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崩れた日常

「起きてや」


 風が吹いた。

 最初は、エレナの髪を揺らす程度だった。


「エレナ」


 ソフィアの指が、エレナの肩を強く掴んだ。


「こっちを見なさい」


「お父ちゃんが……」


「分かってる」


「死んだん?」


 ソフィアは答えられなかった。

 それでも娘の肩から手を離さなかった。


「エレナ。お願い。今は私を見て」


「なんで……」


 風が強くなる。


「なんでお父ちゃんが死ななあかんの!」


 土埃が舞い上がる。


「エレナ!」


「何もしてへんやん! お父ちゃん、何もしてへんかったやん!」


 ソフィアは一瞬、固く目を瞑り、娘の身体を引き寄せようとした。

 だが、エレナの周囲で風が渦を巻いた。


「そんなん――」


 役人たちが腕で顔を覆う。

 槍を持った兵士の一人が吹き飛ばされ、地面を転がった。

 先ほどエレナを槍の柄で突いた兵士だった。


「魔女……」


 誰かが呟いた。


「本物の魔女だ!」

「悪魔の力だ!」

「目を合わせるな!」


 それまで家の前を取り囲んでいた人々が、一斉に後ずさった。

 子供の手を引いて走り出す者もいる。


 胸元で手を組み、ぶつぶつと祈り始める女もいた。


 若い兵士は起き上がり、槍を拾った。


「ほ、本当に……魔女じゃないか!」


「槍を下ろせ!」


 もう一人の年嵩の兵士が叫んだ。


「刺激するな! 何をするか分からん!」


 だが男は槍を構えたまま、エレナから目を離さない。


 風で木の枝が大きくしなり、屋根の一部が軋んだ。


「こここの悪魔め……そこで止まれ!」


「近づけるな!」


 人垣のどこかから声が飛んだ。


「また風を起こすぞ!」


 若い兵士が槍先をエレナへ向けた。


「下ろせと言っているだろ!」


 怒声に、エレナの顔がそちらを向いた。 


「槍を下ろせ!」


 若い兵士の槍が前に動いた。

 恐怖に顔を引きつらせたまま、彼は穂先を突き出した。


「エレナ!」


 ソフィアは娘の前へ飛び出した。

 エレナの肩を掴み、力いっぱい横へ突き飛ばす。

 入れ替わるように、ソフィアの身体が槍の前へ出た。


「お母ちゃ――」

 

 エレナは突き飛ばされた勢いのまま、地面へ転がった。


 その直後。

 音は、思っていたよりもずっと小さかった。


 振り返ったエレナの目に、動きを止めた母の姿が映った。

 胸元から、槍の穂先が覗いていた。


「……え」


 若い兵士の喉から、ひきつった声が漏れた。

 ソフィア自身も、何が起きたのか分からないように自分の胸元を見下ろしていた。


「……お母ちゃん?」


 風が止まった。


 突然だった。


 大きくしなっていた木の枝が戻り、舞い上がっていた土埃だけが、ゆっくりと地面へ落ちていく。


 兵士が槍から手を離した。


「違う……俺は……」


 もう一人の兵士が男を突き飛ばした。


「馬鹿野郎!」


 ソフィアの身体が傾く。


「お母ちゃん!」


 エレナが地面を蹴って駆け寄り、倒れ込む母を抱き留めた。


「お母ちゃん。なあ、お母ちゃん!」


 ソフィアの呼吸は浅かった。

 それでも、その目は娘の顔を探した。


「エレナ……」


「うん。ここにおる。ウチ、ここにおるから」


 ソフィアの手が、ゆっくりと持ち上がった。


 震える指先が、エレナの頬に触れる。

 頬についた土を、親指がそっと拭った。


 ソフィアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 その手が、エレナの頬から滑り落ちた。


「……お母ちゃん?」


 返事はない。


「お母ちゃん」


 エレナは母の手を握った。


「なあ」


 すぐそばには父が倒れている。

 腕の中には母がいる。

 ほんの少し前まで、三人でこの家を出ようとしていた。


「……いや」


 母の身体を抱く腕に力が籠もる。


「いやや……」


 エレナの声が裏返った。


「いやああああああ!!」


 若い兵士が後ずさった。


「違う。事故だ。俺は――」


 エレナの周囲で風が巻き始めた。

 今度は先ほどとは比べものにならなかった。


「エレナ!」


 冷静だった兵士が叫ぶ。


「やめろ!

 これ以上やったら――」


 爆発するように風が広がった。

 兵士も役人も地面へ投げ出される。


 窓が割れ、屋根材が吹き飛んだ。


「逃げろ!」

「呪われるぞ!」


 人垣が崩れた。

 悲鳴を上げながら、人々が我先にと逃げ出す。


 エレナの頬を、涙が伝っていた。

 呼吸は乱れ、肩が震えている。


「返して……」


 エレナの身体が震えた。


 次の瞬間、堪えていた何かが弾けたように大きく仰け反る。

 涙を散らしながら、両腕を天へ突き上げた。


「お父ちゃんと、お母ちゃん返してや!」


 叫びとともに上体を振り下ろし、両の拳を地面へ叩きつける。


 暴風に混じって、橙色の炎が走る。

 地面を舐めた火が一気に広がり、兵士たちが慌てて距離を取った。


 年嵩の兵士は起き上がると、槍には目もくれず、エレナに向き直った。


「やめろ……」


 声を張る。


「もうやめないか!」


 その声は、もうエレナに届いていなかった。

 炎が大きくなる。


 だが次の瞬間、その身体がふらついた。

 冷たい躯と化した父と母の姿が目に入った。


「——っ!!」


 風が途切れていく。

 エレナの腕が落ち、残っていた膝も地面に崩れた。 


 息を吸おうとしても、肺に空気が入らない。

 足から急速に力が抜け、視界が白く明滅した。


 それでも立ち上がろうとした。


 年嵩の兵士がゆっくりと歩み寄る。

 エレナは、せめて目だけで抗うように睨み上げた。


「く……、来るな!」


 兵士は足を止めた。

 エレナは右手を上げようとしたが、鉛のように動かない。


「う……ぅ!?」


 もう、風は起きなかった。

 エレナの腕が落ち、そのまま膝をついたままだった。


「今だ!」


 役人が叫ぶと、年嵩の兵士がエレナの腕を取った。

 その手つきは、どこか慎重だった。


「拘束しろ」


 兵士は一瞬だけ、地面に倒れたルークとソフィアを見た。

 そしてエレナの両手に枷をはめた。


 エレナは連れていかれるまで、父と母から目を離さなかった。

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