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狂気を孕んだ空気

 八月十八日。


 ランカスター城の法廷には、朝から湿った空気が籠もっていた。

 分厚い石壁に囲まれた室内は風通しが悪く、傍聴人たちの熱気も加わって、じっとしていても額に汗が滲むほどだった。


「以前、あの女と口論になりました」


 証言台に立った男が、被告席を指した。


「その翌朝、飼っていた牛が死んでいたんです」


「病気では?」


 判事が短く問うた。


「前の日まで元気でした」


 それだけだった。

 それでも書記は何かを書き留め、次の証人が呼ばれた。


 九歳ほどの少女までもが証人に呼ばれた。

 小さな体が皆に見えるよう、卓の上に立たされる。

 その口から言葉がこぼれるたび、またペンが走った。


 ルークは膝の上で手を組み直した。


(何なんや……この空気は)


 家畜が死んだ。

 夢に出た。

 口論のあとで病人が出た。

 失踪した子供が、その前に彼女と話していた。


 午前のうちだけで、似たような話をいくつ聞いたか分からない。

 被告は次々と入れ替わった。

 

 その中に、ルークが見覚えのある顔もあった。

 数日前、収監された者たちのために祈りを捧げに城を訪れた折、短く言葉を交わした女だ。


 少なくともルークには、温厚で、悪意を抱いて人を害するような女には見えなかった。

 女が何かを否定するたび、新しい証言が出てきた。


「そんなこと、してません」


 何度目かの否定だった。

 声はもう掠れている。


 それでも裁判は止まらず、やがて判決が読み上げられた。


「待ってください……!」


 女の唇が震えた。


「こんなのおかしい。私は何もしてません」


 衛兵が強引に彼女の腕を取る。


「違います。私は――」


 腕を引かれた拍子に、女の目が傍聴席をさまよい――ルークのところで止まった。


「牧師様……」


 ルークが返す言葉を探しているうちに、女の姿は扉の向こうへ消えた。

 重い音を立てて扉が閉まる。


 ルークは半ば腰を浮かせたまま、しばらく動かなかった。



---


 八月二十日。


 十人が絞首台へ送られた。

 あの日、法廷で名を呼ばれた女も、その中にいた。


 ランカスター城で開かれた魔女とされた人々の裁判は、後に、ペンドル魔女裁判と呼ばれることになる。


---


 その夜。


 ルークは食卓でエールを飲み干し、空になった杯へジャグでもう一度注いだ。


「あなた」


 ソフィアが声をかける。


「分かっとる」


「さっきもそう言ったじゃない」


 ルークはジャグを置いた。


「あんなもん、裁判ちゃう」


 向かいでパンをちぎっていたエレナの手が止まる。


「最初から決まっとったんや。あいつらが魔女やって。病気になった、牛が死んだ、夢に出てきた。そんな話ばっかりや」


「お父ちゃん」


「なんや」


「その人ら、ほんまに人を呪ったん?」


 ルークは一瞬言葉を詰まらせた。


「……分からん」


「悪魔と契約したん?」


「それも分からん」


「ほな、なんで処刑されたん?」


 ルークは杯の底に目を落としたまま、しばらく黙っていた。


「……罪があるか確かめたんやない。罪があることにされたんや」


 エレナは黙った。


「いやそれよりもや」


 杯の縁が、かすかに揺れた。


「……あの場におった連中が、一つの生き物になったみたいやった」


「一つの生き物……?」


 ルークは答えず、再び杯を手に取った。


「あなた、もうその辺にして」


 ソフィアがジャグを自分の方へ引き寄せた。


「……分かっとる」


「本当に?」


「分かっとる言うとるやろ」


 ルークは杯を置き、椅子から立ち上がった。


「先に休むわ」


 隣の部屋へ向かう父の背中を、エレナは黙って見送った。


 いつもは頼もしいその背中が、エレナには妙に小さく見えた。


---


 数日後。


 エレナはソフィアと買い物を済ませ、昼前の道を歩いていた。

 空には雲がほとんどなく、照りつける日差しに、道端の草までぐったりと垂れていた。

 

