時間稼ぎ
風が一度、大きく脈打つ。
エレナの呼吸が小刻みになり、膝から力が抜けた。
手枷が床へ当たり、重い音を立てる。
エレナはそのまま倒れ、風が止まった。
「火を消せ!」
兵士と書記たちが動き出し、上着や布で燃えている紙を叩く。
判事らは顔を強張らせたまま、その光景を見ていた。
ブロムリー判事の口から、かすれた声が漏れた。
「……閉廷だ」
書記が振り返る。
「閣下?
……今何と?」
ブロムリー判事が声を張った。
「本日の審理は中止する! 被告を牢へ戻せ!」
倒れたままのエレナを兵士が抱え起こす。
「明日、改めて開廷する。それまで厳重に拘束しておけ!」
誰も異議を唱えなかった。
傍聴席ではいくつもの声が重なっていた。
「見ただろ……」
「本当に火を……」
「やっぱり魔女だ」
柱のそばに立っていたダガルは、エレナが法廷から運び出されるまで動かなかった。
人が減り始めたところで、一人の初老の男が近づいてくる。
「ダガル」
「ガーズィ。キミがいて良かった」
男は周囲を確かめてから、声を落とした。
「向こうにはわたしから手を回しておいた。ただ、王室から正式な書状がこちらまで届くには時間がかかる」
「どれくらい?」
「順調でも明日の夕刻頃だ。遅れれば、さらに一日」
「明日か……」
「本来なら、今日のうちに判決が出ていたかもしれん。あの娘が一日稼いでくれたな」
「うん。助かったよ。ただ、明日の審理は長くないだろうね」
「処刑までに書状さえ届けば、まだ間に合う」
「そうなんだけど、できれば判決が出る前に間に合わせたいね」
「……何故だ?」
「あの子には、もう十分つらい思いをさせたから」
ガーズィは少し考え、法廷の出口へ目を向けた。
「だが、このままでは書状が、判決には間に合わんぞ」
「だから、時間はボクが作るよ」
ダガルは、法廷を出ていく判事らの背中へ目を向けた。
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裁判は閉廷した。
騒ぎの残る法廷を離れ、アルサムとブロムリーの両判事は判事室へ戻っていた。
窓から差し込む西日が、床の上に長く伸びている。
ブロムリーは椅子へ深く腰を下ろし、額の汗を拭った。
「参りましたな、アルサム卿」
アルサムも向かいに座った。
「ああ……。
あそこで続けていたら、死人が出ていたかもしれん」
「まさか、あれほど明白に魔術を目にすることになるとは」
しばらく沈黙が落ちた。
アルサムは机の上に残った書類へ目を向ける。
「だが、明日の審理は予定通り行う」
ブロムリーがわずかに眉を寄せた。
「……本気ですか」
「我々が逃げれば、法廷そのものがあの娘に屈したことになる」
「しかし、兵を増やしたところで、あの風や炎を止められるでしょうか」
「……止められんかもしれん」
アルサムは続けた。
「だが、だからといって裁判を放棄するわけにはいかん。傍聴人を減らし、兵を増やす。できることをするしかあるまい」
「もし、また同じことが起きたら?」
「その前に、証言を終わらせる」
ブロムリーは少し間を置いた。
「……承知しました」
「証言はもう十分だ。明日は長引かせん」
廊下から、衛兵の声が聞こえた。
「おい、ここは立ち入り――」
声が途切れた。
ほどなくして、扉が開き、二人の男が入ってきた。
二人とも鼻から下を濃い色の布で覆い、顔立ちはよく見えない。
一人は細身で腰に短めの剣を差し、粗末な服に土で汚れた靴。もう一人は少しだけ腰が曲がっていた。
アルサムが立ち上がる。
「何だね、君たちは」
細身の男が答えた。
「許可を待ってる暇がなくてね」
声は若く軽い。
「勝手に入らせてもらったよ」
アルサムが声を荒らげた。
「なっ……!?
ここがどこか分かっているのか!」
「衛兵!」
返事はなかった。
廊下から足音すら聞こえない。
「呼んでも来ないよ」
若い男――ダガルが言った。
「少し眠ってもらってるから」
「何だと?」
ブロムリーが立ち上がった。
ダガルは隣の男に声をかけた。
「念のため、誰も入ってこないように見てて」
「ああ。早く済ませろ」
返ってきたのは、ダガルよりずっと低く、年齢を感じさせる声だった。
男は扉のそばへ移動した。
「何をする気だ」
「大丈夫。痛くはないよ」
ダガルが歩み寄る。
「そこで止まりなさい」
ブロムリーの声は低かった。
だが、ダガルは止まらない。
ブロムリーがダガルを押し返そうと腕を伸ばした。
ダガルはその腕をかわし、右手をブロムリーの額へ当てた。
「少し眠ってて」
「な、何を――」
「|Slumber Hand《眠りの手》――」
ブロムリーの身体から力が抜けた。
ダガルが肩を支え、そのまま椅子へ座らせる。
首が横へ傾き、目を閉じたまま動かなくなった。
アルサムが息を呑む。
「……何をした」
「寝てもらっただけ」
ダガルはブロムリーから手を離した。
アルサムはブロムリーの胸が上下しているのを確かめると、ダガルへ向き直った。
「被告の関係者か」
「少し違うかな」
「ならば、これが王国の司法への妨害だと理解した上でやっているのだな」
「うん」
あまりにあっさりした返事に、アルサムが言葉を失った。
男が扉のそばから口を挟む。
「念のため、そいつも眠らせておけ」
アルサムの目が細くなった。
「私まで眠らせれば、明日の審理が止まると思っているのか」
「そのつもりなんだけど」
「随分と乱暴な手を使うものだ」
「自覚はあるよ」
ダガルは小さく息を吐いた。
「ごめんね」
アルサムは逃げなかった。
「君が何を企んでいるか知らないが、審理を一日遅らせたところで判決は変わらんぞ」
「それでいいんだ」
「何?」
「変えたいのは判決じゃないから」
「何を――」
アルサムが問い返したときには、ダガルはもう目の前にいた。
額に右手が触れる。
アルサムは崩れるように椅子へ沈み、それきり動かなくなった。
ダガルは二人を見下ろした。
「これでよし。丸一日は起きないと思う」
「必要だったとはいえ、これで城内は大騒ぎだな」
「そこから先はキミの出番。
頼むよ、ガーズィ」
「……やれやれ」
ガーズィは眠る二人を見た。
「急病ということにしておこう。明日の審理は中止だ。再開は早くても明後日になる」
「助かるよ」
「書状が予定通り届けば、間に合うはずだ」
「届けばね」
「……ダガル。
まだ何か心配なのか?」
「配達途中で何が起きるか分からないからね」
「その場合は?」
ダガルは肩をすくめた。
「別の手を考えるよ」
「……ずいぶん慎重だな」
「そうかな?」
扉へ向かいかけて、ガーズィが足を止めた。
「母親を助けられなかったこと、気にしてるのか」
「まあね」
「あの時点では、どうにもできなかっただろう」
「そうなんだけど」
ダガルは眠っている判事たちを見た。
「……せめて、あの子だけは間に合わせたいね」




