第40話 託された問い
第十三話 託された問い
翌朝、丘の上で全員が集まった。
住人たちの体調は、夜のうちに幾分落ち着いていた。魔素酔いは一過性のものだ。慣れれば収まる。ミラさんが朝一番に全員を確認して、重篤な者はいないと報告してくれた。
ナギさんが住人の中から何人かの年長者を呼び寄せて、今後のことを話していた。灰原の外の集落への移住、食料の確保、子供たちの世話——五十年間の地下生活を捨てた人々が、新しい場所で生きていくための段取り。ナギさんの声は低く落ち着いていて、皮肉の成分がいつもより薄かった。
「丘を越えた先に漁村がある。大きな集落じゃないが、受け入れは交渉できる。——俺の顔が利く場所だ」
「ナギ殿。私たちは——」
「心配するな。生き延びる算段はつけてやる。まず今日中に先遣を出す。三日もあれば話はまとまるだろう」
ナギさんが年長者たちを送り出した後、僕たちのもとに来た。
「さて」
ナギさんが焚き火の残り火の前に座った。
「お前たちには、話しておくことがある」
全員がいた。カイさんが地面に胡坐をかいている。ルークさんが眼鏡のレンズを拭きながら、耳を傾けている。ミラさんが薬箱の整理をしながら——手を止めた。セラスさんが背筋を伸ばして座っている。
そして、イレーネ様が——少し離れた場所に立っていた。木の幹に背を預けて、穏やかな微笑みを浮かべている。だが、その薄い紫の瞳は、こちらをじっと見ていた。
「灰原の件で、はっきりしたことがある」
ナギさんが言った。
「ヴェルナーの連中は、遺跡を意図的に活性化させようとした。目的は分からん。だが、あの遺跡に手を加えた結果、五十年間の封印が崩れた。——これは偶然じゃない。計画的だ」
「灯台計画の一環だろう」
ルークさんが言った。
「ヴェルナーは各地のノードをネットワークとして制御しようとしている。灰原の遺跡は、その中でも大規模なノードだ。活性化させて、ネットワークに組み込もうとした——と考えるのが自然だ」
「結果がこれだ」
ナギさんが灰原の方を顎で示した。
「蒼い樹海が育ちつつある。隠れ里は消えた。百人の人間が住む場所を追われた。——これがヴェルナーのやり方だ。安全装置を知らないまま、仕組みに手を突っ込む」
沈黙が落ちた。
「私から、お話ししてもよろしいですか」
イレーネ様が木の幹から背を離した。ゆっくりと、こちらに歩いてくる。一歩ごとに空気が変わった。穏やかな圧力だった。怖くはない。だが——軽くもない。
「反宗教国家は、取り返しのつかないことをしようとしています」
イレーネ様が全員を見渡した。
「ヴェルナーは安全装置を知らないまま、楔に触れようとしている。——楔が何かは、記録の間でご覧になりましたね」
僕は頷いた。全大陸のノードが集約する中枢。レフカの地下に眠る、最大規模の遺跡。
「楔は、このネットワークの中枢です。全てのノードの情報が集まり、全てのノードに指令が出る場所。そこに——外部から無理やり干渉を行ったとき、何が起きるか」
イレーネ様の声が、わずかに低くなった。
「灰原で起きたことが、大陸規模で起こります。——いえ、それ以上です。楔への干渉は、安全装置の発動条件を満たす。神罰が——全てを巻き込む規模で、発動し得るのです」
「全てを巻き込む規模……」
ルークさんが呟いた。眼鏡の奥の目が、鋭くなっていた。
「灰原一国を滅ぼした神罰が、大陸全体に及ぶ可能性がある——と?」
「可能性ではなく、確実性です。楔は、そういう場所なのです」
イレーネ様の声は穏やかだった。だが、その穏やかさの中に——悲しみがあった。
「私は、これを防ぎたい。——しかし、私の立場では防げない」
「なぜですか」
セラスさんが聞いた。声が硬かった。
