開錠
「何が起こっている!」
校長は叫んだ。その問いに誰が答えられよう。
自分の身に降りかかっている現状の苦悩さえ、なぜ起っているのか、何が起こっているのか、わかっていない人間ばかりが集まっているのだ。
言うなれば、衆愚の集い。
僕も、蒔苗も、真田も──もちろん校長も含めて、衆愚だ。
誰にも何もわからない。
「なぜだッ! 誰か答えろッ!」
もう一度、校長が叫ぶ。
くりかえして言うが、誰に答えられるモノか。
ここにいる全員が愚かなのだ。
誰にも答えられない問い。そんなモノを求める者がいる。。
誰にも答えられない問いに答える者が。
誰にも解けない謎を解く者が。
そのモノの声が静かに響く。
「私が答えましょう」
いつの間にか。
須藤公望が立っていた。
喫茶店の店主であり、探偵社の探偵。『宝船』の主。
多分、その人だった。
というのも──僕の知っている須藤公望とは異なっていた。
そう──普段の怠惰でだらけた雰囲気や、他人を人とも思わないような不遜な態度や、この世の全てを馬鹿にしているような厭な笑み。わざとやっているのではないかと勘ぐってしまう程に年中ボサボサに散らばった髪。着くずしたよれよれの浴衣と絞りの兵児帯。
僕の知っている須藤さんを構成する要素、ソレら全てが、なりをひそめていた。
代わりに、伸びた背筋、スッとひかれた顎、無表情の中に光る鋭い眼光、整えらた頭髪。
そして──黒い。とても深い黒のスーツに身を包んでいた。その黒は暗闇の黒よりも黒く。闇の中にあっても、異質な黒とわかる黒だった。
闇の中に浮かび上がる黒という色を、僕ははじめて見た。
「須藤さん……」
僕の呟きに、須藤さんは応える事はない。
まっすぐに校長を見据えている。
「何者だ、君は──」
校長の問いに、須藤さんが無言で一歩前に出る。リンクするかのように校長が一歩下がる。
「私は、探偵ですよ。名前を須藤公望と申します。はじめまして」
そう言って、慇懃に頭を下げた。
この人がここまで丁寧だと。ほんッと無礼に見える。と思ってしまうのは、僕が須藤さんの普段を知っているからなのだろうか?
「ああ。君が須藤君かね──名前は知っているよ」
須藤さんの慇懃な態度にあわせたように、校長も紳士然とした態度で対する。
「これは、光栄です。しがない探偵風情の私が、県下に名声とどろく児玉龍治様に存じていただけているとは……」
無表情でこんな事を言う。
「厭味な事を言うのはやめたまえ」
流石に厭味に思うだろうよ。こういう所は、普段の須藤さんなんだな。
校長は、一息吸って、言葉を続けた。
「君だって、こ《裏》の世界では名の通った人間だろう?」
須藤さんは笑う。
──爽やかに。
「そうですね──残念な事に、因果な商売をしているモノでして。しかし、私とは逆で、児玉様はこちらでは一切お名前が出てきた事がなかったはずですがね? それがこんな所で、しかもそんな物騒なモノを握られて、一体──どうなされたのです?」
言葉だけであればただの質問だが、その口調は含むところしかないと言った風で、校長の目つきが明らかに厳しくなる。
「──すべてわかっているんだろう?」
「はて? 何のお話ですかね?」
須藤さんはそらッとぼけた。普段の須藤さんの片鱗が見え隠れする。安心するような、不快な思い出がよみがえるような。
「とぼけるなッ!」
語尾が荒ぶり、銃口を須藤さんに向けた。紳士の皮がボロボロとはがれている。
「こんな子供たちがここまで忍び込めるなど、考えればおかしい話だ。君が現れて全てがわかった。この状況は全て君の仕込だろう!」
口調だけは辛うじて紳士的だが、獣のような眼光と黒光りした銃口は、須藤さんの眉間から、決してそれる事はない。
「そう、ですね──仰るとおり、私は全てわかっています」
須藤さんはそう言って、爽やかに笑った。
銃口を突きつけられていると言うのに。本当に爽やかに笑う。普段から、あの笑みを浮べていれば、『宝船』は今頃大繁盛しているに違いない。
校長は忌々しそうに、須藤さんを睨みつけている。銃口は変わらず、須藤さんの眉間に狙いを定めているが、眼光はさっきほど強くはない。むしろ、追い詰められた獣のソレに近い。
須藤さんは、そんな目で睨みつけられながら、決してその爽やかな笑顔を崩さない。
「児玉様が考えていらっしゃる通り、この状況は私が全て仕込みました。オークション会場の警察も。ここにいる坂嵜君も、長柄さんも、真田さんも。そして──アナタさえも」
校長を指差して、言葉をとめた。
「私もか。まあそうだろうね。私がこんな子供にひっぱりだされるワケがない」
「いえいえ。坂嵜君も十分やってくれましたよ。だがここまでです。だから私が出てきたのです。この事件は神憑の事件だ。児玉様も、そこの用心棒の方も神憑だ。神憑の事件を解くには、三つの鍵が必要だ。『物』『因』『力』の鍵だ。『物』の鍵は既に解かれている。この場の構造は解かれ、この場で何が行われているかは明らかで、この場を支配している人間も明白だ」
確かに、この場は全て解き明かされている。学校の地下にあり、闇オークションの会場であり、校長である児玉龍治が支配している。鍵は開けられ、全て詳らかにされている。
僕と蒔苗は阿呆のように頷く。
「そして次は『因』の鍵──この鍵は、他でもない児玉様。貴方ですよ。貴方が何故、貴方ほどの人間が何故、こんな事件を引き起こしているか。それが『因』の鍵です」
須藤さんは言葉を止めて、無言で校長を見つめた。
校長の表情から、少し険しさが抜け、代わりに戸惑いが差し込む。
「それが──君にわかるものか」
声のトーンが一段落ちている。
一拍。
「わかり──ますよ」
囁くような声。
「わかるわけがないだろう。私の中の話だ。君は私の心が読めるとでも言うのかね?」
「読めますね」
じわりと染み入っていくような声。
「そ、んな馬鹿な話があるモノか」
「馬鹿な話ではないですよ──神がこの世に存在していると言うのに、ヒトの心ごときが読めないワケがないじゃあないですか?」
子をさとす様な声。
