謎の男
ペンドルで拘束されてから、二日が経った。
エレナは昨日、ランカスター城へ連れてこられた。
重厚な城門をくぐり、石段を下りて、井戸塔の地下牢に押し込まれた。それからずっと、湿った石壁に囲まれている。
夜になっても、地下牢は蒸し暑かった。
エレナは膝を抱え、壁にもたれていた。
石壁は湿気を含み、背中に触れる服までじっとりと濡れている。腰を下ろした石床からは、湿った冷たさが伝わってきた。
目の奥がひどく熱を持っていた。無理に鼻をすすり上げようとすると、擦り切れたような喉の奥が焼けるようにひりついた。
手首に食い込む鉄の枷が汗でべたつく。少し身体を動かすたび、鎖が石床を擦って音を立てた。
目を閉じれば、父の血に濡れた手と、母の最後の声が浮かぶ。それを振り払おうとすると、今度は別の記憶が出てきた。
『食事にしましょう』
つい二日前まで、毎日聞いていた声だった。
エレナは膝に顔を埋めた。
「……返してや」
もう何度泣いたか分からない。それなのに、また涙が溢れてきた。
「ウチら、何もしてへんやろ……」
頬を伝った涙が、膝の上に落ちた。
エレナは、手枷の鎖をきつく握りしめた。
その瞬間、無風のはずの地下牢で、通路の松明が大きく揺れた。
見えない風が鉄格子を抜け、通路に並ぶ炎をなぎ倒すように傾かせる。
通りかかった看守が足を止め、松明と鉄格子の中を交互に見た。
エレナは気づかない。
「魔女、魔女って……うるさいねん。くそっ」
握った鎖が震えるにつれ、炎もさらに大きく傾いた。
「何が魔女裁判や。何が悪魔や……」
やがてエレナが力なく俯くと、松明も少しずつ元へ戻っていった。
どれほど経ったのか分からない。
通路の向こうで、看守たちが話していた。
「裁判はいつだ?」
「四日後だ。役人が証言を集めてる」
「あれだけ大勢が見てたのに?」
「死人が二人、怪我人も出てる。
出来るだけ沢山集める必要があるんじゃないか」
足音が遠ざかる。
(……四日後)
膝に埋めていた顔が、わずかに持ち上がる。
魔女裁判がどんなものかは、もう見ている。しかも自分の場合は、風も火も大勢に見られていた。
「……どうしたらええねん」
夜はなかなか明けなかった。
それから何度、姿勢を変えたか分からない。
横になっても眠れず、起き上がって壁にもたれる。じっとしていられなくなって立ち上がっても、二歩も進めば足の鎖が張った。
また座る。
しばらくすると、また立つ。
石段の上から差し込む光が、少しずつ明るくなっていた。
水の入った木椀が一度、格子の下から押し込まれた。エレナは手をつけなかった。
通路の松明も、いつの間にか新しいものに替わっていた。
エレナは壁際に座り、赤く腫れた手首をぼんやり見ていた。
そのとき、通路の向こうで何かが倒れる音がした。
エレナは息を止め、通路の暗がりへ耳を澄ませた。
少しして、もう一度。
今度は近かった。
続いて靴音が聞こえてくる。
看守とは違う。
足音は迷うことなくこちらへ近づき、やがて朝の光が届かない通路の奥から、腰に短い剣を差した一人の若い男が姿を現した。
男は途中で倒れていた看守のそばにしゃがみ、看守の腰から鍵束を外した。そのまま何事もなかったように歩いてくる。
エレナは壁に背をつけた。
「……あんた、誰や」
男は鉄格子の前で立ち止まった。
「ダガル・スミス」
「名前やなくて」
「ああ。そっちか」
ダガルは鍵束を確かめ始めた。
「何しに来たん」
「キミを助けに来た」
「……は?」
錠前に鍵が差し込まれる。
「ちょっと待って。たぶんこれじゃない。えっと、こっちかな」
「待てや。あんた、何者やねん」
「それは出てからでも話せるよ」
「出るなんて言うてへん!」
ダガルの手が止まった。
「そうなの?」
「そうなのって……」
エレナは通路の向こうへ目を向けた。
「看守、どうしたん」
「眠ってる」
「寝てるようには見えへんかったけど」
「よく眠ってるだけだよ」
ダガルが別の鍵を試すと、今度は錠が回った。
乾いた音とともに鉄格子が開く。
エレナはすぐには動かなかった。
