魔物500匹が来たので、見習い20人に手順書どおり結界を張らせた
向こうの、3か月目の4日目の夜。
東の城壁の上は、松明の煙と鉄の匂いがした。
俺は胸壁の石に手をついて、数を数えていた。
城壁の外は暗い草原で、松明の灯りが届く範囲だけ地面が見える。
その先は黒い。
黒の中で、点が動いていた。
点はどんどん増える。
増える速さが、生産ラインの初動に似ていた。
始まるときはゆっくりで、流れ出すと一気に来る。
先頭は白い。
一角兎だ。
小さい肩の高さで角を前に向けて、まっすぐ走ってくる。
あの角は刺さると抜けない。森で丸太に刺さったのが仕様なら、城壁に刺さっても仕様だ。
問題は数だ。
先頭の群れだけで100匹は超えている。
後ろに灰色が見える。
森狼だ。
一番後ろに、黒い塊が動いている。
牛ほどの大きさがある。
大猪だ。
東の城壁の全長は1,200mある。
「宮廷魔導師長」
背後から駆けてきた足音は革靴で、セレスティアさんのものではなかった。
紺のローブを着た男が1人、セレスティアさんの前に立つ。続いて2人、3人。
宮廷魔導師だ。
集まったのは、12人だった。
「これで全てですか」
セレスティアさんの声は低い。
「あとの者は西と南に配置済みです。東は手薄になることを報告してありました」
先頭の男が答える声は硬い。
報告してあった、と言い切ったところを見ると、報告はして聞いてもらえなかったのだろう。
「1人50m。12人で600m。残りは、600mです」
セレスティアさんの声が速くなった。
「配置に移りなさい。北側から詰めて、南の600mを空ける」
「南を空けるのですか」
「北側に市街地があります。北から覆いなさい」
12人が城壁の上に並んでいく。
1人が1枚ずつ、上級《結界》を張る。
半透明の板が城壁の外側に立ち上がって、胸壁より上まで届いた。
空いた600mの城壁には、俺とルカとセレスティアさんと兵士が数人いるだけだ。
俺は手帳に1行書いた。
「1人50m×12人=600m。残り600m。1時間で魔力切れ」
1時間後に12人は魔力が尽きて、結界はなくなる。
その間に次の交代要員は来るか。
来ない。
全員が別の城壁に張り付いている。
「冒険者風情の素人は下がっていろ」
声は右からだった。
宮廷魔導師の1人が俺の胸元を見ていた。
銅札が松明の光に照っている。
「ここは宮廷魔導師の持ち場だ」
俺は頭を下げた。
「承知しました」
下げた頭を戻して、足は動かさなかった。
宮廷魔導師は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
俺は手帳のページをめくった。
初級《結界》の板は、1枚で畳1枚ぶんしかない。
それに、ルカの班の19人は、まだ初級の魔法も使えない。
並べるだけでは、足りない。
俺は手帳を閉じた。
「先生、なんかいっぱい来てるっす」
ルカは胸壁の石にしがみついたまま、城壁の外を凝視している。
「はい」
「どうするんすか」
一角兎の先頭が、空いた600mの正面に向かってまっすぐ走ってきている。
まっすぐに、だ。
俺はルカの方を向いた。
「ルカさん」
「はいっす」
「19人を呼んでください」
ルカが城壁の石段を駆け下りていく。足音が遠ざかって石畳に溶けた。
俺はセレスティアさんの方を向いた。
「一点、お願いがあります」
「何です」
「上級《結界》を、一番遅い速さで1回張ってください」
セレスティアさんの視線が城壁の外から俺に移った。
眉がわずかに動く。隈の下の影が深くなった。
「一番遅い、とは」
「工程が見たいんです」
セレスティアさんの指が袖口のインクの染みを押さえた。
「感覚です。わたくしは感覚で——」
「工程に分けて見せてください。手を動かす順番が見たいんです」
セレスティアさんは城壁の外に向き直った。
両手を前に揃える。指先を組む。
呼吸が1回だけ深くなった。
セレスティアさんの指が解けた。右手が前に出る。掌を開く。
1。
手のひらの上で、空気が薄く歪む。
2。
左手が右手の上に重なる。指を交差させる。
3。
両手の指先が開く。小指、薬指、中指と、1本ずつ順に伸びていく。
4。
