教会の審問官が、手順書を異端だと言った
聖光教会 審問局。白い石の部屋。
呼び出しの翌朝、俺たち3人は壁際に並んで立たされていた。
白い石の部屋は息を吸うと鼻の奥がつんと冷えた。
窓がないのに明るいのは、壁そのものが薄く光っているせいだろう。
魔法の灯りか何かだ。
照明の工程までは、まだ手順書に起こしていない。
俺は壁際に立ったままポケットの中で手帳の端を親指で押さえていた。
向こうに入って、今日で4日目だ。
地球ではまだ1時間ほどしか経っていない。
今日の夕方には、いったん物置に戻る予定だった。
だから、なるべく早く帰りたい。
隣のルカはさっきから喉だけを2回鳴らした。
セレスティアさんは背筋を伸ばし、指先を組んで顔は正面の空っぽの机に向けている。
部屋の奥の扉が開いた。
足音は革靴の底が石を打つ短い音だった。
白い法衣の胸元で、銀の聖印が揺れている。
灰色の髪は油でも引いたようにきっちり撫でつけてあり、白い壁に映えて輪郭だけがやけにくっきり見える。
審問官グレゴール。
薄い唇はまだ開いていない。
机の向こうに立ったまま俺たちを順に見た。
ルカの煤けた靴、セレスティアさんのインクの染みた袖、俺の軍手の跡が残る手の甲。
俺は軽く頭を下げた。
下げるだけで怒られなければ、それが一番安い。
ルカが横で、ごくりと唾を飲む音がした。
グレゴールは机の前に立ったまま、手にした紙を広げた。
教官が報告書に添えた写しだ。
『《着火》作業手順書 第2版』と題が付いている。
「魔法は、神が才ある者に授けたもうたもの」
声は思ったより低く、部屋の壁にそのまま吸われるように響いた。
「それを紙に写し、誰にでも配る。それは神の選別を否定する行いである」
「この手順書は異端の書である」
グレゴールの指が、紙の上の絵をなぞる。
「才なき者に火を持たせれば、事故が増える。汝はその責を負えるか」
薄い唇が最後だけわずかに吊り上がった。
問いだ。
答えを求めている形をしているが、答えの入る場所は最初から用意されていない。
こういう質問は工場の監査にもあった。
答えた瞬間に、こちらの工程の欠陥として記録される。
だからまだ、答えない。
セレスティアさんの指が、俺の袖を引いた。
強くはない。
隠すような、小さく速い動きだった。
「黙っていなさい」
声はかすれた。
早口の一歩手前で、彼女は唇を結ぶ。
俺は下げていた頭をほんの少しだけ上げた。
「事故は、手順書がないから増えるんです」
声は張らなかった。
審問局の石の壁は、小さな声でもよく通る。
「手順書があれば、どこで何を間違えたか記録が残ります。次に同じ場所で止まれます。事故は、その分だけ減ります」
グレゴールの指が、紙の角で止まった。
「才の有無は関係ありません。手順の有無です」
セレスティアさんが袖を引いていた指を、少しだけ緩めた。
「一点、確認させてください」
「……何であるか」
「ヒヤリハットの記録は取っていますか」
「ヒヤリ、ハット」
グレゴールが単語を繰り返した。
発音が少し遅れた。
「ヒヤリとした、ハッとした、という意味です。けがには至らなかったが、危なかった事例のことです。記録に残しておくと、次に同じことが起きる前に手を打てます」
「……そのようなものは、ない」
「では、才ある者の事故は減っていない、という前提でよろしいですか」
グレゴールの薄い唇が一度開いて、閉じた。
セレスティアさんが、組んでいた指をわずかに組み直した。
彼女の呼吸がいつもの速さに戻っていく。
引く気配はない。
石の部屋の空気が、そのまま動かなくなった。
「手順書は没収する」
低い声だった。
怒鳴るでもなく、説教するでもない。
確定した事項を読み上げる声だ。
「異端の書は、教会が管理する。この写しはここに。他の写しは全て回収する」
俺は黙っていた。
ルカが横で息を止めている。
