第37話 安全装置の真実
第十話 安全装置の真実
イレーネが語り始めた。
大空間の中で、金色の回路が脈動していた。イレーネの声は穏やかで、よく通った。まるで子供たちに昔話を聞かせるかのように——だが、その内容は昔話ではなかった。
「この世界には、安全装置があります」
イレーネは静かに切り出した。
「私たちを守るための装置です。とても古い時代に作られ、今もなお動き続けている」
「守るため、ですか」
ルークさんが即座に問い返した。
「ユーリが見た記録には、文明のリセットとありました。人口の監視。発展の抑制。——それが守るため、だと?」
「ええ」
イレーネは頷いた。微笑みは消えていなかったが、目の奥に——重いものがあった。
「安全装置は、大昔の人々が作ったものです。なぜ作ったか。——それは、大昔の人々が犯した過ちを、二度と繰り返さないためです」
「過ちとは」
「文明が行き着くところまで行き着いた結果、全てを壊してしまったのです。大昔の人々は——私たちには想像もできないほどの力を持っていました。その力で、世界を豊かにもしたし——滅ぼしもした」
イレーネの声が、わずかに低くなった。
「滅びた後に残されたものが——この世界です。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないように、安全装置が仕掛けられた」
「誰が仕掛けたんですか」
僕が聞いた。
「大昔の——もう名前も伝わっていない人物です。その人物は、人間の文明がある段階を超えると自らを滅ぼす、と考えました。だから——文明がその段階に達する前に、止める仕組みを作った」
イレーネの目が、台座を見た。金色の光が脈動する、ネットワークの中枢。
「この遺跡も、その仕組みの一部です。世界中に張り巡らされた回路の網。それが——安全装置の体です」
「安全装置は自動で動く、ということか」
カイさんが低い声で聞いた。
「人間が操作してるわけじゃないんだな」
「その通りです」
イレーネが頷いた。
「安全装置は自動で動きます。人間が管理しているのではありません。決められた条件に従って、自動的に監視し、自動的に判定し、自動的に——発動する」
「神罰が」
「はい。あなたたちが神罰と呼ぶもの。あれは——安全装置の発動です」
イレーネの声に感情がなかった。事実を述べているだけだった。
「安全装置が発動する条件は、禁忌——と私たちが呼んでいるものです。正確に言えば——ある一線を越えた知識や技術に到達すること。その一線を越えた地域に対して、安全装置は発動します」
「文明を——リセットする」
「ええ」
ルークさんが唇を噛んだ。
「つまり禁忌とは——安全装置のトリガー条件を避けるためのルールだと?」
「そうです」
イレーネが明確に頷いた。
「禁忌は、安全装置の発動を回避するためのルールです。あの技術に手を出すな。あの知識を追求するな。——それは、安全装置が反応する条件を、私たちの言葉で言い換えたものです」
沈黙が落ちた。
禁忌。僕たちが幼い頃から教えられてきたもの。神の怒りに触れる行為。それが——自動プログラムの発動条件を避けるためのルールだった。
「神罰は罰ではないのですよ」
イレーネの声が、少しだけ柔らかくなった。
「罰を与える者がいるのではありません。安全装置が、条件に従って自動で動くだけです。怒りも、意思も、そこにはない。ただ——設定された条件と、設定された結果があるだけ」
「灰原は」
僕の声が掠れた。
「灰原も——安全装置が」
「ええ。灰原は、その結果です」
イレーネの微笑みが消えた。
「五十年前、この地にあった国は——禁忌に触れました。安全装置が発動し、国は滅びた。土壌から全ての魔素が吸い上げられ、植物は枯れ、生態系は崩壊した。人々の多くは——死にました」
ナギさんの隠れ里。あの地下で暮らす人々。五十年前の災厄の生存者とその子孫。あの人たちの故郷を——安全装置が壊した。
「過去に何度も発動してきたのですか」
ルークさんが聞いた。
「何度も」
イレーネが答えた。