伸びた指先から半透明の板が立ち上がる。一気にではなく、指の本数に合わせて段階的に上がっていく。
5。
両手が離れて、もう一度組み直される。組み直した指先で板の端を掴む。
6。
掴んだ端を引く。板が横に広がる。
7。
広げた板の反対の端を左手で押さえる。
ここで呼吸が入った。
8。
両手を離して、手のひらで板の表面を押す。
半透明の板が城壁の外側に1枚、立ち上がった。
俺は石段の脇に膝をついて、手帳に鉛筆を走らせた。
工程は8つあった。
6番目と7番目で、板を広げて支えている。
広げて支える分だけ、かかる時間が長い。
魔力が多いのではなく、長いのだ。
8人で分ければ、1人が受け持つ長さは8分の1で済む。
俺は8つの工程の切れ目に、丸を付けた。
そのとき石段の下から足音が聞こえた。
ルカがいた。
後ろに、小さな影が並んでいる。
見習いの灰色のローブが、松明の明かりに浮いた。
19人だ。
全員が手順書の写しを握っている。
「戻りましたっす」
「時間がありませんので、先に段取りを配ります」
俺は手帳を開いて、上級《結界》の8つの工程を指で示した。
見習いたちの目が、俺の指の先に集まる。
字は読めなくても、指の動きは読める。
「1人で1枚を張ると、1時間で魔力が尽きます。だから、分けます」
「工程は8つです。8つを、8人で1つずつ持ちます」
「1番の人は手を出して魔力を集めるだけ。2番の人は手を重ねるだけ。3番の人は指を開くだけ」
「自分の工程が終わったら、隣に渡します。渡された人は次の工程だけをやります」
「魔石を配る係と、交代の時間を数える係も決めます。30分ごとに交代します。合図は俺が出します」
「30分で交代っすか」
「1回で切れるんじゃ」
「切れません。切れる前に交代します」
俺は腰の袋から魔石を取り出した。
3回点く大きさのものだ。手帳の在庫欄では48個ある。
1人に1個ずつ、まず8人に渡す。
セレスティアさんの指が、袖口のインクの染みを押さえた。
押さえた指が、少し震えている。
「そんな張り方、聞いたことがありません。結界は、1人が最後まで張るものです。途中で手を離したら——」
「離しません。渡すだけです。前の工程の状態を、次の人がそのまま受け取ります」
セレスティアさんは黙った。
黙ったが、目は俺の手帳の8つの丸を追っている。
「1番から8番、横一列に並んでください。間隔は腕1本ぶん」
灰色のローブが8人、胸壁に沿って並ぶ。
ルカが列の横に立って、俺の手帳を両手で広げた。
1番の見習いが右手を出した。
小さな手だ。指先が震えている。
震えているのは緊張で、魔力ではない。
この19人は、昨日まで火も点かなかった。
「1」
1番の掌の上で、空気が薄く歪んだ。
「2」
2番の見習いが、1番の掌の上に左手を重ねた。
指を交差させる。俺が手帳で示したとおりだ。
「3」
3番の見習いが指先を開く。
小指から1本ずつ。順番に。
「8」
8番の見習いが、手のひらで板の表面を押す。
板が、城壁の外側に1枚、立ち上がった。
半透明の幕が、胸壁の上まで届いている。
後ろで、宮廷魔導師の1人が息を飲んだ音がした。
「……張った」
「見習いが、上級を」
「1人でではない。8人だ」
「1枚目、立ち上がりました。次を渡します」
「待ちなさい」
セレスティアさんの声が速い。
「1枚張ったら終わりではないのですか」
「いいえ。50mぶん1枚です。600mを覆うには12枚いります」
「12枚」
「はい。8人1組で2組作ります。2組が交互に張ります。残りの4人は魔石を渡す係と、時間を数える係です」
20人。8と8と4。
「2組目は、ルカさんを1番にしてください」
ルカが背筋を伸ばした。
「おれが1番っすか」
「はい。ルカさんは手順書を一番見慣れています」
ルカは鼻を1回すすって、うなずいた。
「段取りは以上です。開始します」
「1」
ルカの掌が開いた。
ルカの手は震えていなかった。煤の残った指が、松明の明かりの中でまっすぐ伸びている。
5枚目が立ち上がったとき、宮廷魔導師の1人が振り返った。
「おい、あれ」
「見習いが上級を張っている」
「5枚も」
「いや、まだ増えてる」