「そして、見習いルカ」
グレゴールの目が初めてルカの方へ動いた。
14歳の、煤の残った指と擦り切れた袖口を、頭のてっぺんから爪先まで一度で数える動きだった。
「汝は学院から除籍とする」
ルカの爪先が石床の上で止まった。
口が半分だけ開いて、そのまま閉じない。
除籍になれば、学院には戻れない。
手順書を覚えたら、その手順書が異端になった。
だから、ルカのやったことは無かったことになる。
セレスティアさんが一歩前に出た。
彼女は背筋を伸ばしたまま、俺とルカを背に庇う位置へ立った。
「この者は、わたくしの弟子です」
声は静かだった。
いつもの理屈っぽい調子ではない。
もっと低く、芯だけを通した声だ。
袖口のインクの染みが、わずかに震えている。
両手を体の前に揃えて、グレゴールを正面から見ていた。
俺は黙っていた。
いつもなら「見学者です」と訂正するところだ。
今回は訂正しなかった。
彼女の背中は思っていたより細い。
それでも、真っ直ぐ立っていた。
グレゴールは答えない。
薄い唇を閉じたまま、セレスティアさんの顔をじっと見下ろしている。
セレスティアさんの声が、石の壁に当たって跳ね返る。
「弟子の教育に、教会が口を挟むのですか」
「わたくしは宮廷魔導師長です。王都の魔法を預かる者です。そのわたくしが、王都の魔導師をどう育てるかは、審問局の指図を受けません」
ルカが俺の袖を掴んだ。
指先が冷たい。
俺は動かなかった。
グレゴールはまだ、何も言わない。
グレゴールはセレスティアさんから視線を外した。
「ルカは学院の籍にある」
「学院は王の名のもとにあり、審問局の一存では動かせぬ」
「ゆえに、ルカの除籍は保留とする」
ルカの喉が今度は音を立てた。
「審問局の決定は王の裁可を経て確定する。王が動かぬ限り、汝の籍は学院にある」
「ただし」
「手順書の件は、別である」
グレゴールの右手が机の端へ伸びる。
指の先に、木の箱があった。
蓋は開いている。
内側に赤い布が敷いてある。
聖印を入れるための箱だ。
手順書を入れるための箱ではない。
入れろと言っている。
「汝が持っている分も、である」
俺のポケットの中の手帳を、グレゴールの目が一瞬だけ見た。
持っていて当然、という目だった。
俺は手帳を出した。
親指でページを繰る。
魔石の在庫、工程の写し、棒グラフの下書き、異物混入の1行。
その中の1枚で止める。
『《着火》作業手順書 第2版 控え』
俺はそのページの端を親指と人差し指で挟んだ。
ゆっくり引くと綴じ目に沿って、まっすぐに破れた。
俺は破ったページの端をそろえてから、木の箱の上へ持っていった。
赤い布の上に、ゆっくり落とす。
紙は布に触れると、音もなく沈んだ。
箱の底にはすでに何枚かの紙が入っていた。
教会が今までに集めた分だろう。
俺のページが一番上に重なった拍子に、束の端が浮いた。
そのうちの1枚が布の滑りに乗って、箱の縁を越えた。
紙は机の足元から部屋の隅へ、床を滑って止まった。
俺は紙を目で追った。
追った先に、人影があった。
部屋の隅の壁際に、少女が1人立っていた。
白い壁と白い法衣が同じ色で、輪郭が溶けていた。
栗色の髪を後ろでひとつに結んでいる。
結び目はきつく、ほつれた毛が1本も出ていない。
灰色の瞳が大きい。
見習いの白い法衣を着ている。
胸元の聖印はグレゴールの銀ではなく鈍い錫だった。
少女は動かなかった。
俺と目が合った。
合った、というより、合っていた。
俺が紙を追う前から、たぶんずっとこちらを見ていた。
少女は何も言わなかった。
ただ、灰色の瞳だけが、俺の顔から床の紙へ一度だけ動いた。
そして戻った。
紙は床にある。
俺は拾おうとした。
グレゴールの指が、机の上で一度だけ動いた。
「戻れ」
俺の手は止まった。
止めたまま、姿勢を戻す。
少女は動いた。