「歴史の中で、何度も。記録に残っているだけでも——七回。記録に残っていないものを含めれば、もっと多いでしょう。安全装置はこの世界が始まって以来ずっと動いています。人間の文明が発展するたびに——閾値を超えたら、リセットする。それを繰り返してきた」
「何百年も」
「何千年も、です」
数千年。気が遠くなるような時間、この世界は安全装置の上で回り続けてきた。文明が芽吹き、育ち、ある高さに達すると——刈り取られる。その繰り返し。
「なぜ止めないんですか」
僕は言った。声が震えていた。
「あなたは知っているのに。安全装置のことを知っているのに——なぜ、止めないんですか」
イレーネが僕を見た。薄い紫の瞳が、僕の目をまっすぐに見つめていた。
「止められないのです」
イレーネの声が、初めて——重く沈んだ。
「安全装置は私たちの管理下にありません。私は安全装置の存在を知っています。発動条件も、おおよそ理解しています。ですが——安全装置そのものを停止させる手段を、私は持っていない」
「なら探すべきだろう」
カイさんが言った。声に怒りが滲んでいた。
「知ってるなら、止める方法を探すべきだ。何千年も放っておいたのか」
「探す行為自体が、安全装置のトリガーに触れる可能性があるのです」
イレーネの声は冷静だった。カイさんの怒りを受け止めて、揺れなかった。
「安全装置の正体を解明しようとする行為。安全装置を無力化しようとする行為。——それ自体が、禁忌に該当する可能性がある。つまり、安全装置を止めようとした瞬間に、安全装置が発動するかもしれない」
「……罠か」
「罠、ではありません。安全装置を作った人物にとっては、論理的な設計です。安全装置を無力化されないように、安全装置自体を守る仕組みが組み込まれている」
完璧なシステムだ。自分自身を守る安全装置。触れようとする者を拒むシステム。
「そして——安全装置にはかつて、理由があった」
イレーネの声がさらに低くなった。
「安全装置を作った人物は、人間の文明が暴走した末に世界を滅ぼした光景を見たのです。その恐怖から——二度と同じことが起きないように。人間にはまだ、力を正しく使う知恵がない。そう判断した。——私には、その判断が間違っていたとは言い切れない」
イレーネの目が遠くなった。
「今もその理由が有効かどうか、私には分からないのです。人間は変わったのか。同じ過ちを繰り返さないと、言い切れるのか。——私には、その確信が持てない」
「つまり——」
ルークさんが整理するように言った。
「あなたは安全装置を止められないだけでなく、止めるべきかどうかも判断できない、と」
「ええ」
イレーネが頷いた。
「だから、私は——別の道を選びました。安全装置を止めるのではなく、安全装置が発動しないように、人間の側を管理する」
禁忌の管理。聖騎士団。処理。
セラスさんの体が、微かに震えた。
「それが——神聖国家の本当の目的ですか」
セラスさんの声が、絞り出すように細かった。
「信仰は——禁忌を守らせるための道具だったのですか」
「道具、とは思っていません」
イレーネの声が、初めて——痛みを含んだ。
「信仰は、人々の心の拠り所です。それは本物です。ただ——信仰の核にある禁忌は、安全装置を回避するための知恵でもある。両方なのです、セラス。嘘ではないし、全てでもない」
セラスさんが唇を噛んだ。目に涙が浮かんでいたが、流さなかった。
「大神官さま。——ずっと知っていたのですか。安全装置のことを。禁忌の本当の意味を」
「ええ。歴代の大神官は、知っています」
イレーネの声は静かだった。
「大神官の座に就いた者だけが、この真実を知る。そして——知った上で、世界を守る道を選ぶ。それが大神官の使命です」
「私には——教えてくださらなかった」
「あなたには重すぎると思ったの」
イレーネの声が、大神官のものから——師匠のものに変わった。
「あなたの信仰は純粋で美しい。その純粋さを壊したくなかった。——身勝手な判断だったと、今は思います」
セラスさんが目を伏せた。
僕は——セラスさんに何か言いたかった。でも、今は何を言っても足りない気がした。
「もう一つ、聞きたいことがある」
ルークさんが手帳を開いた。びっしりと書き込まれたページを見ながら——