「神は神だ! 人とは別物だ。人が心など読めるワケがない! 読めて良いワケがない」
校長は明らかに狼狽している。いつの間にかに銃口は下を向き、鋭い眼光は消えていた。代わりに下を向いた銃口はふるえ、眼球はフラフラと泳いでいた。
須藤さんから距離をとるために、校長はジリジリと後ろに下がっている。
それにあわせて、須藤さんもゆっくりと前に進む。
「ぐッ……」
校長は後ろへとさがり続け、ガラス窓に当たり、逃げ場所を失った。そしてそれと同時に返す言葉も失っていた。
校長を追い詰めれば、追い詰められる距離にいるが、しかし須藤さんはそれ以上距離を詰める事はせずに、そこでぴたりと歩を止めた。
そしてまっすぐに校長を見つめながら、静かに、長く、細く、深く、息を吸った。
それはまるで矢をつがえ、弓をひきしぼる動作のように見えた。
その弓が満月を描いた時。
矢は校長に放たれた。
「児玉龍治という男は──善人である。人格者である。寛容である。紳士である。誰に聞いても、このような正の印象しか聞く事が出来ません」
須藤さんは一つ頷く。
僕もそれには全面的に同意だ。我が校の校長としてはあった事もない人間だが、それとは別にこの学校の校長は地元の有力者で、人格が優れているという話は聞き知っていた。全く興味のない僕らでも知っていたのだ。あちらこちらでそういう話が噂されているのだろう。
噂というのは悪い噂の方が走りやすく、良い噂ほど走りにくい。しかし、校長の噂はよい噂しか聞いた事がないのだ。つまり校長に関して言えば、良い噂しかない可能性が高い。
「それも当たり前の話です。児玉龍治は、この地、鎌倉に長年続く、由緒正しき児玉家の当主になるべくして生まれ、徹底的な英才教育を施され、人の上に君臨し、他人の為に生きていく事を強制された人間なのですから。そして児玉龍治という男は実際、その通りに生きてきた」
ここで須藤さんは言葉を止める。複数の視線が自然と、校長──児玉龍治という男に集まる。
しかしその視線は校長には突き刺さらない。すべてすり抜けてしまう。
口の動きは止まっていた。
須藤さんは続ける。優位に関わらず表情が心なし曇っているように見える。
「だが、全ての善を体現したような男である児玉龍治の本質は、残念ながら善ではなかった」
校長の眉がピクリと動いた。
校長が善ではなかった。今のこの状況を見れば至極納得がいく。平然と部下を狗と呼び、それを簡単に使い捨て、状況が悪化すれば己の保身を第一に考える。
須藤さんが言った校長に対する評価とは正反対だ。
「正だ、善だ、上品だ。そういった評価を受けるたび、児玉龍治は嫌悪感を感じていた。自分の本質を誰も理解していない事に苛立っていた。これは勿論、内面だけでの話だ。外面では戸惑ったような微笑を浮べて、軽く会釈をした後に、否定ともとれない否定を、相手が自分を誉めそやすのに飽きるまで繰り返す。実に優等生の反応だ。そんな事を繰り返しているうちに、児玉龍治の中の嫌悪感や苛立ちは変質し、膨張し、世界に薄くかかったもやのようになった。そうなると児玉龍治から嫌悪感、苛立ちは消えた」
校長は相変わらずの無表情だった。ただ眉だけがピクピクと動いている。
「普通であれば、抑圧された感情は、反抗期や青年期に発散する事で、消えていく。しかし児玉龍治は、抑圧され続けた。発散する事は許されなかった。発散する事を望まなかった」
誰かの固唾を飲んだ音が、部屋中にごくりと響いた。僕のモノかも知れないし、蒔苗かも知れない。もしかしたら、無表情を決め込んでいる校長かも知れない。
「普通は抑圧されていた感情がどこかで弾ける。だが児玉龍治という男は違った。この男は天才だった。演技の天才だったのか、自己抑制の天才だったか、それはわからないけどね。まあ──教育の結果もあったのだろう。どんな理由にせよ、児玉龍治の歪みは発露しなかった」
須藤さんは一息溜めた。
「でも──いま目の前にいるこの男は完全な悪と化している。歪んでいる。ねじれている。狂っている。見事に抑圧された感情が解放されている」
皆が校長を見た。思いを言葉にすることはせずに、視線にしてソレを校長に投げ掛ける。
いつの間にか、校長の顔から下衆な表情も、悪の喜びもなくなり、残っているのはただ落ち着いた表情だった。
校長は、静かに目を閉じた。そして、深く息を漏らした。
目を開いて、須藤さんを見る。それは厳格な校長の元々の視線に戻っていた。
ガチャリと。
『因』の鍵が開いた音がした。
「そんな大層なモノではない──」
校長のまっすぐな言葉だった。
「そうなのですか」
須藤さんもあっさりとした言葉でソレに答える。
「──重かっただけなんだ。家が重かった。歴史が重かった。期待が重かった。自分の能力、才能の限界で、否応なく、周囲の期待を裏切られたら、そちらの方がよほど楽だっただろう。だが私には出来てしまった。応えられてしまった。残念ながら。自分の本質を押し殺しながら、全ての重みを持ち上げて、歩いていける『だけ』の才能と力を持って生まれてしまった」
「それは不幸ですね」
ああ──。
僕にも少しわかる気がする。僕も今は家業に反発しながらも、背負ってしまっている。
校長は須藤さんの言葉に小さく頷いた。
「そう──不幸だ。そんな中途半端に才能を与えられる位なら、いっそない方がよほどマシだ。私が欲しかった才能と力はあの家の歴史を跳ねかえす事が出来る程の才能と力だ。だが、残念ながら、それらは与えられなかった。だから私は重圧を抱えながら、ソレに押しつぶされないように歩く。さながら歴史の奴隷だ。そうやって今まで生きてきた」
須藤さんは校長の言葉に頷いた。同意をしているように見えるが、しかしその視線に同情や、共感、憐憫といった感情は含まれていなかった。
むしろ、断固とした拒絶に似たモノだった。
「しかしどんな不幸を並べた所で、今の貴方は。反転──した後だ」
校長はその言葉に、ククッと笑った。
