第39話 蒼に染まる大地
第十二話 蒼に染まる大地
地面が、震えた。
遺跡の出口に向かって走っている最中だった。足元から細かい振動が伝わってきて、壁の回路が一斉に明滅した。金色の光が不規則に点滅して、通路全体がちかちかと瞬いた。
「何だ今の」
カイさんが足を止めた。
「魔素パルスだ。遺跡の回路が——活性化している」
ルークさんが壁に手を当てた。回路の光が指の下で脈打っている。
「ヴェルナーの工作員が回路に何かを繋いだだろう。あの干渉が、連鎖反応を起こしている。回路が暴走しかけている」
「暴走?」
「遺跡の回路は、本来は安定した循環を維持している。だが、外部から無理やり信号を入力されたことで、循環のバランスが崩れた。——今、この遺跡は魔素を周囲に放出し始めている」
僕は透視で壁の向こうを見た。遺跡の回路から、大量の魔素が——地表に向かって流れ出している。まるで、栓が抜けた水瓶のように。
「地上に出よう。今すぐ」
イレーネ様が静かに、しかし有無を言わさぬ声で言った。
「この遺跡が放出する魔素は、灰原全体に影響を及ぼします。——五十年間、死んでいた大地に魔素が戻るのです。何が起こるか、分かりますね」
僕には分かった。樹海のことを思い出した。高い魔素濃度の土地では、植物が異常な速度で成長する。灰原は五十年間、魔素がゼロだった。そこに大量の魔素が流れ込んだら——
「走れ!」
カイさんが叫んだ。
遺跡の通路を全力で駆け抜けた。
壁の回路が次々と点灯していく。これまで暗かった通路が、金色の光で溢れた。回路が活性化するにつれて、空気中の魔素濃度が急速に上がっていく。僕の目には、大気中に光の粒が爆発的に増えていくのが見えた。
セラスさんが先頭を走っていた。聖騎士の封印を解いたときに通った道を、正確に辿っている。分岐点を迷いなく選び、階段を駆け上がり、崩れかけた通路を跳び越える。
「こちらです! あと三つ角を曲がれば出口に——」
天井から石の破片が落ちてきた。通路が揺れている。遺跡の構造自体が、魔素の膨張で圧力を受けているのだ。
ルークさんが崩れかけた天井を素早く確認し、安全な経路を指示した。ミラさんの手を引いて、落石を避ける。カイさんが後方を警戒しながら走った。
イレーネ様は——走っているのに、息が乱れていなかった。白銀の髪が揺れるだけで、表情も変わらない。五十代とは思えない足運びだった。
出口が見えた。
灰色の空が、通路の先に広がっている——はずだった。
だが、僕の目に映ったのは灰色ではなかった。
蒼かった。
遺跡の出口から地上に飛び出した瞬間、全員が足を止めた。
灰色の大地が——蒼く染まっていた。
苔だった。蒼い苔が、地面を覆い尽くしている。灰色の砂利の上に、薄い蒼い絨毯が広がっていた。さっきまで何もなかった場所に、苔が生えている。しかも——目に見える速度で、広がっていた。
「嘘でしょ……」
ミラさんが呟いた。
苔だけではなかった。蒼い蔓が地面を這っていた。細い蔓が幾筋も伸びて、瓦礫を掴み、壁を登り、崩れた建物の残骸を飲み込んでいく。蔓の先端が目の前で数寸ずつ伸びていくのが見えた。まるで、蛇が這うように。
そして——蒼い芽が、石の隙間から突き出していた。芽は膨らみ、開き、葉を広げた。蒼い葉。樹海の植物と同じ、あの蒼い色。
五十年間、死んでいた大地が——
「目を見張る光景ですね」
イレーネ様が言った。穏やかな声だった。だが、その穏やかさの奥に、何かが軋むような響きがあった。
「魔素が戻った大地に、植物が暴走的に繁殖しています。種子は風に乗って灰原の縁から運ばれていたのでしょう。魔素がなかったから発芽しなかっただけ。今、魔素が供給されたことで——一斉に目を覚ましたのです」
「隠れ里は」
ナギさんの声がした。
振り返ると——ナギさんが遺跡の外にいた。隠れ里から様子を見に来たのだろう。外套を羽織り、左手の四本指が拳を握りしめていた。皮肉屋の仮面が剥がれている。剥き出しの焦りがあった。
「隠れ里はこの真下だ。地下に魔素が流れ込んだら——植物が地下にも侵入する。通路が蔓で塞がる。水路が詰まる。住人は——」
「行きましょう」
セラスさんが即座に言った。
「人が、危険に晒されているのなら」