「教団の立場では、反宗教国家に直接干渉できないのです。政治的に——そして、信仰上も。神聖国家の大神官が反宗教国家の首都に兵を送れば、それは戦争です。戦争は新たな悲劇しか生みません」
「それなら——」
「あなたたちなら、あるいは」
イレーネ様が微笑んだ。
穏やかな笑みだった。だが——僕の目には、その微笑みの奥に、複雑な光が渦巻いているのが見えた。頼っているのか。試しているのか。それとも——託しているのか。
「冒険者であるあなたたちなら、国の枠組みに縛られずにレフカに入れます。ヴェルナーの計画を知り、その危険性を理解している。——そして、ユーリ」
僕の名前を呼んだ。
「あなたの目は、楔の構造を視ることができるかもしれない。ヴェルナーが知らない安全装置の仕組みを——あなたなら、理解できるかもしれない」
「俺たちに行けと」
カイさんが言った。挑むような声ではなかった。確認する声だった。
「お願いしているのです。強制ではありません。——ただ、私は正直に言います。あなたたち以外に、この状況を変えられる人間を、私は知らないのです」
イレーネ様が頭を下げた。
大神官が——頭を下げた。
沈黙の中で、僕は仲間たちの顔を見た。
カイさんは腕を組んで、灰原を見つめていた。ルークさんは何かを計算するように目を細めていた。ミラさんは唇を結んでいた。
セラスさんは——立ち上がった。
「イレーネ様」
セラスさんの声が、朝の空気を切った。
全員がセラスさんを見た。イレーネ様が顔を上げた。
セラスさんは真っ直ぐに立っていた。白い装束に朝日が当たって、銀に近い淡い髪が光っていた。聖騎士の姿だった。だが、その目は——今まで見たことのない光を宿していた。
「私はもう、あの方の駒にはなりません」
声は震えなかった。
硬い丁寧語が、その一言だけ崩れた。素の声だ。
「——信仰を捨てたわけではありません」
セラスさんはイレーネ様を見つめた。
「神を疑っているのでもありません。でも——イレーネ様の言う『現状維持』は、正しくない。灰原で、私は見ました。あなたの言う安全装置が何をしたのか。五十年間、人が地下で息を潜めて暮らしていた。子供が空を知らなかった。それが——正しいとは、思えない」
イレーネ様は微笑んだままだった。だが、その微笑みが——ほんの少しだけ、揺れた。
「セラス。あなたは——」
「私は聖騎士です。人を守るために剣を振るう者です。禁忌を管理するためではなく——人を守るために」
セラスさんが僕たちの方を向いた。
「このパーティに、正式に加わりたい。——受け入れてもらえますか」
カイさんが立ち上がった。
「今さら何を言ってるんだ」
カイさんが笑った。あの——核獣を倒した後に見せたのと同じ笑みだった。
「もうとっくに仲間だろ。共闘した時点で」
「カイさん……」
「聖騎士だろうが何だろうが関係ねえ。強えし、信用できる。それで十分だ。——なあ、ルーク」
「異論はない。むしろ、あの短詠唱がパーティに加わるのは心強い」
ルークさんが眼鏡を押し上げた。
「面白いことになってきた」
「セラスさん」
僕は言った。
「ようこそ」
セラスさんの目が——潤んだ。ほんの一瞬だけ。すぐに瞬きで消した。聖騎士は泣かない。でも——目の縁が、赤くなっていた。
「……ありがとうございます」
六人目が加わった。
セラスさんが——僕たちの仲間になった。
イレーネ様は、それを黙って見ていた。微笑みの質が変わっていた。悲しみか。安堵か。あるいはその両方か。僕にはまだ、イレーネ様の表情を正確に読み取る力がなかった。
「よい仲間を得ましたね、セラス」
イレーネ様が静かに言った。
「あなたの選択を、私は否定しません。——ただ」
「はい」
「くれぐれも、気をつけなさい。楔に辿り着いたとき——あなたが信じてきたものが、根底から揺さぶられるかもしれません。それでも立っていられる強さを、祈っています」
