第38話 崩壊の連鎖
第十一話 崩壊の連鎖
遺跡が揺れた。
イレーネが立ち上がった直後だった。足元が小刻みに震えて、壁の回路が一斉に明滅した。金色の光が不規則に点滅して、大空間全体がちかちかと不安定に揺れる。
「なんだ——」
カイさんが立ち上がって、剣の柄に手をかけた。
「地震か」
「違う」
ルークさんが壁に手を当てた。
「回路が不安定化している。外部からの干渉だ。——誰かが回路に接触しようとしている」
「外部から?」
「この遺跡の回路に、外側から何かを繋ごうとしている。回路が拒絶反応を起こしている。——だから揺れている」
壁の回路が激しく明滅した。金色の光が白く変わり、また金色に戻る。床の回路にも波紋が走った。足元がびりびりと震える。
「イレーネさま——」
セラスさんがイレーネを見た。イレーネの表情が変わっていた。穏やかな微笑みが消えて、厳しい目になっている。
「心当たりがありますか」
「ありますよ」
イレーネの声は冷静だったが、硬かった。
「遺跡の回路に外部から接続を試みている者がいる。——それも、かなり乱暴なやり方で」
イレーネが片手を上げた。指先が微かに光って——何かを感じ取っているようだった。目を閉じて、数秒。
「遺跡の北東側。地表から掘削して、回路の末端に装置を接続しようとしている。工業的な手法です。信仰に基づく知識ではない」
「ヴェルナーだ」
ルークさんが呟いた。
全員がルークさんを見た。ルークさんの顔は蒼白だったが、目は冷静だった。
「反宗教国家の遺物回収部門。ヴェルナーの工作員だ。灯台計画——遺跡のネットワークを利用した国家防衛システムの構築。そのために遺跡の回路に接続装置を繋ぐ。——俺はその計画の一端を知っていた」
「お前が教えたのか」
カイさんの声に怒りが滲んだ。
「俺が教えたのは遺跡の構造情報だ。この遺跡の位置までは——だが、灰原に工作員を送り込むことは、俺の想定を超えている。ヴェルナーは俺が離反した後も、独自に情報を集めていたはずだ」
遺跡が再び大きく揺れた。天井から石の破片が落ちてきた。セラスさんが咄嗟に光の防壁を張って、破片を弾いた。
「まずい。このまま回路への干渉が続けば——遺跡の防衛機構が起動する」
ルークさんが叫んだ。
「防衛機構?」
「守護者だ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに——壁の回路が、一斉に赤く変わった。
金色だった光が、真紅に変わる。警告色だ。遺跡の回路が、侵入者に対する防御態勢に入った。
大空間の壁の一画が、内側から膨らんだ。石が軋む音がして——壁が裂けた。
中から、光を纏った巨体が現れた。
守護者だった。
だが——核獣とは違う。核獣は遺跡の魔素から自然発生した存在だ。守護者は違う。旧文明の自動防衛システムが形を持ったものだ。
人の形をしていなかった。四足歩行の獣のような姿。体高はカイさんの三倍。背中に無数の棘のような突起があり、その一つ一つが回路で光っている。頭部は平たく、前面に赤い光の帯が水平に走っている——目だろうか。
「二体いる」
僕の粒視が、もう一体を捉えた。大空間の反対側の壁からも、同じ形の巨体が現れつつある。壁を押し破るように、ゆっくりと——だが確実に。
「守護者×二体。——核獣より大型だぞ」
ルークさんの声が緊張で震えていた。
「デルガの遺跡で遭遇した下位守護者とは桁違いだ。この規模の遺跡を守るための——上位守護者」
「核獣より強いのか」
「比較にならない。守護者は遺跡の回路と直結している。遺跡そのものがバックアップシステムだ。ダメージを受けても遺跡の回路から即座に修復される。核獣の再生能力を遥かに超える」
「どうやって倒す」
「遺跡の回路から切り離すしかない。——あるいは、核回路を完全に破壊するか」
カイさんが剣を抜いた。予備の短剣だ。蒼牙の剣は核獣戦で刃が欠けている。
「やるしかねえ」
「待って」
ミラさんが叫んだ。
