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蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


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第36話 大神官の結界

第九話 大神官の結界


 灰原を横断して隠れ里に戻る道は、行きと同じように静かだった。


 違うのは、僕たちの足取りだった。重い。体が疲れているだけではない。知ってしまった情報の重さが、足にのしかかっていた。

 僕の頭痛はまだ完全には消えていなかった。鈍い痛みが後頭部に居座っていて、歩くたびに揺れる。ミラさんが時折僕の顔を覗き込んで、額に手を当てた。

「まだ熱がある。帰ったら横になって」

「うん」

 従順に頷くしかなかった。


 隠れ里の入口が見えてきたのは、陽が沈みかける頃だった。


 地下への階段を降り、石の通路を進む。湿った空気が肌に触れた。灰原の乾いた風とは対照的な、地下特有のじめっとした温かさ。隠れ里の生活空間が近づいてくる。

「おい、お前たち——」

 ナギさんが通路の奥から現れた。いつもの皮肉な表情が消えていた。

「無事で何よりだが——まずい話がある。まあ聞け」

「何があった」

 カイさんが足を速めた。

「客が来てる。——招かれざる客だ」

 ナギさんの目が暗かった。

「聖騎士の白い装束じゃない。もっと格上の——大神官の法衣を着た女だ。遺跡の出口付近にいる。隠れ里の存在には気づいていないようだが——出口を封じている」

「出口を——封じた?」

 セラスさんの声が硬くなった。

「光の結界だ。通路を塞いでいる。突破するのは——まあ、不可能だな。俺のような一般人にとっては」

 ナギさんの視線がセラスさんに向いた。

「心当たりがあるだろう。——大神官さまだ」

 セラスさんの顔から血の気が引いた。


 隠れ里の上層——灰原の地上に出る通路の手前まで進んだ。


 通路の先に、光が見えた。

 白い光。壁の回路の青白い光とは違う。もっと強く、もっと——美しい光。通路の幅いっぱいに、光の膜が張られていた。光の結界だ。向こう側は見えない。光が遮って、何もかも白く塗りつぶしている。

「これは——」

 セラスさんが立ち止まった。

「大神官さまの結界です。間違いない。光の密度が——私の魔法とは、桁が違う」

 僕は透視を——使おうとして、止めた。ミラさんとの約束だ。今日はもう透視を使わない。

 だが、透視を使わなくても——粒視でも十分に見えた。

 光の結界に含まれる魔素の密度が、尋常ではなかった。セラスさんの光球が小川だとすれば、この結界は大河だ。魔素の粒が結界の表面で渦を巻き、整然と配列されている。乱れがない。一粒たりとも、無駄な動きをしていない。