6枚目が立ち上がった。7枚目。
12枚目。
「8」
8番の見習いが板の表面を押す。
12枚目が、宮廷魔導師の南端の板とつながった。
隙間はない。
北から南まで、1,200m。
セレスティアさんが、城壁の外を見たまま動かない。
紫の瞳が、北から南へと幕を追っている。
声は小さかった。
「宮廷魔導師12人で半分。見習い20人で、残りの半分」
城壁の外で、蹄の音が変わった。
一角兎の先頭が、見習いの張った板に向かって、まっすぐ走ってくる。
1匹目の角が、板に当たった。
硬い音がした。石に金属を打ちつけたような、乾いた音だ。
角は板に刺さらなかった。
弾かれた。
板の表面に、当たった衝撃が波のように広がる。
波は隣の板に伝わって、12枚の幕が一斉に揺れた。
揺れたが、裂けない。
◇
学院の教官は、宮廷魔導師の持ち場の後ろで、松明を握っていた。
教官は幕を見上げた。
薄い。
1時間前は城壁の胸壁より高い位置まで届いていた幕の上端が、今は胸壁の石と同じ高さまで下がっている。
切れかけだ。
幕の向こうで音が変わった。
一角兎の角が石に当たる音ではない。もっと低い。
腹に響く音が1回、2回、3回。
牛ほどの大きさの、肩の肉が盛り上がった影。
牙が松明の光に白く反射した。
大猪だ。
大猪の頭が、幕に当たった。
ひびが入った音は聞こえなかった。音ではなく振動が城壁の石を伝って、教官の背中に当たった。
幕の中央に亀裂が走る。
半透明の板に白い線が1本、上から下まで。
宮廷魔導師が倒れた。
1人ではない。2人目が膝から崩れる。
次の体当たりで割れる。
教官の喉が渇いた。松明の煙のせいではない。
胸壁沿いに足音が近づいてきた。
石を叩く足音は小さくて速い。革靴ではない。
見習いの足音だ。
灰色のローブが胸壁沿いに走ってきた。
先頭の影が小さい。
教官はその顔を知っている。落第班の、字もまともに読めない見習いだ。
ルカだ。
8人が壊れかけた幕の前に横一列に立った。
先頭の見習いが右手を出した。
掌を開く。指を伸ばしたまま。
小さな手だ。震えていない。
2番目の見習いが、1番の掌の上に左手を重ねた。
教官は見ていた。
松明の柄を握ったまま、動けなかった。
8番目が板の表面を掌で押す。
半透明の板が、壊れかけた幕の内側に1枚、立ち上がった。
板が立ち上がった瞬間、大猪の次の体当たりが届いた。
古い幕が裂ける音と、新しい板に牙が当たる音が同時に来た。
古い幕の破片が光って散る。新しい板は揺れた。揺れたが、立っている。
教官の手の中の松明が、いつの間にか消えていた。
風ではない。握る力が抜けたのだ。
先頭の見習いの掌が、まだ開いたままだ。
教官はその掌を見ていた。
字も読めない見習いの手だ。
教官が紙切れだと笑った手順書を握っていた手だ。
教官は、その手順書の結界の内側に立っていた。
◇
見習いの板は、30分ごとに張り替えた。
夜明け前。東の城壁の上は、松明の煙と鉄の匂いと、疲れた人間の匂いが混ざっていた。
新しい板が古い板の内側に重なる。古い板はそのあとで薄くなり、消える。継ぎ目に隙間はない。
宮廷魔導師たちは城壁の上に座り込んでいた。ローブの裾が石の上に広がって、紺と黒の染みのようだった。
俺は手帳を開いた。
魔石の在庫欄は、48から30に減っている。
「先生、まだ終わらないっすか」
ルカが俺の横に立っていた。目の下に煤がついている。
「終わらせます」
セレスティアさんが俺の横に来た。隈の下の影が、夜のあいだに深くなった。
「弟子。何を、数えているのです」
「継ぎ目です」
「継ぎ目」
「宮廷魔導師の幕は、1時間で切れました。見習いの板は、切れる前に次を重ねています。重ねる場所は、継ぎ目です」
セレスティアさんは何か言いかけて、唇を結んだ。
俺はルカの方を向いた。
「ルカさん。巣穴に火を入れたとき、一角兎はどう動きましたか」
ルカは一瞬だけ首をかしげた。それから、手順書の写しを握り直した。
「火と反対に、まっすぐ飛び出したっす」
「反対に、まっすぐ」
「まっすぐしか走らないっす。火があると、火の方には来ないっす」
俺は手帳に1行書いた。
「一角兎 火に対して反対方向へ直進」