「ユーリくんは戦えないよ。頭がまだ——」
「分かってる。ユーリは後方だ。——だが、透視なしで守護者の弱点を見つけられるか」
ルークさんが僕を見た。
「……粒視なら使える。透視ほど精密には見えないけど——回路の光が強い場所と弱い場所くらいは」
「十分だ。光が集中している場所が核回路のはずだ」
「お待ちなさい」
イレーネの声が響いた。
全員がイレーネを見た。
イレーネは法衣の袖を捲り上げていた。細い腕が露わになる。その腕の周囲に、魔素が渦を巻き始めていた。先ほどまでの穏やかな魔素の圧とは違う。戦闘のための魔素の集中。
「守護者二体は、あなたたちだけでは厳しいでしょう。——手伝います」
「手伝うだと?」
カイさんが驚いた顔をした。
「さっきまで俺たちを止めようとしてた人間が?」
「安全装置を刺激しているのは、あなたたちではありません。外部から回路に干渉している者です。——放置すれば、安全装置が本格的に反応します。守護者の起動は、まだ第一段階にすぎない」
イレーネの目が鋭くなった。
「第二段階は——灰原の再来です。それだけは、防がなければならない」
守護者の一体目が、完全に壁から抜け出た。四本の足で床を踏みしめ、赤い光の帯がゆっくりとこちらを向いた。
「来るぞ!」
カイさんが叫んだ。
守護者が跳んだ。
四足の獣が、地を蹴って跳躍した。カイさんの三倍の体高を持つ巨体が、信じられない速度で飛びかかってくる。
「散れ!」
カイさんが右に跳んだ。セラスさんが左に。僕とミラさんは後方に下がった。ルークさんが台座の影に飛び込んだ。
守護者の前足が床を叩いた。衝撃で床の石板が砕け、破片が四方に飛んだ。
「セラス! 左の一体を抑えてくれ! 右は俺が引きつける!」
カイさんが短剣を構えて、右側の守護者に向かった。
「了解!」
セラスさんが左の守護者に向き直った。手のひらに光が集まる。
「——裂けよ」
光の刃が放たれた。左の守護者の前面に当たる。守護者は——止まらなかった。光の刃を体表の回路が吸収して、ダメージを無効化した。
「魔法を吸収する——!」
セラスさんが歯を食いしばった。
「回路が防壁になっている。核獣と同じだ——だが、もっと厚い」
「私が行きましょう」
イレーネの声が、戦場に響いた。
イレーネが一歩前に出た。法衣が風もないのに揺れた。周囲の魔素が——イレーネに向かって集まっている。大空間に漂う全ての魔素が、イレーネの体を中心に渦を巻き始めた。
「セラス。その一体は私が引き受けます。あなたは——あちらを」
「大神官さま——」
「任せなさい」
イレーネが左の守護者に向き直った。
無詠唱だった。
言葉は一つもなかった。イレーネの指先が守護者を指し示して——光が爆ぜた。
純白の光の奔流が、イレーネの手から放たれた。セラスさんの光の刃とは次元が違った。光の刃が小川なら、これは大洪水だ。光が守護者を包み込み——回路の防壁を突き破った。吸収が追いつかない量の魔素が、一気に叩き込まれた。
守護者の体が後方に吹き飛んだ。壁に叩きつけられて、石壁が砕けた。
「……嘘だろ」
カイさんが呆然と呟いた。右の守護者と対峙しながら、横目でイレーネの攻撃を見ていた。
「一撃で——」
「まだです」
イレーネが言った。冷静な声だった。
壁に叩きつけられた守護者が、立ち上がった。体表の回路が激しく明滅して——損傷した部分が修復されていく。遺跡の回路から、修復用の魔素が流れ込んでいるのだ。
「遺跡と直結している限り、修復し続ける。——核回路を破壊しなければ」
イレーネの目が守護者を射抜いた。
「核はどこですか。——ユーリ」
僕は粒視を全力で集中させた。透視は使わない。粒視だけで——守護者の体表の光の分布を読む。
光が集中している場所。回路が最も密な場所。体の中央——いや、違う。守護者は獣型だ。核獣のように胸の中央ではない。
「背中の棘! 背中の棘の根元——光が一番強い! そこに核がある!」
僕が叫んだ。
「背中か。——面倒な位置だな」