「……すごい」

 僕は呟いた。

「この結界の魔素——密度もだけど、配列がおかしい。完璧すぎる。一つの粒も乱れてない。こんなの見たことない」

「大神官イレーネの魔法は、神聖国家最高峰です。——無詠唱でこの規模の結界を維持できる人間は、この世界に他にいません」

 セラスさんの声が、畏怖と恐怖の間で揺れていた。


「迂回路はないのか」

 カイさんがナギさんに聞いた。

「あるにはある。だが——遠回りだ。灰原の地下を半日かけて回り込む必要がある。水と食料の問題もある」

「結界を突破するのは」

「無理だと思いますよ」

 声が——結界の向こう側から聞こえた。

 全員が凍りついた。

 光の結界が、ゆっくりと薄くなっていく。白い光の密度が下がり、向こう側の輪郭が見え始めた。

 通路の反対側に——人が立っていた。


 白と金の法衣。

 長い銀髪が冠で留められている。法衣の装飾は控えめだが、素材の質が一目で分かるほど上等だった。年齢は五十代くらいだろう。背筋が伸びた立ち姿に、威厳があった。

 穏やかな微笑みを浮かべている。

 その微笑みが——底が見えなかった。


 だが、僕が最初に見たのは、表情ではなかった。

 魔素だ。

 この女性の周囲に漂う魔素の量と密度が、尋常ではなかった。

 セラスさんの周囲にも魔素は多い。聖騎士として高い素養を持つセラスさんの体内魔素は、普通の人間の何倍もある。でも——目の前の女性は、セラスさんの比ではなかった。

 何倍、ではない。何十倍だ。

 体の周囲に、魔素の光が渦を巻いていた。光の柱のように、床から天井まで魔素が立ち昇っている。しかも——その全てが、完璧に制御されていた。一粒たりとも暴れていない。結界と同じだ。完璧な配列。完璧な制御。

 これは——「きれい」とは違う。

 セラスさんの魔法を初めて見たとき、僕は「きれいだ」と思った。流れが整っていて、無駄がなくて、美しかった。

 目の前の女性の魔素は、きれいではない。巨大で、完璧で、人工的だった。自然な美しさではなく——機械のような精密さ。一つの歯車も狂わない、完全な制御。それが人間の体から放たれている。

 恐ろしかった。

 本能的に、一歩後ずさった。


「あら、セラス」

 女性が微笑んだまま言った。声は穏やかだった。よく通る、美しい声。

「勝手に持ち場を離れて、困った子ね」

 セラスさんが——膝から崩れそうになった。

「大神官さま」

 その一言に、敬意と恐怖と罪悪感が全て詰まっていた。

「……なぜ、ここに」

「あなたの光が揺れていたから。心配で見に来たの」

 イレーネと呼ばれた女性が、穏やかに答えた。嘘ではないのだろう。でも——全てでもない。この人の声には、言葉の裏にまだ何層もの意味が隠れている。そんな気がした。

「灰原の封印を解いて、地下に入ったでしょう。封印の認証記録は、大神殿の回路に繋がっているの。誰がいつ、どの封印を解いたか——私には分かるのですよ」

 セラスさんの顔が強張った。封印を解いた時点で、イレーネに知られていた。最初から。


「カイさん」

 僕がカイさんの名前を呼ぶ前に、カイさんは動いていた。

 剣の柄に手をかけて——だが、抜かなかった。

 カイさんの体が——動かなかった。

「無理をしないでくださいね」

 イレーネが微笑んだまま言った。

「私の魔素が、少しだけあなたの動きを鈍くしているだけです。害はありません。ただ——近づかれると困るので」

 カイさんの額に汗が浮いていた。

「何だ、これ——体が、重い——」

 魔素の圧だ。

 僕の粒視に見えていた。イレーネの周囲の魔素が、通路全体に薄く広がっている。その魔素が——僕たちの周囲の空気を、わずかに重くしている。物理的な壁ではない。魔素による圧力。それだけで、カイさんの動きを封じている。