「反転。君は良い言葉を使うね。そうか──反転か。面白いね、確かにそんな感じだったよ。水蛭子の力を得て、ソレの使い方に気付いた時には。体中の細胞が、ザワザワと騒ぎ、足元から、指先から、全ての末端部分から、そう──反転していくようだった」
軽く天を仰いで、恍惚の表情を浮べた。その時の感情を反芻しているかのようだった。
「一生を善人の仮面をかぶって、本質の悪をださずに生きていった人間なら尊敬も受けましょう。さっきの話も美談となりましょう。でも──貴方は力を得て、反転してしまったのですから、今までの話も、ありふれた一犯罪者の動機にしかなりません」
恍惚の記憶から立ち戻った校長は、須藤さんの言葉に同意する。
「ああ──勿論だ。今の私は犯罪者だ。どんな言葉を並べた所で、歴史を、家を、学校を、美を穢した犯罪者に他ならない。それでいいんだ」
認めた。
この事件はこれで解決だ。校長が逮捕されて、僕と蒔苗の無実が証明されて、学校に復学して、人生を無事に進めていけるんだ。
だが。
そんな期待は。
裏切られるためにある。
「そう私は犯罪者だ。但し! 今、この時だけ、はな──」
全ての解決を夢みた僕らに、校長からの返し矢が放たれた。
「水蛭子ッ!」
それは神の名だった。
ほぼ同時に蒔苗が叫んだ。
「ひろしくんッ! そんな所にいたの!」
蒔苗は校長の膝のあたりを見ていた。
「そんな所にいたら危ないよ! その人は危ない人なの。さッ、お姉ちゃんの所においで」
ひろしくんへ千切れんばかりに手を伸ばす蒔苗。
伸ばされた手の先には。
何もない。
いや──僕に見えていないだけか。
蒔苗も、須藤さんも、虫の息の真田さえも、校長が神の名を呼んだ途端に、視線を一点に集中させた。何も見えない。でも何かがある一点に。
そこに何かがある。僕以外にはみんな見えている何かが。
僕だけが見えていないこの状況にたまらず、僕は須藤さんに問いかけた。
「そこに──何かあるんですか?」
須藤さんは僕の問いに、酷く驚いた表情を浮かべてから、すぐにそれを侮蔑の表情に変えた。
そして。僕の目をめがけて、小学生がやるような、チョキ型の目潰しを繰り出した。
見事的中。悶絶。
僕は両の目を押さえて倒れこんだ。涙がぼろぼろと溢れ出してくる。溢れだして止まらない。あまりの痛みに、僕はそのまま、うずくまって、悶えてしまった。
戦闘中だというのに。
そんな僕に、須藤さんの辛辣な言葉がふりそそぐ。
「君は仮にも神憑だろう。何故、チャンネルの合せ方も知らないんだ。無能が過ぎるよ。見たまえ、神憑ではない、長柄くんですら見えているじゃないか」
チャンネル? 大黒がそんな事を言っていたのを思い出す。神憑にはそういう力もあるのか。チャンネルというからには受信周波数帯を変更するのだろう。そうか、僕以外の神憑はみんな知っている事だったのか。
「ほらっ! さっさと起きたまえ、水蛭子が見えるように、チャンネルは合わせておいたから、君にももう見えているはずだ」
僕は痛む目をこすりながら、ゆっくりと目を開いた。
痛みと、かすみと、にじみで、はっきりと見えないが、校長の膝のあたりに、今まで絶対に存在しなかった人影がぼんやりと見えた。
そのぼんやりは、涙のにじみや、目の痛みのせいで、ぼんやりとしている視界の中でも、異質なぼんやりだった。
まるでそこだけ一枚フィルターをかけたかのようだった。
そのぼんやりとした人影もしばらくすると、段々と像がはっきりとしてくる。
子供。
そこにいたのは子供だった。
あれが、ひろしくんこと、水蛭子か。
あどけない子供だった。蒔苗の庇護欲が強烈に刺激されるのがよくわかる。存在感が圧倒的に弱い。弱々しく、今にも消えそうに儚い。
蒔苗は繰り返し、ひろしくんに声をかけ続けていた。
「早くこっちにおいで」
「そのおじちゃんは悪い人なのよ」
「一緒に暮らすって言ったでしょ?」
「ひろしくんはあたしが守るから」
どんな言葉にも、ひろしくんは首を横に振るだけで、校長のそばを離れようとしない。
「どうして? ひろしくん。あたしだけじゃないよ。雑賀もいるし、新しく入ってきたこのおじさんも、見た目は校長に負けず劣らず悪い人に見えるけど、いい人……だと思う。だから大丈夫なのよ。だからこっちにおいで」
ひろしくんは戸惑うように、部屋の中にいる人間を見渡して、それから最期に校長の顔を見た。そして力なくうつむいてしまった。
「ひろしくんッ!」
沈黙。
「ねえッ!」
悲痛な叫び。
「だめだよ……」
ひろしくんはうつむいたまま、ぽつぽつと話しはじめた。
「何がダメなの……ひろしくん」
蒔苗お得意の慈母のような語りかけ。慈しむように、包み込むように。
「……ぼくがこのおじちゃんから離れたら、みんな消しちゃう」
「みんな消しちゃう? それはここにいるみんなって事?」
ひろしくんは小さく頷く。
「消しちゃうって、ひろしくんがあたしたちを消しちゃうってことなの」
一拍。
首肯。
「──なんで、そんな事」
それだけ言って、蒔苗は言葉を失った。校長は蒔苗の反応を見て、心なしか微笑んでいる。
この事態は校長が仕組んでいるのに間違いない。
考えろ。ひろしくんは消しちゃうと言った。だが、ひろしくん自体はそんな事を望んでいるようには見えない。ひろしくんの能力は事象を水に流す能力。水に流して、事象無かった事にしてしまう能力。あのひろしくんの言い方だと、校長からひろしくんを引きはがしたら、その能力が自動発動なり、暴走なりするという意味なのだろうか? だとしたら確かに酷く理不尽だ。ひろしくんにとっての蒔苗は特別だ。消すなんて事は絶対に出来ない。
どうしたらいい。どうしたら僕らが消されずに、校長からひろしくんを引きはがす事が出来る? わからない。どれこれも推測ばかりだ。これじゃあ話にならない。
ええぃッ! 悩んでても仕方ない。これは本人に直接聞くのが正解だろう。
「ひろしくんッ! 君は校長から離れると、みんなを消してしまうのか?」
小さく首肯する。
「なんで、そんな事が起るんだい?」
「……ぼくはおじちゃんから離れるとね、消えちゃうんだ」
消える。神が? そういうモノなのか?