イレーネが呟いた。
「下から攻撃しても届かない。上から叩くか、横から貫くか」
イレーネの周囲の魔素がさらに集中した。腕の周囲に、光の球体が形成されていく。先ほどの奔流とは違う。凝縮された、高密度の光の弾。
「伏せなさい」
イレーネの声が大空間に響いた。
僕たちは反射的に床に伏せた。
イレーネが光の弾を放った。弾は守護者の上方を通過して——天井に当たった。天井が砕けて、石の破片が守護者の上に落ちた。守護者の背中の棘が——破片に押されて下がった。
その隙に、イレーネが二発目を放った。
今度は横から。水平に飛んだ光の弾が、守護者の側面に突き刺さった。体表の回路を貫通して——背中の棘の根元に到達した。
守護者が——叫んだ。
声ではない。回路の共振が、空気を震わせた。大空間全体がびりびりと振動した。
守護者の動きが止まった。四本の足が力を失って、巨体がゆっくりと崩れ落ちた。背中の棘の光が消えていく。回路が一本ずつ消灯して——灰色の残骸が、床に横たわった。
一体撃破。
だが、もう一体がまだいた。
「カイさん!」
右の守護者が、カイさんに迫っていた。カイさんは短剣で守護者の前足を捌きながら、後退を続けている。核獣のときのような華麗な剣技ではない。予備の短剣では、守護者の体表に傷一つつけられていなかった。
「硬すぎる——! 核獣より分厚い!」
「カイ、引け! 私が——」
セラスさんが光の刃を連続で放った。守護者の横腹に当たるが、吸収される。
「吸収速度が速い——一撃では通らない!」
「ルークさん!」
僕は台座の影にいるルークさんに叫んだ。
「守護者は遺跡の回路と直結してる。回路から切り離す方法は!」
「考えている——」
ルークさんが台座の回路を見ていた。手帳と壁の回路を交互に見比べて——
「ある! 遺跡の回路には制御階層がある。守護者への供給回路を遮断できれば——修復能力を無効化できる。台座から制御信号を送れば——」
「どうやって」
「台座の防護回路を一部開放して、制御階層にアクセスする。——俺ではアクセスできない。魔素の感応が必要だ。ユーリ、お前の共鳴視なら——」
「駄目!」
ミラさんが叫んだ。
「共鳴視を使ったら——さっきみたいに——」
「ミラさん」
僕はミラさんの目を見た。
「全力は使わない。供給回路を遮断するだけ。情報を読み取るんじゃない——回路に信号を送るだけだ。負荷は、さっきよりずっと小さい」
「でも——」
「お願い。——カイさんが危ない」
ミラさんが唇を噛んだ。数秒の沈黙。
「……分かった。でも、鼻血が出たら即座にやめて。約束して」
「約束する」
僕は台座に走った。
台座の右側面。防護回路の隙間。ルークさんが接合部を調整していた。
「ここだ。ここに触れて、守護者への供給回路を遮断するイメージを送れ。共鳴視で——回路に意思を伝えろ」
「意思を伝える?」
「お前の共鳴視は、回路から情報を受信した。逆もできるはずだ。回路に情報を送る——命令を送る。供給を止めろ、と」
僕は深く息を吸った。
台座に触れた。
回路の情報が流れ込んできた——が、今度は耐えた。情報の洪水に飲み込まれずに、自分の意識を保つ。読み取るのではない。送るのだ。
守護者への供給を止めろ。
供給回路を遮断しろ。
回路の中を、意思が流れていく感覚があった。僕の意思が——回路に乗って、遺跡全体に広がっていく。
頭が痛い。でも、さっきほどではない。情報を読み取るのと、命令を送るのでは、負荷が違うのだ。
遺跡の回路が——応答した。
壁の回路の一部が、色を変えた。金色から青に。守護者に繋がっている供給回路が——遮断された。
「通った!」
ルークさんが叫んだ。
「供給回路が切断された! 守護者の修復能力が——」
右の守護者の動きが鈍くなった。体表の回路の光が弱まっている。遺跡からの魔素供給が途絶えたのだ。
「今だ! カイ! セラス!」
ルークさんの声に、カイさんとセラスさんが同時に動いた。