「安全装置は自動で動く、と言いましたね。では——安全装置を動かしているのは何ですか。物理的に。この遺跡の回路が安全装置の一部だと言いましたが、回路は情報を伝えるだけです。回路を動かし、判断を下し、発動を実行する——その主体は何ですか」
イレーネが微笑んだ。だが——答えなかった。
「それは——今は、お話しできません」
「なぜ」
「知ること自体が、安全装置のトリガーに近づくからです。あなたたちが知ったのは安全装置の存在まで。その先——安全装置の正体には、段階があります。段階を飛ばして知ることは、危険です」
ルークさんの目が細くなった。納得していない顔だった。でも——ルークさんは追及を止めた。イレーネが「話せない」と言う以上、今はそれ以上踏み込めないと判断したのだろう。
「あなたたちの目的を聞かせてください」
イレーネが僕たちを見渡した。
「遺跡を探り、記録を読み、安全装置の存在を知った。——その先、何をするつもりですか」
「真実を知りたい」
僕は言った。
「この世界がどうなっているのか。なぜこうなったのか。——そして、変えられるのかどうか」
「変える」
イレーネが繰り返した。その一語に——微かな警戒の色があった。
「あなたたちが知ろうとしていることは、この世界を壊しかねません」
「壊すつもりはありません」
「意図せずとも、です。安全装置のトリガーに触れれば——あなたたちの意思に関係なく、安全装置は発動します。そのとき壊れるのは、あなたたちだけではない。周囲の人々も、土地も、全てが巻き込まれる。——灰原のように」
重い言葉だった。
灰原の光景が脳裏に浮かんだ。灰色の死地。何もない大地。焼けた陶器の破片。子供の皿の花の模様。あれが——安全装置の結果だ。
「だから——お願いします。これ以上は、踏み込まないでください」
イレーネの声には、命令の響きがなかった。本当にお願いしているのだ。この世界を壊さないでくれと。
「知らないままでいられることは、時に恩寵です。——私はその恩寵を失った人間です。あなたたちには、まだ引き返す道がある」
沈黙が重く垂れ込めた。
僕は、イレーネの目を見ていた。薄い紫の瞳。その奥に——疲労があった。何十年分もの疲労。真実を知り、世界を守るために現状を維持し続けてきた人間の疲労。
この人は——悪人ではない。
世界を支配したいのではない。世界を壊したくないのだ。安全装置が発動すれば人が死ぬ。それを防ぐために、禁忌を管理し、信仰を維持し、処理を命じてきた。
処理。
集落を壊す命令。人を殺す命令。それも——安全装置の発動を防ぐための、小さな犠牲。大きな犠牲を防ぐための、小さな犠牲。
イレーネはそう信じている。
間違いだとは——簡単には言えなかった。
「壊すんじゃなくて、変えたいだけです」
僕は言った。
言葉が出てきた。考えたのではない。心の底から、そのまま口をついて出た。
「僕は——この世界を壊したいわけじゃない。でも、安全装置が人を殺すのを、仕方ないと受け入れることもできない。灰原の人たちを見ました。五十年前の神罰で、家族を失った人たちを。——あの人たちは、安全装置のために殺されたんです」
イレーネの表情が動かなかった。
「知ってます。安全装置には理由があった。世界を守るために作られた。でも——理由があったからって、今も正しいとは限らない。変えられる可能性があるなら——変えたい。壊すんじゃなくて」
「変える、ですか」
イレーネが繰り返した。
黙った。
長い沈黙だった。遺跡の回路が脈動する音だけが、空間に響いていた。
イレーネの目が——僅かに揺れた。
「……あなたは」
イレーネの声が、微かに震えた。初めて——大神官の仮面の下から、素の感情が漏れた。
「若いですね」
それは皮肉ではなかった。
「変えられると信じている。——私にも、かつてはそう思った時期がありました」
イレーネが目を閉じた。
「大神官の座に就いて、真実を知って。最初に思ったのは——変えなければ、と。安全装置を止める方法を探さなければ、と。でも——探せば探すほど、安全装置の壁は厚く、人間の力は小さく。やがて私は——現状維持を選んだ。壊さないことを、守ることだと定義した」
