られる。ユーリの透視が——わずかだが、鮮明になるはずだ」
「わずか、って」
「五パーセントから十パーセント程度。だが——楔のような超大規模構造を視るときには、その差が意味を持つ」
ルークさんの手が、精密に動いた。レンズを外し、フレームを矯正し、核魔石の小さな破片——米粒ほどの大きさに砕いたもの——をフレームの内側に嵌め込む。接着には蟲糸の樹脂を使った。乾くと透明になり、衝撃にも強い。
「これでいい。乾燥に半日かかる。明日には使える」
「ありがとう、ルークさん」
「礼は要らない。これは俺の趣味だ」
ルークさんが眼鏡を押し上げた。唇の端が——わずかに上がっていた。
三日間の滞在の間に、全員の装備が整った。
カイさんの新しい大剣は、三日目の朝に仕上がった。
鍛冶場に受け取りに行くと、老鍛冶師が満足げな顔で剣を差し出した。
核魔石混合の大剣。刃渡りは以前のものとほぼ同じだが、色が違った。鋼の銀色に、わずかに青みがかった光沢がある。核獣の外殻片が鋼に溶け込んで、魔石の色を帯びているのだ。持ち上げると、以前の剣より明らかに軽い。だが、試し斬りで木の幹を叩くと——刃が木の半ばまで食い込んだ。引き抜くときに、切り口がきれいだった。鋭い。
「いい剣だ」
カイさんが刀身を見つめた。
「最高だ。——爺さん、腕がいいな」
「久しぶりにいい仕事をさせてもらった。この素材で打てる機会は、もう来んだろうからな」
カイさんは新しい大剣を背に負った。さらに、苔皮の重鎧を身につけた。苔巨人の皮を加工した鎧は、灰原に入る前にデルガで仕立てたものだ。撥水性があり、軽い割に衝撃に強い。灰原での戦闘で擦り傷や汚れがついていたが、洗って油を塗り直した。
僕の装備。
蒼牙のナイフ。第一巻の冒頭から——辺境の集落で村の鍛冶師に作ってもらった、蒼牙狼の牙で作ったナイフだ。刃が少し鈍っていた。アルヴァスの鍛冶師に研ぎ直してもらった。
「いい刃物だな。蒼牙か。よく手入れされている」
「大切なナイフなんです」
研ぎ上がったナイフは、新品のときの輝きを取り戻していた。蒼い光沢を帯びた刃が、光を反射する。
遺物レンズの片眼鏡。ルークさんが改良してくれたものを装着した。左目にかける。フレームの内側に核魔石の破片が嵌め込まれていて、かけた瞬間——魔素の粒が、ほんの少し鮮明に見えた。
「……すごい。少しだけだけど、くっきり見える」
「五パーセントだ」
「でも——すごい」
「どういたしまして」
ルークさんが満足そうに頷いた。
ミラさんの装備。
薬草鞄が大型化していた。デルガを出るときに背負っていた革鞄では、もう入りきらなくなっていたのだ。アルヴァスの革細工師に新しい鞄を注文した。苔皮と蒼牙の留め具を使った、肩掛け式の大型鞄。内部に仕切りがあり、薬草と薬液を分けて収納できる。乾燥棚まで付いている。
「これなら採取した薬草をすぐに乾燥にかけられるよ。移動中でも」
ミラさんが鞄を開け閉めしながら、嬉しそうに言った。
さらに、治癒用のアクセサリー。遺跡で回収した遺物素材——魔素を蓄積する性質を持つ金属片——を、鍛冶師に頼んでブレスレットに加工してもらった。腕に嵌めると、治癒魔法の効率がわずかに上がる。
「魔素の蓄積量が増えるから、治癒魔法を使えるまでのチャージが速くなる。——ルークさんの受け売りだけどね」
ミラさんがブレスレットを撫でた。銀色の金属に、微かに光が走っている。
ルークさんの装備。
工具ベルトを新調した。以前のものは灰原で相当に傷んでいた。新しいベルトには、精密工具の収納スロットが倍に増えている。罠用の遺物部品——遺跡から回収した小型の魔素式デバイス——を幾つも装填していた。
「灰原の遺跡で回収した部品は、罠の精度を上げるのに使える。特にこの魔素感知式の起爆装置は——」
「また長くなるぞ。手短にしろ」
カイさんが遮った。
「……要するに、今までより強力な罠が仕掛けられるようになった。以上」