走った。
隠れ里への入口は、遺跡から東に半刻ほどの場所にあった。崩れた建物の地下に偽装された通路。その入口に着いたとき——蒼い蔓が、もう地下への階段を這い下りていた。
地下に降りると、異様な光景が広がっていた。
天井の隙間から蒼い蔓が垂れ下がっている。壁の亀裂から苔が滲み出している。五十年間、植物が一本も生えなかった地下空間に、蒼い植物が侵入していた。
隠れ里の住人たちが、混乱していた。
子供の泣き声。女性の悲鳴。老人が杖を突きながら足を引きずっている。蔓が壁を押し広げて、石が崩れた場所があった。通路の一つが蔓で半分塞がっている。
「落ち着け!」
ナギさんが声を張り上げた。皮肉屋の仮面を被り直すように——ではなく、その下にある素顔で。
「パニックになるな。出口はまだ生きている。全員、荷物をまとめろ。持てる分だけでいい。食料と水を優先しろ。——地上に出る」
「地上に?」
年配の女性が聞き返した。
「地上は死の大地だ。出たら——」
「死の大地じゃなくなった」
ナギさんが言い切った。
「見に行った。魔素が戻っている。植物が生えている。——だが、それはつまりこの地下が安全じゃなくなったということだ。蔓が水路を詰まらせる前に出るぞ」
住人たちの間に動揺が走った。五十年間暮らした地下だ。ここしか知らない子供たちもいる。地上に出ることへの恐怖は、僕たちの想像以上だった。
「セラスさん」
僕はセラスさんを見た。
セラスさんは既に動いていた。蔓が最も激しく侵入している通路の前に立ち——手を掲げた。
「——護れ」
短詠唱。一言だけ。
白い光の壁が、通路を横切って展開した。結界だ。蔓が結界に触れて——止まった。伸びようとする先端が、白い光の壁に押し返されている。
「結界で植物の侵入を止められます。ただし、範囲には限界があります。全ての通路は守れない。——避難する通路だけを確保します」
セラスさんの声は硬く、冷静だった。聖騎士の声だ。だが——その目は、住人たちの方を向いていた。怯えている子供。足の悪い老人。荷物を抱えて立ちすくむ大人たち。
「私が守ります。安心して、避難してください」
聖騎士の本分。
禁忌の監視でも、排除でもない。人を守ること。セラスさんが白い結界の前に立つ姿は——聖騎士の装束に相応しかった。
住人たちの目が変わった。神聖国家の聖騎士を、この隠れ里の人々は恐れていたはずだ。国を滅ぼした側の人間だから。だが今、目の前で自分たちを守っている聖騎士を見て——恐怖が薄れていくのが分かった。
避難が始まった。
ナギさんが指揮を執った。
「西の通路から出る。セラスに結界を頼む。カイ、先頭で瓦礫をどかせ。ルーク、通路の構造を見て崩落の危険がある場所を教えろ。ミラ——」
「分かってるよ」
ミラさんが薬箱を開いた。
「体調の悪い人、こっちに来て。魔素の急激な変化で気分が悪くなってるはず」
ミラさんの読みは正しかった。五十年間、魔素のない環境で暮らしていた人々にとって、急激な魔素濃度の上昇は体に堪えた。頭痛を訴える者。吐き気に蹲る者。目眩でまっすぐ歩けない者。特に子供と老人に症状が強く出ていた。
ミラさんが一人ずつ診ていった。
「大丈夫、大丈夫。これは魔素酔いだよ。毒じゃないの。少し休めば慣れるから」
声は明るかった。いつものミラさんの声。だが、手つきは正確で、迷いがなかった。解毒の薬湯は魔素酔いには効かない。代わりに、胃を落ち着ける薬草を煎じて飲ませた。吐き気が酷い者には、布を濡らして額に当てた。
「ユーリくん、この子を抱えて歩けるかな」
五歳くらいの男の子が、目を回して動けなくなっていた。僕は男の子を背負った。小さい体が震えていた。
「大丈夫だよ。すぐ外に出るから」
男の子は返事をしなかった。ただ、僕の背中にしがみついた。その手の力が、怖い、と言っていた。
カイさんが先頭で通路を切り開いていった。蔓が這い始めた通路は、時間が経つほど通りにくくなる。太い蔓を剣で断ち切り、崩れた石を蹴り退ける。
「急げ! 蔓の成長が速くなってるぞ!」
ルークさんが天井の構造を見ながら叫んだ。
「次の角を右だ! 左の通路は天井に亀裂が入っている。蔓の圧力で崩れる可能性がある!」