「ひろしくんが消えてしまうのと、僕らを消しちゃう事は関係あるのかい?」
「うん、そう。ぼくは水蛭子って神様のなりそこないで、棄てられた神なんだ。葦船で水に流されて消えた神だ。そのぼくが消える時には大量の水で流されるんだ。その時の水で周りにいるモノはみんな消えちゃうんだ。無事なのはぼくを流した本人だけなんだよ」
何もない言葉。ただ単純に事実だけを述べていた。
流した本人。神の持ち主。それは校長という事か。つまり消されるのは校長を除く全員。どう考えても、校長の大勝利。僕らの敗北だ。
ぐうの音もでない。手詰まりだ。
力の鍵は水蛭子だ。鍵を開けるには、水蛭子の力を校長から奪い取らなければならない。しかし、校長から水蛭子を奪い取れば、自動的にここにいる全員の存在が根本的になくなる。
どうしようもない。
僕も、蒔苗も、ひろしくんも、絶望の表情を浮べていた。
そこに拍手の音が、パンッと部屋中に響く。
打ち鳴らしたのは校長だった。胸の前で手を合わせて、僕らを見下している。
「わかっただろう、水蛭子よ。さっき心の中で話したとおりだ。お前が私の言う事を聞いて、ここにいる人間をなかった事にするのならば、お前の大好きな長柄だけは消さないように、お前の能力をセーブしてやる。その後で、ゆっくりと長柄を己がモノとするがいいさ。それが出来ないというのなら、私のほうから、お前との契約を解除して、お前を再び葦船にのせて水に流してやる。そうすれば、お前もろともここにいる全員。オークション会場を荒らした刑事ども、オークションに参加している愚鈍なクズどもも、まとめて全部消える事になる。私にとっては好都合だ。ソレで良いのならば、好きなだけ私に逆らうがよい」
そう一息で言って、ククッと下衆に笑った。
心の中で──。さっきの沈黙か。須藤さんの話の最中に、追い詰められたフリをして、心の中でひろしくんを脅していたんだ。だから、あんなにも大人しく、反論もせず、まるで諦めたかのような態度だったのか!
ひろしくんは、校長の言葉に、小さくうつむいて動かない。僕も蒔苗も動けない。満身創痍の真田さんは勿論、須藤さんもピクリとも動かない。こんな手詰まりの状況、さすがの須藤さんでもどうしようもないんだ。
「水蛭子……さっさとしないか。これ以上、私を苛立たせるな」
膝でひろしくんを軽くけとばす。蒔苗が小さく、アッと声を漏らした。
けとばされたひろしくんは、前のめりによろめいて、数歩進み、そしてドサリと四つん這いになって倒れた。
部屋の中心に倒れたひろしくんは自然と場にいる全員に取り囲まれる形になり、それはまるでつるし上げにあっているかのようだった。
全員の視線が小さな水蛭子に集まる。
注目されたひろしくんは、ブルブルと震えている。決意しきれないのだろう。
無理もない。子供に決断を強いるには、あまりに酷な選択だ。僕だって選べない。自分と好きな人間だけ残して、全てを消すか。敵だけ残して、自分も含めて全てを消すか。
どちらをとってもバッドエンドしか見えない。
「ひろしくん」
決断を迫られているひろしくんに、蒔苗が優しく声をかけた。
「──お姉ちゃん」
二人の視線が交わった。
「いいよ。ひろしくん……」
「えっ?」
「全員、消して……」
「え? そ、そんな事ッ! だって、そんな事したら、おねえちゃんの嫌いな負けになっちゃうよ。一緒にお話していた時に、負けるのが死ぬより嫌いだって言ってたじゃないか」
急な提案に、ひろしくんはとまどっていた。当たり前だろう。完全な敗北宣言にも等しいその提案が、蒔苗の口からされたのだ。少しでも蒔苗を知っている人間であれば、確実に戸惑うだろう。でも僕は戸惑わない。蒔苗をより深く知っている人間なら、ここでの蒔苗の発言は至極当然な発言に感じる。というより、この状況での蒔苗の台詞はこれしかない。
「ひろしッ! 屈するな!」
蒔苗の急な叱咤に驚き、ひろしくんはピンと硬直し、目を丸くした。
「で、でもッ──」
「でもじゃないッ! 聞いて、ひろしくんッ! あたしの負けは、理不尽に屈する事、力に屈する事なの。だからひろしくんも屈しないで。あたしはみんなを犠牲にして生き残るなんて、絶対にいやッ。それにひろしくんがしたくない事をさせられているのを見るのもいやッ。君は神様なんでしょ。あたしにはよくわかんないけど、神様なんでしょ。神様だったら、威厳を持たなくっちゃ。迷ってちゃダメよ。ここでひろしくんが全員を消してしまったら、校長だけが生き残って、それはまるで一人勝ちみたいに見えるけど、実際はそうじゃないの。校長にとっての最上の勝利は、君を今までどおりに従わせる事なの。君に消えられる事は、校長にとっての敗北なのよ。君の力がなくなったら、校長はこれ以上悪い事は出来ないし、苦しむ人間もいなくなるわ。校長はそれが一番困るの。だから、そうすれば、勝利なのよ。だからね──」