ルークさんが不満そうに口を閉じた。眼鏡は——変わっていない。遺物のレンズを使った特注品。ただ、フレームの歪みを直して、ネジを締め直していた。
セラスさんの装備。
聖騎士の装束が修繕されていた。灰原での戦闘と避難で、白い外套は泥と煤で汚れ、袖口が破れていた。アルヴァスで布を買い、自分で縫い直していた。縫い目は丁寧だった。聖騎士の訓練には、装束の手入れも含まれているのだろう。
白い装束が、再び白くなっていた。汚れを落とし、破れを直し——だが、完全に元には戻らない。縫い目が走っている場所がある。それは勲章だと、僕は思った。灰原を生き延びた証だ。
細剣。聖騎士の佩剣だ。磨き直されて、刃が光を帯びていた。セラスさんが宿の裏庭で剣を振っているのを見た。滑らかな動きだった。剣が空気を切る音が、かすかに聞こえた。
「きれいですね。セラスさんの剣」
僕が声をかけると、セラスさんが手を止めた。
「きれい、ですか」
「うん。魔素の流れが——剣の動きに沿って、きれいに流れてる。セラスさんの剣は、魔素を乱さない」
「……不思議なことを言いますね、あなたは」
セラスさんが——少しだけ笑った。以前より、笑う頻度が増えた気がする。
ギルドランクの昇格は、二日目に行われた。
出張所の受付で、灰原での活動報告を提出した。核獣の撃破。守護者の撃破。遺跡の調査。避難民の救助。
受付の女性が報告書を読んで、三回ほど読み返して、一度奥に引っ込んだ。戻ってきたときには、上役らしき男性を連れていた。
「これは——国家級の功績ですね」
上役が報告書を指で叩いた。
「核獣の撃破は、現在の記録では十年間で確認できる事例が三件しかありません。しかも、守護者まで撃破している。これは——ギルド本部に報告が必要です」
手続きは迅速だった。出張所に本部への通信手段があり、その日のうちに仮承認が下りた。
ユーリ——鉄牌六から、銀牌五へ。
カイ——銀牌四から、金牌三へ。
新しい牌が渡された。
僕の銀牌は、銀色の金属プレートだった。表面にギルドの紋章と名前が刻まれている。鉄牌の黒っぽい色とは違う、明るい銀色だ。手に持つと、少しだけ重かった。
「銀牌……」
「おめでとう、ユーリくん」
ミラさんが笑った。
「銀牌だよ。すごいじゃん」
「ミラさん、ありがとう」
カイさんの金牌は——金色だった。
当たり前のことだが、実物を見ると印象が違った。金色の金属プレート。表面の紋章が精密に刻まれていて、光を受けると微かに輝く。金牌の冒険者は、ギルドの中でも上位数パーセントだ。国家級の功績がなければ到達できない高み。
カイさんが金牌を手のひらに載せて、しばらく見つめていた。
「金牌か」
カイさんの声は——静かだった。いつもの陽気さが薄い。代わりに、もっと深い何かが滲んでいた。
「……下水道のガキが、ここまで来たか」
デルガの下水道。親を失い、孤児として暮らしていた幼い日々。生きるために冒険者になり、遺跡を探して、金を稼いで——ここまで来た。
カイさんが金牌を握りしめた。強く。
「リーナとベルトに見せてやりたいな」
それだけ言って、金牌を懐にしまった。
「飯にしよう」
カイさんが急に声を上げた。いつもの調子が戻っていた。
「港町だぞ。魚だ。新鮮な魚が食いたい。灰原じゃ干し肉と乾燥キノコしか食ってなかったんだ。もう我慢できん」
港町の食堂に全員で向かった。
食堂は波止場の近くにあった。石壁に囲まれた小さな店で、天井が低く、テーブルが五つほど。漁師と船乗りが常連客のようで、壁に魚の骨で作った飾り物が掛かっていた。潮と魚の焼ける匂いが混ざった、いい匂いがした。
テーブルを二つ繋げて、六人で囲んだ。
料理が運ばれてきた。
まず、白身魚の塩焼き。朝獲れの魚を丸ごと塩で焼いたもの。皮がぱりぱりに焼けていて、箸を入れると白い身がほろりと崩れた。脂が乗っている。口に入れた瞬間、魚の旨味と塩気が舌に広がった。
