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父の腰を治したら、元の会社から電話がかかってきた




「……痛くねえ」


父が座卓に手をつかずに立ち上がった。


10年、父は畳から立つときに必ず座卓の角をつかんだ。その手が今日は膝の上に置かれたままだ。


10月3日土曜の昼だった。


俺が2階から下りてきたのは、ほんの30分前のことだ。


土曜の明け方に物置から戻って、そのまま昼まで寝た。向こうでは1か月近く働いてきたので、体はまだ向こうの時計で動いている。


階段の下でひよりが待ち構えていた。


「おじさん、3,874」


「何が」


「登録者。昨日の夜まで47だったの。寝てる間にこうなったの」


ひよりの横持ちの画面に、切り抜きの題が出ている。『説明が研修なんよ』


《定時で帰る手品師》


《元品質管理ってマジ?》


「そうか」


「そうか、じゃないんだけど」


目をこすりながら居間に入ると、父がちょうど庭に出ようとしていた。


座卓の角をつかんで、腰を半分だけ浮かせて、そこで止まる。いつもの父の立ち方だ。


「ねえ、おじさん」


ひよりが俺のスウェットの裾を引いた。


「昨日のあれ、じいちゃんの腰にもできる?」


母の湯のみが口の手前で止まる。健司はリモコンを持ったまま振り返った。


美咲さんが煎餅を割る手を止める。父は腰を浮かせたまま、首だけ回した。


「……あ」


ひよりは口を「あ」の形にしたまま固まった。


「昨日のあれ?」


「あれって、ひよりちゃんの手品の?」


「え、演者って兄貴なの」


「お義兄さん、昨日の21時に台所にいましたよね」


ひよりは俺を見て、それから天井を見て、最後に床を見た。


「……プロデューサーとしては、ノーコメントで」


もう遅い。


俺は2階に戻って、上着のポケットから布の袋を出した。


この前の滞在で、手順書の紙とインクの代金に3個、ギルドで換えた。残りは9個だ。


小指の先ほどの石を1つ取って、居間に戻る。


父はまだ座卓の角をつかんだまま、こちらを見ている。


「親父、うつ伏せになれるか」


「おう」


座布団を2枚並べて、父がそろそろと腹ばいになった。


石を左の手のひらに包むと、ひんやりして飴玉くらいの重さしかない。これで親父の10年に足りるのかは、正直分からない。


右手を父の腰の一番固いところに置き、背筋を立てて4拍吸う。止めて、詠唱を一息で通した。


手のひらの下に、薄い緑がかった光がにじんだ。


健司が何か言いかけて、美咲さんに膝をたたかれた。母は息を止めている。父は座布団に頬をつけたまま動かない。


光が消えるまで俺は手を動かさなかった。5秒ほどして、父が自分で起き上がる。


座卓に手をつかずに、だ。


それがさっきの「……痛くねえ」だった。


「病院行かなくていいの?ねえ、お父さん、ほんとに痛くないの?」


「それ保険きくの?」


「兄貴、肩もいける?俺、ずっと右が上がんねえんだよ」


「待って待って、じいちゃんが立った、普通に立った」


「保険はきかない」


俺の返事はそれだけにした。


母は確かめるように、父の腰のあたりをぺたぺたと触っている。父は嫌がりもせず、黙って立ったままだ。


美咲さんだけが座ったまま動かなかった。


看護師の目で、父の足元から腰までを見ている。


「お義父さん、そのまま前にかがんでもらえますか」


父がかがんだ。


指先が畳に届いた。


母が口を手で押さえた。健司は膝立ちのまま固まっている。


美咲さんはゆっくり俺の方を向いた。


「お義兄さん、それ手品じゃないですよね」


「……まあ」


「整形外科の先生が、10年治せなかったんですよ。注射も、牽引も、コルセットも」


美咲さんの声は低かった。責める調子ではない。勤務先で、検査の数値を読み上げるときの声だ。


「手品で、指先は畳に届きません」


反論の材料がない。


母が俺の顔をのぞきこんだ。


「恒ちゃん、あんた、いつからそんなことできるようになったの」


「最近」


「最近って、会社辞めてまだ3日でしょう――」


「仕入れ先が、遠いんだよ」


自分でもよく分からない答えになった。母は「ふうん」と言って、それ以上は聞かなかった。こういうところは助かる。


「でも、完全じゃない」


俺は父の腰を指さした。


「指先は届いたけど、戻るときに腰が一拍止まった。まだ固い」


「初級なので、慢性のものは1回で3割くらいです」


ひよりがこちらを見た。


「なんで急に敬語」


説明になると、口が研修の口調に戻る。15年の癖は退職届では抜けないらしい。