次の交代まで、あと数分。
「ルカさん。次の張り替えの継ぎ目で、《着火》をお願いします」
ルカの手順書の写しが、胸の上で一度だけ跳ねた。
「はいっす」
声は震えなかった。
俺は砂時計の係を見た。砂が残り少ない。
「2組、準備」
1組の古い板が、薄くなっている。
「交代」
1組の手が離れる。
消える前の一拍だ。
板の輪郭が透明になって、城壁の外の枯れ草が見える。
枯れ草の向こうで、一角兎が板の正面に詰まっている。
板が消える。
継ぎ目だけが開く。
ルカが胸壁の石に手をついて、上体を乗り出した。
息を吸う。
指を4本折る。
止める。
「《着火》」
指先から火が走った。
小さな火だ。手順書どおりの、指先ほどの火。
火は城壁の外へ落ちて、枯れ草に触れた。
乾いた草が、音を立てて上がった。
炎は横に這う。
一角兎の赤い目が、一度だけ大きく開いた。
角を前に向けたまま、全員が同時に、反対を向いた。
まっすぐに、だ。
まっすぐにしか走れない一角兎が、まっすぐに反対へ走る。
城壁の外の黒い草原で、白い波と灰色の影と黒い塊が、東へ東へと流れていく。
「1」
俺の声で、2組が動いた。
板が城壁の外側に立ち上がった。
継ぎ目が、閉じた。
板の向こうで、白い点が遠ざかっていく。
森狼がその後ろを走る。大猪が最後に、太い足音を立てて森の闇に消えた。
城壁の外は、静かになった。
東の空が白くなっていた。
夜の色が、端から剥がれる。
「張った——」
見習いの1人が、胸壁を叩いた。
「張ったぞ!」
「おい、見ろ! 森に戻った!」
「兎が帰った!」
「おれたちが追っ払った!」
俺は手帳を開いた。
「魔物群退去 夜明け前に全数東の森へ反転」
「見習い20人 事故0件」
1行書いて、手帳を閉じた。
ルカが胸壁の石から手を離して、振り返った。
煤のついた指を自分の目の前にかざす。
鼻の下に黒い筋がついている。
「先生」
声が高い。夜のあいだに一度も上がらなかった声が、上がる。
「おれの火っす」
「はい。ルカさんの火です」
ルカの口が、半分開いたまま笑った。
笑った顔は、泣きそうな顔と似ていた。
城壁の下から足音が近づいてきた。
石畳を打つ音は金属だ。
明かりの中に、騎士の甲冑が4人並んでいる。
その後ろに、外套の男が1人立っていた。
白い髭だった。
質素な外套は夜の色に溶けているが、髭だけが松明に照らされて白い。
城壁の下にいた兵士が、外套の男を見た瞬間に膝をついた。
城壁の根元に立っていた兵士が全員、同時に石畳に膝を当てた。
国王だ。
夜中に城壁を視察に出ていたのだ。
国王は城壁を見上げた。
視線が、城壁の外側の半透明な幕を追う。
それから、座り込んでいる宮廷魔導師たちと、煤だらけの見習いたちに移った。
「宮廷魔導師が1時間で尽きた壁を、見習いが夜明けまで持たせたのか」
城壁の上の宮廷魔導師たちは黙った。
誰も顔を上げない。
俺は手帳の入室時刻を見た。
向こうの1日は地球の16分だ。
地球は今、16時52分だ。
定時は17時だ。
あと8分。
「あの段取りを組んだのは誰か」
見習い20人が動いた。
一斉に、だ。
20人の目が、全員、俺を見た。
俺は手帳を閉じた。
これ以上いると残業になる。
残業は手順書にない。
俺は城壁の石段を下りて、国王の前に立った。
俺は頭を下げた。
下げた角度は、審問局でグレゴールに下げたのと同じにした。
「すみません、定時なので失礼します」
国王の髭が一度だけ動いた。
口が開きかけて、止まった。
俺は城壁の詰所の戸に向かった。
ポケットの鍵を取り出す。
真鍮の古い鍵だ。
戸に当てて、回す。
戸をくぐった背中で、城壁の上がざわめいた気がした。
ざわめきは閉じた戸の向こうで途切れた。
物置は暗かった。
実家の庭の土の匂いがする。
在庫欄の魔石は30個。
手順書の控えは、教会にある。
定時に帰れた。
◇
城壁の下で、国王はまだ戸を見ていた。
あの男が消えた戸だ。
鉄の枠の中に、石の壁が嵌まっている。
それ以外は何もない。
「……定時、とは何だ」
国王の声は、城壁の石に吸われた。
誰も答えない。
城壁の上で、セレスティアが両手で顔を覆った。