蒔苗はごくりと唾を飲み込む。
「一緒に消えましょう」
すらりとした手を、ひろしくんに向ってまっすぐに伸ばす。
そこにはなんら悲壮感はない。
清々しく、瑞々しく、麗しかった。清浄な泉に佇む女神のように見えた。
「お姉ちゃん……」
ひろしくんは、まるで魅入られたように、ゆっくりとした動きで、蒔苗に手を伸ばして、いつの間にかに、その手を掴んでいた。
ひろしくんの小さな手に、もう片方の自分の手を、包み込むようにのせて、蒔苗は言った。
「そう、偉いぞ。ひろしくん。これであたしたちは消えるけど、負けじゃない。あたしたちは屈しなかった。屈しなければ負けじゃない。これは勝ちよ。あいつを見て、ざまあみろって気持ちで消えてやるのよ」
その言葉に、ひろしくんはしっかりと頷いた。瞳からさっきまで迷いは消え去っていた。
震えもいつの間にかにとまっていた。だらしなく垂れ下がっていた手は、堅く拳となっていた。弱々しく折れ曲がっていた背は、ピシリと伸びて、直立になっていた。
さっきまでのひろしくんではなかった。弱々しさは、神々しさに変化していた。
「ぼく負けない! 絶対におじちゃんなんかに負けない。もう悪い事もしたくない。悲しい事もしたくない。閉じ込められたくもない。おねえちゃんが……」
「うん?」
「おねえちゃんがいれば、怖くないッ!」
蒔苗がひろしくんを抱きしめた。力強い抱擁だった。
その姿を黙って見ていた校長は、耐え切れず、歯噛みの音を部屋中に響かせた。
「──いい」
「え?」
「お前のような役立たずの神はいらんっ! 望みどおり消えるがいいっ!」
その言葉とともに、轟ッと空気が鳴った。空気感ががらりと変わっていた。
「水蛭子っ! 契約解除だ!」
そう言った後、校長の口から泡のような言葉が次々と紡ぎだされる。言葉の意味はわからないが、神との契約解除の言葉なのだろう。そしてその言葉とともに、足元からブクブクと水の鳴る音が耳に飛び込んできた。足元から闇色の水が溢れてきていた。これは覚えがある。
水蛭子の力だ。この水で全員流されるのか。
闇色の水はいつの間にか部屋の高さ半分まで達していて、気付かないうちに僕らは葦舟にのって、水の上に浮いていた。水蛭子の神話どおりだ。これに乗って僕らは常世に流される。存在が消える? 命は消えても存在は消えないが、存在が消えたら無だ。悪があふれ出した時に、校長は細胞が反転すると言っていたが、存在が消える時はどんな感じだろう。
細胞が0で埋め尽くされる? いや、さすがに、そんなデジタル的な話じゃないだろうな。神の力で葦舟にのって流されるのだから、もっと叙情的な、そうだな、常世への流刑とでもいうような感じなのだろうか。
どうにせよ。死よりも恐ろしい事だろう。
そんな絶望の中。
一人の男の声がこだました。
「水蛭子よ──」
低く、深く、枯れて、力強い、その声が闇色の水の上を波紋のように走り、神の名を呼ぶ。
突如、名を呼ばれた水蛭子こと、ひろしくんは、驚き、少し怯えたように蒔苗に抱きつき、己が名を呼んだ男を見た。
「──はい」
答える声には戸惑いが含まれている。それもそうだ。存在が消える前の、ほんのわずかな、でもとても濃縮された時間を、黒スーツの変な男に遮られたのだ。無理もない。
「君は、イザナギとイザナミの間に生まれ、棄てられた神だと自分の事を認識しているね?」
「は、はい……」
突如始まった質問タイム。質問者以外は、みな呆気にとられていた。そりゃそうだ。
「棄てられた神である君は、崇める者もなく、畏れる者もなく、讃える者もない。──とそこのおじさんに教わってきたね」
そう言って、須藤さんは校長を横目でちらりと見た。
校長は己の勝利を確信する状況の中で、奇妙な言動をはじめた男を、一抹の不安を持って、見つめていた。しかし、契約解除の言葉を止める事は出来ないらしく、須藤さんを止める事も出来ない。
ひろしくんは弱々しいながらも、しっかりと須藤さんの問いに答える。
「そうです。ぼくは棄てられた神ですから……。ぼくの事は誰も知りません。誰にも知られていない僕は、おじさんから離れると、存在そのものが消えてしまうんです。だから今も──」
「うん。それは間違っていない」
「やっぱり──そうですか」
今更、わかりきった事を確認して、何だというんだこの人は。
「だけど、全部が正しいわけじゃない」
「え?」
須藤さんはニヤリと笑う。あの──いつもの笑顔だ。
「おじさんは意図して、嘘を──吐いている」
「嘘?」