「……なんでウチなん?」
ダガルは格子を押し開けたまま、答えた。
「キミだからだよ。エレナ・クロウリー。
ソフィア・クロウリーの娘」
エレナの顔が強張った。
「なんで……ウチのこと知ってんの」
「前から存在は知ってた。ボクが探してたのは、キミのお母さんと、その娘だから」
「……ウチも?」
「うん」
「なんでや」
「お母さんが魔法を使えることを知っていた。それに、クロウリー家については以前から調べてた」
エレナが立ち上がろうとして、足枷の鎖が鳴る。
「ウチが魔法使えるんも知ってたん?」
「いや。そこまでは知らなかった。
十五歳で風と火まで使えるとは思わなかったよ」
「ほな、なんでウチまで探してたん」
一瞬、ダガルが黙る。
「血の繋がった家族だから」
「それだけ?」
「今は、それでいい」
「なんやそれ」
「今ここで話すことじゃない」
「もやっとするな」
ダガルは困ったように頭を掻いた。
「キミたちは何度も住む場所を変えてた。
で、ようやく見つけた日に、あの騒ぎだった」
ダガルは、そこで初めて笑みを消した。
「急いで来た。でも、間に合わなかった」
エレナは黙った。
「……何しに来るつもりやったん」
「三人とも、安全なところへ連れ出すつもりだった」
「お父ちゃんも?」
「もちろん」
エレナの唇が震えた。
「……遅い、やん」
「そうだね」
「もう、お父ちゃんもお母ちゃんもおらんし……」
エレナは再び膝に顔を埋める。
ダガルは何も言わず、その場にしゃがんだ。
しばらくして、エレナが顔を上げた。
「……ほな、今さら何しに来たん」
「キミまでここで死なせる理由がないから」
ダガルは言いながら足枷へ鍵を差し込んだ。
「時間が無い。詳しい話は、ここを出てからするよ」
「……嫌や」
鍵を持つ手が止まった。
「嫌?」
「逃げたら、ウチが魔女やったって認めるようなもんやろ」
「そんなもの、気にしなくてもいい」
「よくない」
エレナはダガルを見上げた。
「お父ちゃんも、お母ちゃんも、何も悪いことしてへんのに――」
掠れかけた声を、エレナは無理やり絞り出した。
「なのに……。
それでウチだけ逃げて終わりなんて、できるか」
ダガルは虚を突かれたように、言葉を失った。
「それに逃げたって、どうせ追ってくるんやろ?」
「それは追うだろうね」
「ほら」
「追ってこられない場所ならあるよ」
「そんなとこあるん?」
「ある」
「……あんたのとこ?」
「ボク一人の場所じゃないけどね」
「他にもおるん?」
「いるよ。キミみたいなのもね」
「なんや。ほんまに何者やねん」
「それを話すと長くなる」
「さっきからそればっかりやな」
「キミも大概だと思うけど」
「何がや」
「逃げられると言ってるのに、逃げようとしない」
エレナは少し黙った。
「……ウチな。外で魔法使うなって、何回も言われとってん」
「ご両親に?」
エレナは、小さく顎を引いた。
「せやのに……、使った」
ダガルは何も言わない。
「それで、こうなった」
エレナは自分の掌に目を落とした。
手枷の鎖がじゃらりと鳴った。
「……せやから、このまま逃げて終わりにはしたない」
「何をするつもり?」
「分からへん」
少し間を置いて、エレナは続けた。
「でも、このままやられっぱなしも嫌や」
ダガルはしばらく黙っていたが、やがて鍵束を下ろした。
「分かった」
「……ええん?」
「嫌だって言ってるのを、無理に連れていく気はないよ」
「……そんなんでええん?」
「まあ、強引なことを嫌がる人もいるからね」
「誰やそれ」
「そのうち会えるよ」
ダガルは牢の外へ出た。
「ダガル」
呼び止められ、振り返る。
「どないするつもり?」
「キミを助けるのは変わらない」
「……気持ちだけもらっとく」
「そう言わないで」
ダガルは格子を閉め、鍵をかけた。
「裁判の後が問題。でも、間に合わせるよ」
「……何する気やねん」
「それはボクの仕事」
ダガルはそのまま通路を歩いていった。
しばらくして、倒れていた看守のそばで鍵束が小さく鳴った。