 少し前を、幼い子の手を引いた女が歩いていた。

 その子が振り向いて、エレナに小さな手を振る。

 エレナも笑って振り返した。


 荷車が行き交い、道端では何人かの女たちが立ち話をしている。ソフィアの腕には、買ったものを入れた籠が提げられていた。


「お母ちゃん、それウチが持つわ」


「平気よ」


「重いやろ」


「じゃあ、お願いしようかしら」


 エレナが籠を受け取った、そのときだった。

 少し先で馬が大きくいなないた。


 木材を積んだ荷馬車の車輪が深い轍にはまり、傾いた荷台から軋む音がする。馬が暴れた拍子に、荷を縛っていた縄が弾けた。


「危ない!」


 積み上げられていた木材が崩れた。


 その先に、先ほどの幼い子供がいる。

 子供はまだエレナの方を向いていた。


 母親の悲鳴が上がった。


 エレナは咄嗟に籠を放り出し、子供へ向かって右手を伸ばした。


 次の瞬間、反動でエレナの上体が大きくのけ反り――道を横切って、猛烈な突風が吹き抜けた。


 周囲の人々が風に煽られ、悲鳴を上げる。


 舞い上がった土埃の向こうで、木材の落下方向が変わった。

 木材はまとめて、子供のすぐ脇へ叩きつけられた。轟音に驚いたその子は尻餅をつき、火がついたように泣き出した。


「大丈夫!?」


 ソフィアが真っ先に駆け寄った。

 母親も子供を抱き上げ、腕や足を確かめる。


「怪我は?」


「擦っただけみたいです。ああ、よかった……」


 周囲からも安堵の声が上がった。

 エレナも近づこうとしたが、道の向こうから男の声が飛んできた。


「今の風は何だ」


 見覚えのない男だった。大きな荷を背負っており、この辺りを回っている行商人らしい。


 男の目は、エレナの右手に向いていた。

 エレナはそっと腕を下ろした。


「……怪しいぞ!」


 行商人がエレナへ歩み寄ろうとした、その時だった。


 別の風が吹いた。


 先ほどよりも弱い。だが、ソフィアの足元の土埃が舞い上がり、地面に落ちていた細い枝まで転がった。


 ソフィアは手を下ろし、エレナの前に出る。

 行商人の目が、エレナからソフィアへ移った。


「お前……今!」


「何のことでしょう」


「見たぞ。手を上げた途端に風が吹いた」


 近くにいた女が眉をひそめた。


「風くらい吹くだろう」


「じゃあ、さっきのもか?」


 行商人が木材を指す。


「落ちる寸前に急に向きが変わった。今のも同じだ」


「子供が助かったんだ。何を騒いでる」


 別の男がそう言ったが、少し離れたところから別の声が上がった。


「いや、俺も見た」


 人々の話し声が途切れた。


「あの女が手を上げたら、また風が吹いた」


「偶然じゃないのか?」


「二度続けてか?」


 低い声が重なった。

 いくつもの目が、一斉にソフィアへ集まった。


「この女、魔女じゃないのか」


 ソフィアはエレナを背に庇うように、黙って立っていた。


 幼児を抱いた母親が、子供を胸元へ引き寄せると、そのまま一歩、ソフィアから離れた。

 エレナは怯えたように辺りを見回し、母の袖を掴んだ。


「お母ちゃん――」


「……帰るわよ」


 ソフィアは目だけで、地面に転がった籠を示した。

 エレナは続きを言わず、籠を拾った。


 二人がその場を離れても、後ろから呼び止める声はなかった。

 しばらく歩いたところで、エレナは何度か母の横顔を窺った。


「……お母ちゃん」


「なに?」


「さっきの、ウチが――」


「違うわ」


 ソフィアは足を止めなかった。


「でも」


「違うの」


 少しだけ強い母の声に、エレナは思わず黙る。

 ソフィアは前を向いたまま、声を落として続けた。


「家に帰ったら、お父さんには私から話すわ」


 エレナは手にした籠を強く握った。


---


 その日の夕暮れ。


 騒ぎがあった通りに、腰に短めの剣を差した男が現れた。

 男は道端に積まれた木材に目を向けると、しばらくその場に立ち尽くしていた。

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