音がしなかった。
紙の手前で膝をつき、指先で紙の端を摘まむ。
摘まんだ紙を自分の袖の中へ入れた。
袖の内側が少し膨らんで、すぐに布の下で平らになった。
少女は立ち上がった。
俺は見ていた。
グレゴールは箱の中身を見ていた。
セレスティアさんは、グレゴールの顔を見ていた。
ルカは自分の靴の爪先を見ていた。
誰も、部屋の隅を見ていなかった。
グレゴールが口を開いた。
「この写しは教会で保管する。他の写しの回収は、追って通達する」
俺は頭を下げた。
下げた角度は最初と同じにした。
「承知しました」
俺は部屋を出るとき、扉の前で一度だけ振り返った。
在庫確認の癖だ。
出る前に、入ってきたときと同じかどうかを確かめる。
机の上は同じだった。
グレゴールの姿勢も、同じだった。
部屋の隅の少女だけが、入ってきたときと違っていた。
俺を見ていた。
灰色の瞳で、まっすぐに。
扉が閉まった。
◇
塔への帰り道はもう夕方の色だった。
石畳がオレンジに染まって、俺たちの影が前へ長く伸びている。
ルカは俺の半歩後ろを歩いていた。
俯いて、鼻を一度だけすすった。
セレスティアさんは前を歩いている。
ポケットの中の手帳は、1枚ぶん薄くなっている。
手の中にはもう何も持っていない。
手順書は箱の中だ。
「先生」
ルカが俺の袖を掴んだ。
声は掠れていた。
「おれ、除籍になったらもう魔法使えなくなるんすか」
「魔法は、使えます」
俺は前を向いたまま答えた。
「手順を覚えているなら、手順書がなくても再現できます」
ルカが立ち止まったのは、塔の影が石畳に落ちる手前だった。
俯いたまま、ローブの内側に手を入れる。
出てきたのは折り目のついた紙だった。
「先生の手順書、みんなで写したっす」
ルカの声は掠れていて、でも最後まで途切れなかった。
紙を両手で差し出す。
俺は受け取って、開いた。
『《着火》作業手順書 第2版』。
絵と数字が5つ、順番に並んでいる。
線は震えていて、数字の「4」がつぶれている。
でも、工程の順番は合っている。
絵の指の折り方も、壁の位置も間違っていない。
「これは、ルカさんが書いたんですか」
「絵と数字なら、おれでも写せるっす。先生のを見て、1枚ずつ」
ルカは顔を上げない。
「学院の、見習いの。おれの班の。19人」
声がそこで一度止まった。
「みんな、手順書がほしいって。おれ持ってたから。写して、あげたっす。おれの分と合わせて、20部っす」
セレスティアさんの足音が、後ろで止まった。
字が読めないルカが、絵と数字だけを頼りに、19枚。
「写し間違いがないか、確認します」
俺は紙を折り目に沿って、丁寧に折り直した。
「おこらないんすか」
ルカが初めて顔を上げた。
目が赤い。
「叱りません。写しは原本と同じ内容なら、不良ではありません」
「でも、教会が、異端だって」
「教会の検査基準が、まだこの手順書を受け付けていないだけです」
俺は折り終えた紙を、ルカの手に戻した。
セレスティアさんが、俺の横に並んだ。
彼女はルカの手元をじっと見ていた。
それから、自分の袖口に目を落とした。
紺のローブの袖口に染みついたインクの跡。
古いものと新しいものが重なって、黒っぽいまだらになっている。
彼女の唇がわずかに開いた。
「ルカ」
言いかけて、止まった。
開きかけた唇がそのまま結ばれる。
何を言おうとしたのかは分からない。
塔へ向かう途中、遠くの鐘が鳴りはじめた。
警鐘だ。
城壁の物見台から、兵士の叫び声が石畳を転がってくる。
「魔物の群れだ!東の森から……数、500以上!」
夕方の空がひときわ低く見えた。
セレスティアさんが足を止めて、城壁の方へ顔を向けた。
ルカが袖を掴む指に、ぎゅうと力を込めた。
俺は西に傾いた陽の高さを確かめた。
今夜は、帰れそうにない。
定時までに片付くだろうか。