カイさんが正面から守護者の注意を引いた。短剣で前足を叩いて、守護者の頭部を下げさせる。
「セラスさん! 背中の棘の根元! 核はそこにある!」
僕が叫んだ。
「——穿て」
セラスさんの短詠唱。核獣戦と同じ——凝縮された光の槍。
だが、今度は一人ではなかった。
「砕けなさい」
イレーネの声が重なった。
二つの光が、同時に守護者の背中に突き刺さった。セラスさんの槍が棘の隙間を抉り、イレーネの光弾がその傷口をこじ開けた。師弟の魔法が——同じ場所に、二重に。
守護者の回路が——砕けた。
赤い光の帯が消えた。四本の足が力を失い、巨体が横倒しに崩れ落ちた。大空間の床が衝撃で揺れた。
二体目、撃破。
僕は台座から手を離した。頭が痛い。鼻血は——出ていない。ぎりぎりだったが、約束は守れた。
「ユーリくん!」
ミラさんが駆け寄ってきた。顔を覗き込まれた。
「鼻血は——出てない。よかった。でも顔が真っ白だよ。座って」
座った。床が冷たくて、それが心地よかった。
「工作員の痕跡がある」
ルークさんが守護者の残骸ではなく、壁の回路を調べていた。
「遺跡の北東側の回路に、外部装置を接続しようとした形跡だ。接続自体は失敗している——遺跡の防護回路が拒絶した。だが、干渉の試み自体が守護者の起動トリガーになった」
「つまり——外の奴らは、遺跡を乗っ取ろうとして、逆に遺跡の防衛機構を起動させたってことか」
カイさんが額の汗を拭いた。短剣を鞘に戻す。
「そうだ。——しかも、接続の試みは一回ではない。複数回の形跡がある。組織的だ。個人の仕業ではない」
「反宗教国家の軍——ヴェルナーですね」
イレーネの声が冷たかった。戦闘中の集中が抜けて、大神官としての冷徹さが戻っていた。
「あの男は、安全装置の存在を知らない。知らないまま、触れようとしている」
「ヴェルナーが安全装置の存在を知らずに遺跡のネットワークに接続しようとすれば——」
ルークさんの顔が青ざめた。
「最悪の場合、安全装置のトリガー条件に抵触する。灯台計画の目的は遺跡ネットワークの軍事利用だ。それはまさに——禁忌の中の禁忌だ」
「ええ」
イレーネが頷いた。
「だから——急がなければならないのです」
遺跡の振動がまた始まった。
壁の回路が再び明滅する。さっきより激しい。天井から石の破片が落ち始めた。
「まだ干渉が続いている。工作員が撤退していない——むしろ、接続の強度を上げている」
ルークさんが叫んだ。
「遺跡の構造が不安定化する。——このままでは崩落の危険がある」
「急いで出ましょう」
イレーネが動いた。
「出口の結界は解除します。——全員、私についてきなさい」
イレーネが通路に向かって歩き出した。法衣の裾が揺れる。振動の中でも、イレーネの足取りは揺らがなかった。
僕たちは荷物を掴んで、イレーネの後を追った。
通路を走った。壁の回路が明滅する中を、セラスさんの光球と壁の不安定な光を頼りに。ルークさんが核魔石と金属板の入った袋を抱えて走っている。ミラさんが薬箱を肩にかけて。カイさんが殿を守った。
途中、天井の一部が崩れた。石の塊が落ちてくる。
「——散れ」
イレーネの無詠唱。光の防壁が天井の崩落を受け止めた。石の破片が防壁の上で跳ねて、左右に落ちた。僕たちはその下をくぐり抜けた。
「ありがとうございます——」
「走りなさい。礼は後で」
イレーネの声が鋭かった。
遺跡の入口——石の階段に辿り着いた。
階段を駆け上がった。足元が揺れている。階段の壁にひびが入っている。魔素が——遺跡の中から噴き出すように流れていた。封印が壊れかけているのだ。
地上に出た。
灰原の灰色の空が広がっていた。夕暮れの光が、灰色の大地を淡く照らしている。
振り返ると、遺跡の入口から光が漏れていた。壁の回路の光が地上まで届いている。不安定に明滅する光が、灰色の大地に色をつけていた。
「遺跡が不安定化を続けている」
ルークさんが入口を見つめた。
「工作員の干渉が止まらない限り、回路の暴走は収まらない。最悪の場合——」