「ああ、そうだ。君は確かに棄てられた神だ。そして神は人からの信仰を失った時に、力を失い、忘れ去られた時に、存在が消えていく。この二つは間違っていない。だが、実際問題として、君は棄てられてはいるが、誰も君を知らないワケではないし、誰も君を崇めていないワケじゃない。むしろ君は沢山の人に覚えていてもっているし、とてもメジャーな神様なんだよ」
「ぼく、が?」
「ああ、そうだ。君は君の事をよく知らないね」
ひろしくんは静かに頷いた。
「ぼく、気付いたら、学校にいたんです。そして目の前にはおじさんが立ってた。その時、ぼくは、ぼくが誰だかわからなかったんだけど。でもおじさんがぼくを水蛭子と呼んだ時に、ぼくは棄てられた神なんだって事だけを思い出したんです。でもそれだけで、後は──」
「後は、全部おじさんに教えられたんだろう?」
「うん……」
「おじさんから、離れたら消えるって事も、消える時には、周りを全て流してしまうって事も、君が叫べば、世界の一部をなかった事にしてしまうって事も」
ひろしくんは、須藤さんの言葉に、逐一、うんうんと頷いていた。わかってくれる人が現れて嬉しいのだろう。
「やはり。その時に君の能力は決定されたんだ」
「決定?」
神の能力が決定された? そんな事があるのか? 僕の大黒の力は、大黒本人から教わった。だから神の能力って元々のモノだと思っていた。でも須藤さんの言いようだと、神の能力って奴は自由に決定できるって事になりそうだ。
「そ、そんな事が出来るモノなんですか?」
僕は思わず、須藤さんに尋ねてしまった。驚きのあまり降りたはずの舞台に戻ってしまった。
「勿論、出来るさ──。ただ、かなり特殊なケースにはなるがね。言ってしまえば、記憶喪失の人間に嘘の記憶を植え付けるようなものさ」
「記憶喪失?」
「そうだ。ここにいるひろしくんは、間違いなく水蛭子の一部だ。しかしだね。水蛭子には本来、何かを水に流す能力なんてないよ。流された神だから、何かを流す事が出来るなんて、皮肉な話はない。水蛭子はむしろ流れ、流されて、たどりついた地に福をもたらす恵比寿神になっているんだよ。福の神だ。事実をなかった事にするなんて、タタリじみた能力なんてもっていないよ。じゃあ、どうやってそれを実現したかだ──」
そう、それが大問題だ。
「どうやって、実現したんですか?」
僕の問いと共に。僕を含め、蒔苗、水蛭子、一同、須藤さんを見つめている。校長はまだ、契約解除が完了しないのか、苦々しい表情で須藤さんを睨みつけていた。
「ひろしくんはこの学校の裏にある蛭子神社の祭神だ。恐らくは鎌倉にある夷三郎社から分社された神だろう。古い昔に夷三郎社から分社され、名前も蛭子神社となったこの神社は、まあ、神社と呼ぶにはあまりにお粗末な、小さな社だった。だが一応、近辺の民衆から恵比寿さんとして祭られた。このあたりは漁師町だからね。恵比寿さんは喜ばれる神様だよ。そこまではよかった。海から来て福をもたらす神として機能していた。しかし長い時を経て、その神社が忘れ去られた。参る者がなくなった。そして水蛭子は力を失い、存在すら失いかけていた。しかし完全には存在を失う事がなかった。何故だと思う?」
須藤さんはみなに問いかけた。
誰に答えがわかろうか、祭られていた本人さえ、記憶を失っているのだ。
「児玉家のお陰だよ。児玉家は自分の家の繁栄を水蛭子のお陰だと考えていた。だから元の夷三郎社に寄進をし、この小さな社も、頻繁にではないけど手を入れていた。その内、大元の夷三郎社はなくなり、この分社だけになった時も、また夷三郎社が復活した後も。ずっと」
一同の視線が校長に集中した。
「勿論、神が力を維持していくには児玉家のみの信仰では不可能だ。存在を保っていくだけが精一杯だろう。だから、児玉家の繁栄は神の力じゃなく。人間の努力の結果だ。神の加護で一族が繁栄するなんて事自体がそもそも思い込み、勘違いだからね。しかしそこにいる児玉龍治の代になっても、その勘違いは弱いながらも続いていた。昔ながらのしがらみ程度にだがね。そのおかげで細々とひろしくんも存在を維持していた。だけどその頃には自分が何者かもわからない程に弱っていた。力も、記憶も、存在も失いかけていた。そんな時に──」
一拍。
「ひろしくんと、児玉龍治は出会った」
ひろしくんは、ぶんぶんと頷いて、須藤さんの言葉の全てを肯定していた。まるで見てきたように己の事を語られて、驚いているのだろう。
須藤さんの話は核心へと続いていく。
「その時。児玉龍治という男は恐ろしい事をした。神を作り出したんだ。力を失くし、記憶を失い、存在すらも消えかけている、神の素体とも言うべき状態の水蛭子に! 自分が制御しやすいように、能力を、制限を──刷り込んだ!」
能力と制限を、刷り込んだ?