「話をしましょう」

 イレーネが一歩前に進んだ。結界が完全に消えた。通路が開通した。だが——通路全体がイレーネの魔素で満たされている。逃げ場はなかった。

「私は戦いに来たのではありません。——そうでしょう、セラス。私がもし戦いに来たのなら、あなたたちはとっくに動けなくなっているわ」

 セラスさんが唇を噛んだ。否定できないのだ。イレーネの実力を、セラスさんは知っている。


「あなたが——ユーリね」

 イレーネの視線が僕に向いた。

 薄い紫の瞳。穏やかだが、底が見えない目。僕を見ているのではなく——僕の目を見ている。僕の魔素視覚を。

「光を視る子。——ああ、怖がらなくていいのですよ」

 イレーネが微笑んだ。

 母親が子供に語りかけるような、温かい声だった。

 だが、僕の魔素視覚は、その温かさの裏にあるものを見ていた。イレーネの魔素が——僕の目の周囲に、微かに集まっている。観察しているのだ。僕の目の中にある魔素を。

「珍しい目ですね。自然に定着した魔素が——脳と直接繋がっている。なるほど、回路が読めるわけです」

 僕の能力の原理を、一目で見抜いた。セラスさんは僕の目に驚いていた。ルークさんは分析に時間がかかった。でもイレーネは——一瞬で理解した。

「あなたが遺跡の記録に触れたことも、分かっています」

 イレーネが静かに言った。

「管理プロトコル。——あなたは、知ってしまったのですね」

 空気が凍った。

 ルークさんの顔が険しくなった。カイさんが歯を食いしばった。ミラさんが僕の腕を掴んだ。

「全部——聞こえていたのか」

 ルークさんが低い声で聞いた。

「いいえ。聞こえていたのではありません。遺跡の回路が反応すると、大神殿の回路にも振動が伝わるのです。何を読み取ったかまでは分かりません。ただ——あの台座に触れた痕跡は分かる。そして、あの台座に保存されている記録の内容は——私は知っています」

 イレーネが一歩、また一歩と近づいてきた。

 穏やかに。ゆっくりと。追い詰めているのではない。ただ——距離を縮めている。話をするために。

「だから、話をしにきたの。——あなたたちが知ったことの意味を、正しく理解してほしいから」


「出口を封鎖したのは、話をするためか」

 カイさんが声を絞り出した。体はまだ重そうだった。

「逃がさないため、じゃねえのか」

「逃がさないため、でもあります」

 イレーネが率直に答えた。穏やかな微笑みのまま。

「あなたたちが今の知識を持ったまま外に出て、誰かに話すことは——危険です。あなたたち自身にとっても、世界にとっても」

「脅しか」

「警告です。——いえ、お願いと言ったほうが正しいかもしれませんね」

 イレーネがカイさんを見た。

「あなたは冒険者ですね。銀牌の——なかなかの腕前。遺跡で核獣を倒したそうですね。見事です」

「俺を値踏みしてんのか」

「いいえ。ただ、あなたのような人が——知らないままでいられることが、どれほど恩寵であるか。それを伝えたいのです」

 カイさんの目が細くなった。

「知ってしまった以上は——もう遅い。そう言いたいのか」

「遅いかどうかは、これからの選択次第です」

 イレーネの微笑みが——初めて、わずかに翳った。


「場所を変えましょう」

 イレーネが言った。

「この通路では落ち着いて話せません。遺跡の中に——広い部屋がありましたね。そこで」


 僕たちは、遺跡の大空間に戻った。


 イレーネと一緒に。

 奇妙な道行きだった。封じられた獣が狩人に連れられて巣に戻るような——いや、違う。イレーネは敵意を見せていなかった。魔素の圧はあったが、それはカイさんが衝動的に飛びかからないための予防策だろう。セラスさんに対しても、責めるような態度は見せなかった。

 大空間に入ると、イレーネは台座を一瞥した。

「ああ。やはり、ここのノードは生きていたのですね」

 その言葉の中に、懐かしさのようなものがあった。以前にもここに来たことがあるのだろうか。

「お座りになって」

 イレーネが床に腰を下ろした。大神官の法衣を汚すことを、まったく気にしていなかった。

 僕たちは——戸惑いながらも、イレーネの前に座った。台座を背にして、向かい合う形になった。

 カイさんが僕の右に。ミラさんが左に。ルークさんがその隣。セラスさんは——少し離れた場所に座った。イレーネの近くに座ることも、僕たちの隣に座ることもできないようだった。

「さて」

 イレーネが膝の上に手を重ねた。

「何から話しましょうか。——ユーリ。あなたが知りたいことは何ですか」

 僕を名指しした。

 全員がいるのに、僕に向けて話しかけた。

「……全部、です。この世界が何に管理されているのか。安全装置とは何なのか。なぜ——こんな仕組みがあるのか」

「全部、ですか」

 イレーネが微笑んだ。

「全部は——難しいのですよ。私にも、全てが分かっているわけではありません。ですが——あなたが知るべきことは、お話しします」

 イレーネの声が、少しだけ変わった。穏やかさは変わらない。でも——重さが増した。

「長い話になります。——覚悟はよろしいですか」


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