「安全装置が反応する」
イレーネが言い切った。
「この規模の干渉が続けば——灰原の二度目のリセットが起きかねない。今度は——隠れ里の人々も巻き込まれる」
僕の心臓が跳ねた。ナギさんの隠れ里。あの地下で暮らす人々。
「すぐに隠れ里に戻って、避難の準備を」
イレーネが僕たちを促した。
「私は——工作員の干渉を止めに行きます。遺跡の北東側に」
「一人でか」
カイさんが聞いた。
「一人で十分です」
イレーネの声には、揺るぎない自信があった。——守護者を一撃で粉砕した大神官の自信。
「あなたたちは隠れ里の避難を優先してください。ナギという情報屋がいるでしょう。あの男なら、避難の指揮が取れるはずです」
「イレーネさま」
セラスさんが声を上げた。
「私も——」
「セラス。あなたは、あの子たちと一緒に」
イレーネがセラスさんを見た。目が——柔らかかった。
「あなたの居場所は、もうこちら側でしょう」
セラスさんが——言葉を失った。
「……はい」
小さな声だった。でも、明確な返答だった。
イレーネが灰原の北東に向かって歩き出した。
白と金の法衣が、灰色の大地の上で揺れていた。その周囲に——魔素の光が渦巻いている。灰原には魔素がないはずだった。だが、イレーネの体内から放出される魔素が、自身の周囲にだけ光の衣を作っていた。魔素のない死地を、自分の魔素だけで歩く。それができるほどの——圧倒的な魔素量。
「あの人は——本当にとんでもない人だな」
カイさんが呟いた。
「敵じゃなくてよかったぜ。——いや、まだ味方かどうか分からんが」
「少なくとも、今は同じ方向を向いている」
ルークさんが言った。
「急ごう。隠れ里に戻る」
僕たちは走った。灰原の灰色の大地を、夕暮れの光の中を。
足元が時折揺れた。遺跡の不安定化が、地表にまで影響を及ぼしている。
走りながら、僕は考えていた。
ヴェルナーの工作員が灰原にまで来ている。灯台計画は、デルガや反宗教国家の領内だけの話ではなかった。灰原の——神罰で滅びた国の遺跡にまで、手を伸ばしている。
安全装置の存在を知らないまま。
知らないまま、安全装置のトリガーに触れようとしている。
イレーネの言葉が蘇った。「あの男は、安全装置の存在を知らない。知らないまま、触れようとしている」
それは——最も危険なことだ。
知らないからこそ、恐れない。恐れないからこそ、踏み込む。踏み込んだ先に——取り返しのつかないものがある。
隠れ里に着いたのは、日が完全に沈んだ後だった。
ナギさんが入口で待っていた。
「揺れを感じた。——何があった」
「長い話だ」
カイさんが息を切らしながら答えた。
「だが、短く言う。遺跡が不安定化してる。外部から干渉してる奴がいる。最悪の場合——」
「安全装置が反応する、か」
ナギさんの目が暗くなった。
「……まあ、いつかこうなると思っていたよ。永遠に続く安全なんて、ないからな」
ナギさんが振り返った。隠れ里の人々が、不安そうな顔で集まっていた。地面の揺れを感じているのだ。
「避難準備だ。——全員に伝える。食料と水を持って、地下の深層通路に移動する」
ナギさんが動き始めた。皮肉屋の情報屋が、一瞬で——指揮官に変わっていた。
「お前たちも手伝え。——特にセラス。お前の防壁が、避難路の安全を守れる」
「はい」
セラスさんが頷いた。
僕たちは——隠れ里の避難を手伝い始めた。
石の通路を走りながら、僕は空を——地下だから空はないが——天井を見上げた。回路の光が不安定に明滅している。
世界が揺れている。
安全装置が目覚めかけている。
そして、その引き金を引こうとしているのは——真実を知らない者たちだ。
知らなければ恐れない。
でも——知っていても、変える方法が分からなければ、恐れるだけだ。
変える方法を、見つけなければ。
僕の手には、記録室から持ち出した金属板と金属の箱がある。旧文明の記録。この中に——変えるための手がかりがあるかもしれない。
灰原の地面が、また揺れた。