「そんな、無茶苦茶な……」
そう言ったのは誰だったろう? 僕だったか、蒔苗だったか。それともひろしくん本人だったか? それ位にみんな同じ思いを抱いていただろう。
神に能力を刷り込む。荒唐無稽というか。不遜というか。大黒の言葉じゃないが、『総出で罰があたりそう』だ。神にでこピン喰らわしている僕の言う事ではないかもしれないが。
「それが、無茶苦茶でもないんだ。神の存在、能力なんて、所詮思い込みなんだよ。ここの神社のご利益は、これこれです。なんてのは全て人間が決めているんだよ。そして、言われた人間が思いこんで、その通りに拝んで、神も人間に言われた通りに思い込んで、現世利益が発生するんだ。人間がそうやって神を創っていくんだ。水蛭子は特にやりやすかっただろう。力も、記憶も、存在すらも失いかけた神だ。来歴を騙って、その来歴に合うような能力を説明してやるだけで、いとも簡単に望んだ神様の出来上がりだ。あとは力を回復するように信仰を集めればいい。それも簡単だったろう。児玉家に縁のある人間をコントロールしてやるだけでいいんだから。これで今のひろしくんの完成だ。最近のパワースポット騒動がそれだろう」
そんな。そんなインスタントな仕組みだったのか。神様って。
「ひどい……」
蒔苗はいきどおるあまり、そんなありふれた一言しか発する事が出来ないようだった。確かにひどい話だ。自分の存在を捻じ曲げられて、存在をたてに脅迫されて、悪事に加担させられていたんだ。ひどいなんてモンじゃない。
空気が鉛色の染まる。
「だが!」
須藤さんがそんな空気を一喝する。
「すでに水蛭子と、児玉家の契約は解除された。葦舟によって水に流された。神話は再現されたんだ。三年経っても足が立たなかった水蛭子は葦舟にのせられて流された。それが今だ。だが、水蛭子という神はそれだけではない! 先がある。流れ、流され、たどりついたんだ」
「ぼくが? たどりついた?」
ひろしくんはきょとんとしていて、まるで他人事のようだ。
「ああ──君はたどりついた。再び君が神となる地へ。君は葦舟に乗って、流された地で、常世からやってきた来訪神として顕現したんだ。名前を恵比寿神としてね」
「ぼくが、恵比寿?」
恵比寿さんは太鼓腹で、釣竿をもっていて、小脇に鯛を抱えているおっさんだ。僕の大黒と対をなす神様なはずだ。子供の姿をしたひろしくんとは似ても似つかない。
「でも、姿かたちが全然──」
僕の横槍は、須藤さんの論理の盾にはじかれた。
「神の姿かたちなど飾りだ。この言葉で納得いかなければ、水蛭子は童形の神だった。だが! それが葦舟にのって大海原にもまれ、成長し、海からの富をもたらす海神となった。その過程で姿かたち変わった。と、そう考えるんだ。そうすれば自然だろう」
ぐう。
「……それはそうですね。でも、水蛭子が恵比寿になった話はわかりましたが、それがいまどうだって言うんですか? 僕らは存在を消される瀬戸際なんですよ」
一拍。
「足元を見てみたまえ」
須藤さんは嘲笑まじりにそう言った。
僕は足元を見る。
葦舟も。闇色の水も。消えていた。下にあるのは見慣れた地面。ふかふかした絨毯だった。
「なんで?」
全員が戸惑っていた。僕も、蒔苗も、真田さんも。『アルゥェ?』となっていた。
誰より一番驚いていたのは、他ならぬ校長だっただろう。契約解除の言葉を唱えながら、さっきまで自分の手の中にあった勝利を探していた。探しながらも、言葉をいまだ紡ぎ続けているあたりが、ハタから見ると少し滑稽だ。
「無駄ですよ」
須藤さんは校長をまっすぐ見据えて言った。
その言葉に、やっと校長はぶくぶくとした泡のような言葉を紡ぐのをやめた。
そして一息。
「なにが──無駄なんだ。無駄なのは君たちの方だ。私の勝利でこの演劇の幕は閉じている。これ以上君たちが何をしても、それこそ無駄なんだよ」
数秒前だったら、僕らの心を折るのに、実に有効だったであろうこの台詞も、いまのこの状況で聞くと、とてもむなしく響く。
僕の肩に大きな手が置かれた。
「こりゃ、どうなってんだ? 坊主」
ハードボイルドな匂いをはらんで、真田が僕の隣に立っていた。
「どうなったも、こうなったも──」
ここで僕の頭に疑問符が飛び交った! 真田? 真田? え? ええ?
一拍。
「あんたがどうなったんだよ!」
渾身のツッコミ。あんたは、さっきまで満身創痍の、出血多量の、臨死体験状態だったじゃないか。それがなんで、いきなり僕の隣で、のんきに状況確認なんてしちゃってるんだよ。
「俺かい? わかんねえな。気付いたら傷が治ってた。ちゃんと足もあるから、死んじゃいないと思うぜ。なんなんだろうな?」
本人がわからないのに、僕にわかるわけないだろう。ちなみに状況を僕に聞いているのも間違っている。僕だって何がなにやらわからない。
「まっ、話を聞く限りだと、水蛭子の契約解除時に発生した力が、上手い事怪我だけもってってくれたんだろうよ。ホント神ってのはよくわからないモンだな」
真田が投げやりに、他人事のように、状況を推測した。
ご都合主義にも程がある。さっきから思っているが、神様って奴はインスタントが過ぎる。
「無駄ですか? ふうむ。これが無駄、ですか? この状況を起した原因が?」
校長に状況を見せつけるような仕草で、嘲笑を校長に投げ掛ける須藤さんは、とてもいきいきとしていた。本ッ当に性格が悪いと思う。
「ふむ、なんらかの方法で水蛭子の力を止めたようだな。しかし無駄だよ。もう一度私が契約解除を行えば、また水が満ちる。葦舟が現れる。いや──それよりも水蛭子の力でお前たちを消してしまえばいい。何もかもなかった事にしてやる」
「どうやって?」
須藤さんは鼻を鳴らす。
「ど、どうやってだと? さっきから言っているじゃないか! 水蛭子の力を使ってだよ。君は私を馬鹿にしているのか!」
「さっきも言いましたが、貴方と水蛭子の契約はもう解除されていますよ。解除された状態で、どうやって再度契約解除をしたり、水蛭子の力で私たちを消すというのです?」
「契約が、解除されただと? ふざけるな! なら、なぜ君たちが、この場にいる。なせ、常世に流されていない。君たちはなぜ、存在している! 契約は、解除されていない」
校長は区切られた一言ごとに狼狽の度を深めていく。
「しつこいですね。契約は解除されています。貴方の、『契約解除だ』の言葉だけで、契約自体は解除されていたんですよ。だけど、貴方は私たちの存在を消すためのギミックを契約解除に入れていた。それがあの泡のような言葉だ。でもそれは失敗だった」
「何が失敗だ! 私が失敗など──」
「時間がかかりすぎたんですよ。あんなに時間があけば、水蛭子の再契約なんてあっという間に終わってしまいます」
え?