「旨い」
カイさんが目を閉じた。
「旨い。これだ。これが食いたかった」
次に、貝と根菜の温かいスープ。二枚貝の出汁が効いた、透き通ったスープだ。根菜が柔らかく煮込まれていて、噛むと甘みが出る。塩加減がちょうどいい。体が芯から温まった。
「このスープ……貝の出汁が効いてるね。美味しい」
ミラさんがスープを啜って、目を輝かせた。
「こっちの地方の貝は、デルガのとは種類が違うみたい。出汁の色が薄いけど、旨味が深い」
パンが山盛りで出てきた。焼きたてだった。外側がかりっとしていて、中がふわふわだった。スープに浸して食べると——言葉にならないほど旨かった。灰原で何日も硬い携行食を食べていたから、焼きたてのパンの柔らかさが、涙が出そうなほどありがたかった。
小魚のフライ。片手で摘まめるほどの小魚を丸ごと衣をつけて揚げたもの。頭から尻尾まで、かりかりと食べられる。塩を振って、次々と口に放り込んだ。
「手が止まらない」
僕が言うと、ミラさんが笑った。
「ユーリくん、食べすぎだよ。——って、私も止まらないけど」
セラスさんが、最初は控えめに食べていた。だが——白身魚の塩焼きを一口食べた後、箸の動きが速くなった。
「……美味しい」
「だろ」
カイさんが笑った。
「灰原から出たら、まともな飯を食う。それが冒険者の鉄則だ」
「鉄則なんですか」
「俺の鉄則だ」
ルークさんはスープを静かに飲みながら、貝の殻を脇に積み上げていた。几帳面に、同じ向きに。
「なるほど。この貝の殻の構造は面白いな。二層になっていて——」
「食え。分析するな」
カイさんが小魚のフライをルークさんの皿に放り込んだ。
ナギさんは隅の席で、酒を飲んでいた。港町の地酒だ。魚の匂いがする、と言っていたが、三杯目をおかわりしていた。
「まあまあの店だな」
ナギさんが言った。皮肉屋のくせに、頬が緩んでいた。
全員が腹一杯食べた。
食後の満足感が、テーブルの上に漂っていた。誰もすぐには立ち上がらなかった。
食事の後、公衆浴場に行った。
アルヴァスには小さな公衆浴場があった。港の労働者や漁師が利用する場所で、大きな石造りの湯船が二つ。魔石で水を温めている。シンプルだが、十分だった。
灰原に入ってから——何日風呂に入っていなかっただろう。遺跡の中では水が貴重で、洗体どころではなかった。灰原を横断するときも、川で顔を洗う程度が精一杯だった。
湯に浸かった瞬間、声が出た。
「……あぁ」
カイさんも同時に声を漏らした。
「く——効く。全身に効く」
熱い湯が——体の隅々まで沁み渡った。筋肉の凝りがほどけていく。灰原の乾いた空気で荒れた肌に、湯の温かさが染みた。
ルークさんが黙って湯に沈んでいた。眼鏡を外した顔は——普段より若く見えた。
「ルーク、お前風呂で寝るなよ」
「寝てない。目を閉じているだけだ」
「同じだろ」
隣の湯船から、女性側の笑い声が聞こえた。ミラさんの声だ。
「セラスさん、髪長いからお湯に入れないと大変だよね。ほら、こっちに座って。洗ってあげる」
「い、いえ、自分で——」
「いいからいいから。背中も流すよ」
「あ——ミラさん、そこは……くすぐったい」
セラスさんの声が——聞いたことのないトーンだった。素が出ている。完全に。
僕とカイさんが顔を見合わせた。
「聖騎士も風呂では無防備だな」
「みたいだね」
湯船の中で、僕は天井を見上げた。石造りの天井から湯気が立ち上っている。体が重い。でも、心地いい重さだった。疲労が溶けていくような感覚。
風呂から上がった後、宿に戻って——全員の装備を一通り確認した。
六人が、テーブルを囲んでいた。新しい装備を身につけて、あるいは傍らに置いて。
カイさん。核魔石混合の大剣を背に負い、苔皮の重鎧を着込んでいる。日焼けした腕が鎧の隙間から覗いている。金牌が懐にある。
僕。蒼牙のナイフを腰に差し、遺物レンズの片眼鏡を左目にかけている。銀牌が胸にある。