「……はい」
セラスさんの声が、微かに震えた。今度は——感情を隠しきれなかった。
イレーネ様はその後、僕たちから離れた。住人たちの様子を見に行く、と言って。大神官が避難民の間を歩いて、一人ずつ声をかけている姿が見えた。穏やかな笑みを浮かべて。あの笑みの下に、どれだけの重荷があるのか——僕には想像することしかできなかった。
セラスさんの正式加入を祝って——というほどの余裕はなかったが、ミラさんが残りの食料で簡単な食事を用意してくれた。干し肉を刻んで粥に入れ、香草の粉を振った。温かい粥を六人で分けて食べた。器は二つに増えていた。隠れ里から持ち出した小さな椀を、住人の一人が「持っていけ」と渡してくれたのだ。
「六人か」
カイさんが粥を啜った。
「最初は二人だったのにな」
「三人目は私だよ」
ミラさんが笑った。
「棘背蜥蜴に追いかけられてたところを助けてもらったの。あれがなかったら、ここにいないね」
「四人目は俺だな」
ルークさんが椀を持ち上げた。
「遺跡の奥で、罠を解除していたら声をかけられた。あのときは——まさかこんなことになるとは思わなかった」
「五人目がナギさんで、六人目がセラスさん」
僕が数えた。
「いや、ナギは同行者であって正式メンバーじゃないぞ」
ナギさんが横から口を挟んだ。
「俺はあくまで情報屋だ。戦闘力は当てにするな」
「じゃあ五人目がセラスさんで、ナギさんはオマケ」
「オマケ呼ばわりかよ。……まあ、否定はしないが」
ナギさんが苦笑した。
食事の後、少し時間ができた。
住人たちの避難先の手配をナギさんが進めている間、僕たちは装備の確認と今後の方針を話し合った。
「レフカに向かう」
カイさんが言った。
「イレーネの話を聞いたろ。楔がある。ヴェルナーがそこに手を出そうとしている。灰原の二の舞——いや、それ以上のことが起きる。止めに行く」
「賛成だ」
ルークさんが頷いた。
「楔がある。全ての回路が集まる場所が。——正直に言えば、俺はそれを見たい。見ないで終われない」
「ルークさん……それ、半分は好奇心でしょう」
「七割くらいだな」
「ええ……」
ミラさんが呆れたように笑った。それから、表情を引き締めた。
「私も行くよ。行かない理由がないもん」
「セラスは——もう聞くまでもないか」
「はい。——楔の安全装置が何であるのか、私も知る必要があります。聖騎士として」
「ユーリ」
カイさんが僕を見た。
「……うん。行く」
答えに迷いはなかった。
「僕の目が必要なら——行く。それに、イレーネ様が言った通り、楔に何があるのか、見ないと分からないことがある」
「決まりだな」
カイさんが拳を打ち合わせた。
方針が決まった後——ミラさんが、不意に口を開いた。
「セラスさん」
ミラさんの声は、いつもより少し低かった。
セラスさんが顔を上げた。
「はい」
「さっきの話。聖騎士を辞めるとか、イレーネ様の駒にならないとか——覚悟を決めたんだよね」
「……はい」
「それだけの覚悟があるなら、一つ聞いていい?」
空気が変わった。カイさんが粥の椀を下ろした。ルークさんの手が止まった。
「セラスさんが……前に言ってた。『処理した集落がある』って」
ミラさんの声は平静だった。だが、平静を保つために——力が入っていた。唇の端が、微かに白くなっている。
「その集落って——どこだったの」
セラスさんの顔から、表情が消えた。
一瞬だった。聖騎士の仮面が被さった——のとは違う。感情が多すぎて、顔がどんな形を作っていいか分からなくなったような——空白だった。
「……辺境の集落です」
セラスさんの声は低く、硬かった。
「名前は——覚えています。忘れられるものではありません。あの集落は——」
「……やっぱりいい」
ミラさんが遮った。
セラスさんが口を閉じた。
「今は聞かない」