セラスさんが結界を移動させながら、避難の列の後方を守っていた。蔓が追いかけてくる。結界が蔓を押し返す。だが、蔓の勢いは——増していた。魔素の供給が続いているのだ。遺跡が魔素を放出し続けている限り、植物の暴走は止まらない。
セラスさんの額に汗が浮いていた。結界の維持は——消耗する。魔法の素養が高いセラスさんでも、これだけの範囲を長時間守り続けるのは限界がある。
「セラスさん。あとどのくらい持ちますか」
「……十分。いえ——八分ほどかと」
「出口まであと三つ角を曲がるぞ」
ナギさんが前方から声を飛ばした。
「五分で出る。持たせてくれ」
「了解しました」
セラスさんの結界の光が——少し薄くなった。範囲を絞ったのだ。広く守る代わりに、避難の列の幅だけを守る。効率を上げて、持続時間を稼ぐ。
出口の光が見えた。
地上への階段を駆け上がると——蒼い世界が広がっていた。
さっきよりも、さらに蒼が深くなっていた。苔が厚みを増し、蔓が太くなり、蒼い草が膝の高さまで伸びている。建物の残骸が蒼い蔓に覆われ、石の角が見えなくなっていた。
空気が湿っていた。灰原の乾いた空気が——湿り気を帯びている。植物が大気中に水分を放出しているのだ。
住人たちが地上に出た。
五十年間、地下で暮らしてきた人々が、蒼い空の下に立った。
何人かが泣いていた。何人かは呆然と立ち尽くしていた。小さな子供が母親の手を引いて、蒼い苔を指差した。
背中の男の子が、頭を上げた。
「……そら、あおい」
初めて空を見たのかもしれなかった。地下で生まれて、地下で育った子供。空の色を、今初めて見ている。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
「灰原の中心部に近づくな」
イレーネ様が言った。
「遺跡からの魔素放出は中心部が最も激しい。中心部の植物は——既に制御不能でしょう。縁に向かって退避してください」
僕は中心部の方角を見た。蒼い霞がかかっていた。魔素の濃度が高すぎて、大気が蒼く見えるのだ。その霞の中に——巨大な何かが育っている気配があった。蒼い柱のようなものが、地面から突き出している。木だ。信じられない速度で成長した木が、もう人の背丈を超えていた。
「食料と水を分配する」
ナギさんが指示した。
「隠れ里から持ち出せた分を確認しろ。全部集めて、人数で割る。——カイ、手伝ってくれ」
「ああ」
カイさんが住人たちの荷物を確認し始めた。食料は十分とは言えなかった。急いで逃げたのだ。水袋は半数の家庭しか持ち出せていない。干し肉と乾燥キノコが主な食料。穀物の粉を持ち出せた家が三軒ほど。
「一日分はあるな。二日は厳しい」
カイさんが報告した。
「灰原の縁まで、半日で歩ける」
ナギさんが地図を広げた。
「東に向かえば、灰原の外の丘陵地帯に出る。そこまで行けば水が確保できるはずだ」
「ミラさん、魔素酔いの人たちは歩けますか」
僕が聞いた。
「応急処置はしたけど……子供二人とお年寄り三人は、長時間歩くのは厳しいかな。誰かが支える必要があるよ」
「俺が一人背負える」
カイさんが言った。
「ユーリ、お前もその子供を背負ったままでいけるか」
「うん。大丈夫」
背中の男の子は軽かった。地下の食事では、十分に育てなかったのだろう。その軽さが、少し胸に痛かった。
百人ほどの隠れ里の住人が、列を作って東に向かった。
蒼い大地を踏んで歩いた。灰色だった地面が、蒼い苔に覆われている。踏むと、湿った感触がした。苔の下にはまだ灰色の砂利がある。だが、蔓が砂利を抱え込んで、少しずつ土を作ろうとしているように見えた。
中心部から離れるにつれて、植物の勢いは弱まった。苔の厚みが薄くなり、蔓の太さが細くなる。灰原の縁に近づくほど、魔素の供給量が減るのだろう。
だが振り返ると——中心部の蒼い霞は、さらに濃くなっていた。蒼い柱——木が、何本も空に伸びている。あの遺跡の直上だ。魔素が最も多く放出される場所。
半日ほど歩いたとき、灰原の縁が見えてきた。
灰色と緑の境界線。灰原の外には、もともと植生がある。丘陵地帯の緑が見えた。その境界線が——曖昧になっていた。灰原の蒼い苔と、丘陵の緑の草が、境界線で混ざり合い始めている。
「安全圏まであと少し」