「再契約──」
校長は、『再契約』という言葉に絶句した。
「はい、再契約です」
「君が、か?」
「いえいえ、私には水蛭子は合いません。契約は無理ですよ」
「じゃあ──」
校長の視線が、須藤さんからはずれて、順に横にスライドしていく。そして行き着いた先。
そこにいたのは──。
「そう、正解です。彼女が適任でした。なにせ神憑でもないのに、水蛭子が見えていた程に相性のいい人間なんですから。──彼女以外いないでしょう。長柄さん、ひろしくんの事は君に任せたよ。いいかい?」
須藤さんは蒔苗に問いかけた。
「え? あたし? よくわからないけど、はじめからひろしくんの面倒はあたしがみるつもりでしたから、問題ないですよ」
「ありがとう! おねえちゃん」
二人はひしと抱き合った。
わかっていない。蒔苗はわかっていない。これからどんな苦労をするのか。これからどんな苦悩をするのか。何でこんな事になったんだ。
僕の心配をよそに神憑になった蒔苗はまっすぐに校長を見つめていた。
「これからはあたしがひろしくんの面倒をみます。校長には絶対に渡しませんから!」
略奪宣言。これは校長に何もなくなった事を意味する言葉だ。神の力によって悪に反転した人間から神の力を奪い取った。
ガチャリと。
『力』の鍵が開いた音がした。
今、ここに全ての鍵が開いた。神の事件を解決する為に必要な全ての鍵が。
事件は解決した。
「終わりですよ。児玉さん」
須藤さんが言った。校長は何も語らない。何も語らず、ただひろしくんを見ている。
睨んでいるワケではなく、凝視しているワケでもない。ただ見ている。
そこから感情をおしはかる事はできなかった。怒りも、憎しみも、悲しみも、怨みも、辛みも。そこにはなかった。全てを失った状態で、何を思うんだろう。
何も思えないのだろうか。
ぽつりと。
「お前……ひろし、という名をもらったのか?」
口を開いた。
ひろしくんを抱く蒔苗の手に力がこもる。その手にひろしくんの小さな手が重なる。
ひろしくんは蒔苗の目を見て、小さく頷いた。蒔苗の手から力が引いていく。
「うん。もらったよ」
「よかったな」
「うん」
「今まで、辛かったか?」
「ううん」
「そうか?」
「そうだよ」
「不思議だな」
「楽しい事もあったよ」
ぽつんぽつんと、雨だれのような会話がしばらく続いた。
ぽつん。
ぽつんぽつん。
ぽっつん。
次第に雨だれの感覚がひらき、語る事を語りつくし、そこに一拍の沈黙が訪れた後、校長は本題を切り出した。
「水蛭子……」
「なあに?」
「……私を、消してくれないか?」
無言。
みな発する言葉を持たなかった。
「頼むよ」
順当に考えればそういう結論に至るか。児玉龍治は家の重圧から、本性を隠し続けてきた人間。それが力を得た事によって開放された人間。
そして、その力を失った人間。
このまま行けば、校長は、警察に逮捕され、己の名声と地位を失い、家名に泥を塗る。という結果が待っている。言葉で聞くだけでも、悲惨な話だ。
家の為に、人生の大半、本性を隠し続けた人間が。こんなにも強い本性を抑圧し続けた人間が、全てを失った挙句に、家名に泥を塗る。
という事の意味。という事の重さ。どれ程だろう。
僕なら蒸発する。耐え切れない。いたたまれない。そんな事実が下に敷かれた校長のこの言葉に、ひろしくんはなんと答えるだろう。僕ならなんと答えるだろう。僕にはおそらくその問いは答えられない。
注目がひろしくんに注がれた。ひろしくんの言葉。つまりは神の言葉。皆が待っていた。
部屋全体に期待が満ちた時、それは告げられた。
「できないよ」
凛とした言葉。少し前までの怯えた子供の言葉ではなかった。満ち満ちた自信、断固とした意思、漏れ出してくる力。取り戻した神の威厳。それらが渾然一体となった言葉だった。
予想外だった。
語気だけでなく、その内容もまた予想外だった。
ひろしくんは児玉龍治を消すと思っていた。ぽつりぽつりとした会話から、表面上に見えているだけの関係だけではない事が見てとれたし、これ以上、校長が苦しまないように、介錯を受けるくらいの信頼関係はあるのだと思っていたが。
「な、なぜだっ!」
校長も僕と同じ考えだったらしい。
ひろしくんは、笑顔で屈託なく、その問いに答えた。
「おじちゃんは悪い人だった」
「だからかっ! やはり、私を恨んでいるのか? それに関してはすまなかった! 謝る──だから、私を──」
「ううん、違うんだ。ぼくはおじちゃんを恨んでなんていない。むしろ逆なんだ。感謝しているんだ。悪い人でも、ぼくはおじちゃんが好きなんだ。だから消さない」
「好き……だから、消さない?」
「うん。だっておじちゃんがいてくれたから、ぼくは存在していられた。そんな人間の存在を消す事なんて出来ないよ。おじちゃんがいて、今のぼくがここにいるんだ」
「くうっ──」
校長は嗚咽にも満たない叫びを漏らした。
神の甘い言葉。神の優しい言葉。甘くて甘くて、優しくて優しくて。
これ異常ないほどに残酷で。今のこの状況で聞かされている校長にとっては、この言葉は緩慢に命を蝕む毒のような言葉だっただろう。
そんな言葉を屈託なく聞かされるんだ。聞いている方も救われない。
ひろしくんは子供だから。ひろしくんは神様だから。
情けも、慈悲も、救いも、邪気も、屈託も、ない。
校長に残されたのは絶望だけだった。パンドラの箱を開いて、最後に残ったのが絶望だった。僕には希望が残っていたけど、校長には死ねないという絶望が残っていた。
「そうか──お前は、私が好きか」
「うん」
「そうか──。だが、私は、自分が嫌いだ」
校長は、これまで握り続けて、決して放す事のなかった拳銃の銃口を、己のこめかみに当て、引き金に手をかけた。
この喜劇の終焉を知らせる号砲が鳴った。