ミラさんの声は——震えていなかった。だが、目が泳いでいた。視線が定まらない。薬箱の上の手が、無意識に蓋を撫でている。
「ごめんね、セラスさん。変なこと聞いて」
「いいえ——」
「今は、レフカのことを考えよう。それが先だよね」
ミラさんが笑った。いつもの笑顔だった。でも——僕にはそれが、貼りつけた笑顔に見えた。
二人の間の空気が、微妙に変わった。
敵意ではない。拒絶でもない。ただ——何かが、すぐそこまで来ている。お互いにそれを感じていて、お互いにまだ触れようとしない。触れたら——どうなるか分からないから。
ミラさんの集落。セラスさんが処理した集落。
その二つが同じものだという可能性を——僕はずっと感じていた。ミラさんも、たぶん感じ始めている。だから「やっぱりいい」と止めたのだ。聞いたら、もう引き返せないから。
カイさんが、後で僕の隣に来た。
「あの二人、何かあったのか」
小声だった。
「……うん。でも、まだ話すときじゃないみたい」
「そうか」
カイさんはそれ以上聞かなかった。ただ、灰原の方を見て——ぽつりと言った。
「面倒なことにならなきゃいいがな」
面倒なこと、で済むだろうか。僕には——もっと深い何かが、二人の間に横たわっているように見えた。
午後になって、ナギさんが戻ってきた。
「先遣を出した。漁村への連絡は明日には届くだろう。住人たちは——ここでしばらく待機させる。食料は俺のツテで手配する」
「ナギさん。僕たちは——」
「聞いてたよ。レフカに行くんだろう」
ナギさんが肩をすくめた。
「お前たちの話し合い、隣で聞いてた。——まあ、行くなとは言わん。行くべきだろうとも思う」
ナギさんが焚き火の灰を棒で突いた。
「だが、レフカは簡単に入れる街じゃない。反宗教国家の首都だ。軍がいる。ヴェルナーの情報部がいる。よそ者の冒険者が五人——いや六人でぞろぞろ入ったら、即座に目をつけられる」
「案内が要る、ということか」
ルークさんが言った。
「そういうことだ」
ナギさんが立ち上がった。外套の埃を払い、四本指の左手で——自分の顔を指した。
「レフカには俺の情報網がある。安全な入り方、潜伏先、ヴェルナーの動きを探る手段——全部持ってる。案内してやるよ」
「ナギさん」
「言っとくが、善意じゃないぞ」
ナギさんが片方の口角を上げた。皮肉屋の仮面が戻っていた。
「俺には俺の目的がある。灯台計画の全容を知りたい。楔に何があるのか知りたい。——お前たちと一緒なら、そこに辿り着ける。利害の一致ってやつだ」
「素直じゃないな」
カイさんが笑った。
「素直なのはお前だけで十分だ。——まあ聞け。レフカに行く前に、まず装備を整える必要がある。灰原の外縁に港町がある。そこで補給して、船でレフカに向かう。陸路より海路のほうが監視が緩い」
「港町……」
「アルヴァスという町だ。小さいが、ギルドの出張所がある。素材の売却も、装備の調達もできる。——まずはそこで態勢を立て直せ」
ナギさんが地図を広げた。灰原の東、海に面した小さな港町が描かれていた。
レフカに行く。
楔がある場所に。
ヴェルナーが手を伸ばそうとしている場所に。
安全装置の——本当の姿を知るために。
僕は蒼く変わりゆく灰原を最後に振り返った。
五十年間死んでいた大地が、蒼い植物で覆われていく。それは美しくもあり、恐ろしくもあった。自然の力は——人の都合など知らない。魔素が戻れば、魔素の世界が広がる。それだけのことだ。
イレーネ様の言葉が耳に残っていた。
人がどう意味づけるかは、人の問題。
なら——僕たちがレフカで見つけるものに、どんな意味があるのか。それも、僕たち自身が決めることなのだろう。
壊すんじゃなくて、変える。
変えられる方法を探す。
まだ言葉にはできなかった。ただ、胸の中で——何かが形を取り始めていた。