ナギさんが声をかけた。住人たちの足取りは重かったが、止まる者はいなかった。
丘陵地帯に入ると、水の音が聞こえた。
小さな川だった。灰原の外を流れている。清らかな水だ。ミラさんが水質を確認し、安全だと判断した。住人たちが川に走り寄った。水を飲み、顔を洗い、水袋を満たした。
子供たちが川の水に手を入れて、はしゃいだ。地下には川がなかった。水路しか知らない子供たちにとって、流れる川は珍しいものだったのだろう。
背中の男の子が、初めて声を上げた。
「つめたい」
川の水に手を入れて、小さく笑った。
日が傾き始めていた。
丘の上に簡易的な野営地を設けた。ミラさんが体調の悪い住人を引き続き診ている。カイさんとルークさんが焚き火の準備をした。セラスさんが野営地の周囲に薄い結界を張った。魔獣除けだ。灰原の外には魔獣がいる。
ナギさんが住人たちの間を回って、声をかけていた。大丈夫か。怪我はないか。食料は足りているか。皮肉屋の仮面を外した、素のナギさんだった。
焚き火の前に座ったとき、ようやく息をつけた気がした。
灰原を振り返った。
夕日の中で、蒼い大地が光っていた。中心部の木々は——もう、遠くからでもはっきり見えるほどに育っていた。蒼い葉が夕陽を受けて、紫がかった光を放っている。
「あれが……魔素が戻るってことなのか」
カイさんが呟いた。焚き火の光に照らされた横顔は、見たことのない表情をしていた。驚きでも恐怖でもない。もっと——畏敬に近い何かだった。
「死んだ土地が、生き返るのか」
「生き返る、のかな」
僕は蒼い大地を見つめた。
「それとも——また別の何かに、なるのかな」
五十年前、あの土地には国があった。人が暮らしていた。神罰がそれを滅ぼした。魔素を奪い、全てを灰にした。
今、魔素が戻った。植物が暴走的に生え始めた。だがそれは、かつてあった国の復活ではない。蒼い植物が覆い尽くした大地は——樹海になるのだろう。人が暮らした土地が、樹海に飲み込まれていく。
それは再生なのか。それとも——
「どちらでもあり、どちらでもないのでしょう」
イレーネ様の声がした。焚き火の向こう側に座っていた。白銀の髪が夕暮れの光を映している。
「大地は人の都合で死んだり生き返ったりするものではありません。魔素が戻れば、魔素が作る世界が広がる。それだけのこと。——人がどう意味づけるかは、人の問題です」
その言葉は穏やかだったが、重かった。
「ただ——」
イレーネ様が灰原を見つめた。
「この暴走は、あの方たちの干渉が原因です。遺跡に手を加えなければ、灰原は灰原のままだった。五十年間の均衡が、壊された」
あの方たち。ヴェルナーの工作員のことだろう。
「放っておけば収まるのですか」
セラスさんが聞いた。
「収まりません。放出された魔素は植物に吸収され、新たな循環が始まっています。灰原は——数年のうちに樹海化するでしょう。元に戻ることはありません」
不可逆の変化。壊された均衡は、戻らない。
僕たちは黙って、蒼く染まっていく灰原を見つめた。
夜が来た。
焚き火の周りで、住人たちが寄り添って眠っている。初めて空の下で眠る人々。星を見上げて、小さな声で語り合っている人がいた。
僕の背中にいた男の子は、母親の腕の中で眠っていた。母親が僕に頭を下げた。
「ありがとうございました。この子を——」
「いいえ。軽かったですから」
嘘ではなかった。軽すぎた。
焚き火に薪を足しながら、僕はミラさんの方を見た。ミラさんはまだ働いていた。体調が悪い住人の容態を確認して、薬湯を温め直して、子供の額に手を当てて熱を測っている。
「ミラさん。そろそろ休んだほうがいいよ」
「もうちょっとだけ。この子の熱が下がったら」
ミラさんの手が淡い緑の光を帯びた。灰原の外に出たから、魔素が使える。治癒魔法の柔らかい光が、子供の額に浸透していく。
「……うん。下がった。大丈夫」
ミラさんが立ち上がった。少しよろめいた。僕が腕を支えた。
「ありがとう、ユーリくん」
「ミラさんが倒れたら、明日から誰が診るの」
「あはは。カイさんみたいなこと言うね」
ミラさんが笑った。疲れた笑顔だった。でも、温かかった。
交代で見張りについた。
蒼い灰原が、月明かりの中で静かに光っていた。