ミラさん。大型化した薬草鞄を肩から掛け、治癒用の遺物ブレスレットを左腕に嵌めている。鞄の中から、薬草の匂いがする。
ルークさん。新しい工具ベルトに精密工具と罠用の遺物部品を装填している。眼鏡の奥の目が、いつも通り何かを観察している。
セラスさん。修繕した聖騎士の白い装束を身につけ、磨き直した細剣を腰に佩いている。縫い目が走った装束は——前より似合っている気がした。
ナギさん。着古した外套。隠しポケットに何が入っているかは分からない。左手の四本指が、テーブルの上で小さくリズムを刻んでいる。
「レフカか」
カイさんが言った。
「——いよいよだな」
「楔がある」
ルークさんが言った。
「全ての回路が集まる場所が」
「安全装置を、どうするのですか」
セラスさんが聞いた。真剣な声だった。
「楔に辿り着いて、安全装置の正体を知ったとして——それをどうするのですか。壊すのですか。止めるのですか」
全員がセラスさんの方を向いた。
僕は——少し考えた。
壊す。止める。それも一つの答えかもしれない。安全装置が人を縛っているなら、それを壊せば——自由になれるかもしれない。でも。
灰原を見た。五十年間死んでいた大地が、安全装置の——神罰の結果だった。安全装置を壊したら、もっと大きな規模で同じことが起きるかもしれない。
イレーネ様の言葉を思い出した。ヴェルナーは安全装置を知らないまま、楔に触れようとしている。知らないまま壊そうとしている。
なら——
「……壊すんじゃなくて、変える」
僕は言った。
「変えられる方法を、探す」
声に出したのは初めてだった。胸の中で形を取り始めていたものが——言葉になった。まだ曖昧で、具体的な方法なんて何も見えていない。でも——方向は、これだと思った。
「甘いことを言うな」
ナギさんが言った。
皮肉屋の目が、僕を見ていた。厳しい目だった。だが——その奥に、別の光があった。
「——だが、嫌いじゃないぜ」
ナギさんが口角を上げた。
「壊すでもなく、守るでもなく、変える、か。——面白いじゃないか」
「面白くなくていいから、実現可能であってほしいがな」
カイさんが言った。
「ま、行ってみなきゃ分からん。楔に着いてから考えよう」
「着いてからじゃ遅いだろう」
「考えすぎたら足が止まる。行きながら考えろ。それが冒険者だ」
「脳筋め」
「否定はしねえ」
カイさんが笑った。
出発の朝は、よく晴れていた。
港から小型の商船に乗る。ナギさんが手配した船だ。レフカの港に直行するのではなく、途中の島を経由する間接ルート。監視が緩い、とナギさんは言った。
波止場で、僕は海を見た。
朝日が海面に反射して、無数の光の粒を作っていた。魔素の粒ではない。ただの——光の反射だ。でも、きれいだった。
「行くぞ」
カイさんが船に乗り込んだ。新しい大剣が背中で揺れた。
「うん」
僕も船に乗った。
ミラさんが薬草鞄を抱えて乗り込んだ。ルークさんが工具ベルトを確認しながら続いた。セラスさんが白い装束の裾を持ち上げて、桟橋を渡った。ナギさんが最後に乗って、外套の襟を立てた。
六人が、船の上に揃った。
出港の合図が出た。帆が風を受けて膨らみ、船がゆっくりと波止場を離れた。
アルヴァスの町が——小さくなっていく。
蒼い灰原は——もう見えなかった。丘陵の向こうに隠れている。でも、あの蒼い大地のことは忘れないだろう。死んでいた土地が蒼く染まっていく光景。子供が初めて空を見た顔。背中にしがみついた小さな手の軽さ。
船は東に向かった。レフカへ。
楔がある場所へ。
潮風が頬を撫でた。塩の匂いがした。
僕は片眼鏡越しに、水平線の向こうを見た。魔素の粒が海の上にも漂っている。淡い光が、水面の上でゆらゆらと揺れていた。
その光の先に——何が待っているのか。
まだ分からない。
でも、僕たちは六人だ。
レフカへ向かう。