イレーネが目を開けた。
「それが正しかったのか、今でも分かりません。ただ——私の選択の結果、この数十年間、大規模な安全装置の発動は起きていない。灰原の悲劇を、繰り返させなかった。それだけが——私の拠り所です」
「でも——処理は行われた」
セラスさんの声だった。低く、震えて——それでも、はっきりとした声。
「小さな集落を——安全装置の発動を防ぐという名目で。私に——処理させた」
イレーネがセラスさんを見た。
「ええ」
否定しなかった。
「禁忌に触れかけた集落を、処理しました。安全装置が反応する前に。——小さな犠牲で、大きな犠牲を防いだ。そう、自分に言い聞かせて」
「それは——正しかったのですか」
「分かりません」
イレーネの声が——掠れた。
「分からないのです、セラス。正しかったかどうか。必要だったかどうか。もしかしたら——処理しなくても、安全装置は発動しなかったかもしれない。でも、発動していたかもしれない。私は——その可能性に賭けることができなかった」
イレーネの手が、膝の上でわずかに震えていた。
「恐ろしかったのです。安全装置が発動する光景が。灰原のような場所が——もう一つ増えることが」
僕は——イレーネの震える手を見ていた。
この人は、真実を知る重荷を一人で背負ってきた。何十年も。世界を守るために現状を維持し、そのために人を犠牲にし、その罪を一人で抱えてきた。
セラスさんに真実を教えなかった理由も——セラスさんに同じ重荷を背負わせたくなかったからだ。
でも——現状維持は、永遠には続かない。
反宗教国家は遺跡を発掘し続けている。ヴェルナーの灯台計画。禁忌に触れようとしている人間は、イレーネの管理の外にもいる。
「イレーネさま」
僕はその名前を呼んだ。大神官ではなく、名前で。
「僕は——壊しません。でも、引き返すこともできません。この目で見たものを——忘れることはできない」
イレーネが僕を見た。
「知ってしまった以上、進むしかないんです。でも——安全装置を壊すんじゃなくて、変える方法を探します。世界を壊さずに、安全装置を変える方法を。——それを、約束します」
「約束、ですか」
「はい」
イレーネの薄い紫の瞳が、僕の目を見つめていた。長い、長い沈黙。
遺跡の回路が脈動している。金色の光が、僕たちの間を流れている。
「……あなたは」
イレーネが微かに微笑んだ。
「本気なのですね」
「はい」
「危険ですよ。安全装置に触れること自体が」
「知っています。でも——このまま何もしなければ、安全装置はまた発動します。いつか。どこかで」
「……そうですね」
イレーネの微笑みが——悲しげだった。
「そうですね。いつか——また。それは、私が一番よく知っている」
イレーネが立ち上がった。
「今日のところは——ここまでにしましょう」
法衣の裾を払い、僕たちを見下ろした。大神官の威厳が戻っていた。
「あなたたちの覚悟は分かりました。止めることは——私にはできないようですね。ですが」
イレーネの目が鋭くなった。
「一つだけ、警告しておきます。あなたたちが何を知り、何を変えようとしても——安全装置を刺激しないでください。段階を踏んで。慎重に。安全装置は——あなたたちの意思を汲みません。条件に合致すれば、自動で発動する。そこに情状酌量はない」
「分かっています」
ルークさんが答えた。
「僕たちは慎重に進めます。——あなたが話してくれた情報は、そのために必要なものでした」
イレーネが微かに頷いた。
「そして——もう一つ」
イレーネの視線がセラスさんに向いた。
「セラス」
「はい」
セラスさんが立ち上がった。姿勢を正して——聖騎士として。
「あなたは——もう、神聖国家には戻れないかもしれませんね」
その言葉は冷たくなかった。むしろ——悲しかった。
「覚悟は、できていますか」
「……はい」
セラスさんの声は震えていなかった。
「覚悟は、できています。——大神官さま」
イレーネが目を閉じた。
一瞬だけ——イレーネの顔に、師が弟子を見送る表情が浮かんだ。
「そう。——では、行きなさい」