「浅い傷なら1回で消える。古いのは、薄く何回か重ねるしかない」


父が何も言わずに座布団の上に戻った。


もう一度、腹ばいになる。


「……おう、ってことね」


母が通訳した。


俺は左の手のひらを開いた。


さっきの石は透き通った色が抜けて、灰色になっている。


慢性の腰に長く当てたせいか、1回で1個が空になった。小さい石だから、というのもあるかもしれない。どちらにしても、実測は実測だ。


2階から袋ごと持ってきて、2個目を出した。


「おじさん、それ撮っていい?」


「医療行為っぽいのは、配信だとアウト」


美咲さんが即答した。


2回目の光は1回目より少し長く続いた。


3回目が終わるころには、健司が自分の右肩を回しながら順番を待つ顔になった。


父は起き上がると、縁側の方へ歩いていった。


庭のサンダルをつっかけるときも、腰に手を当てない。


「兄貴、次、俺な」


「パパ、並ばないで」


「お義兄さん、血圧とかは大丈夫なんですか。かける側の」


家族の声を背中で聞きながら、俺は手の中を数えた。


9個あった石が昼飯の前に6個になった。


「在庫が」


父に呼ばれたのは、昼過ぎだった。


呼ばれた、というのは正確ではない。父が居間の入口で俺の顔を見て、それから黙って廊下を歩きだしたので、ついていっただけだ。


父の部屋は昔から油の匂いが少しする。旋盤を降りてずいぶん経つのに、まだ抜けない。


父は押し入れの下の段を開けて、膝をついたまま上半身を奥まで突っこんだ。


何年も見ていなかった姿勢だ。


引っぱり出したのは、麻ひもで十字に縛った辞書ほどの厚さの紙の束だった。


ひもをほどいて、父は一番上の1枚を俺の方へ向けた。


黄ばんだわら半紙に、鉛筆の字が並んでいる。


部品の図。寸法。刃物を当てる順番。回転数。最後の行に「バリ注意」と、そこだけ2重線が引いてあった。


工程ごとに1行ずつ区切られ、各行の頭に番号が振ってある。


「お前、こういうの書いてたろ。昔から」


小学生のころ、俺は父の部屋からこの紙を持ち出して、広告の裏に写した。


意味も分からずに寸法の数字まで写して、最後の行に自分で「注意」と書き足した。


「……書いてたな」


「おう」


父はそれ以上何も言わなかった。


束を俺の方へ少し押して、自分は膝を伸ばして立ち上がる。


立つときに、どこにも手をつかなかった。


一番上の1枚を手に取ると、紙の端が乾いていて、指の腹でかすかに鳴った。


そのとき、スウェットのポケットでスマホが震えた。


画面に出た表示を見て、俺は紙を束の上に戻した。


【クロダ精機 品質管理課】


2階の自分の部屋に上がって、戸を閉めてから通話に出た。


土曜に会社からかけてくるなら、来週に何かあるんだろう。


「はい、志摩です」


「あっ、あの、志摩さんの携帯で合ってますか、すみません、品管の森下です、すみません、お休みのところ」


早口だった。若い男の声で、息継ぎの場所がおかしい。


森下という名前に心当たりはない。俺の後任として、どこかから回されてきたのだろう。


「はい。森下さん。どうされましたか」


自分の声が会社の声になっている。一人称も、たぶん今は「私」だ。


「来週、顧客監査が入ってまして、それで工程FMEAの最新版を出さなきゃいけなくて、でも、どれが最新なのか、すみません、全然分からなくて」


「工程FMEAですね。確認します」


確認するまでもなかった。


「共有フォルダの品管の、03の、改訂履歴の一番下です」


電話の向こうで、マウスをクリックする音が続いた。


カチ、カチ、カチ。


止まった。


「……あった。あ、ありました。日付も、先月で」


「共有にある中では、それが一番新しいです」


「なんで覚えてるんですか」


森下の声が少しだけ素に戻った。


「毎月、そこを開けていましたので」


それ以上の理由はない。15年、毎月だ。指が勝手にそこを開く。


「うわ、いや、すみません、助かりました、ほんとに、昨日から――」


森下の声の向こうで、別の声がした。


聞き慣れた声だ。15年、毎朝聞いた。


「おい森下。誰と話してる」


「あ、課長、いえ、あの」


「志摩か」


受話器が手で押さえられたらしい。音がこもった。それでも、権藤課長の声は通る。


「志摩に聞くなって言ったろ。自分で読め」


「はい、すみません」


「で、数字は?RPNの上位、まだ出てないだろ」


「今、出します」


「あいつの品質は残業込みなんだよ。定時で回って初めて仕組みだろうが」


定時で帰れるようになったのは、辞めてからだ。


「辞めた人間に頼るな。会社は個人に依存しちゃいけないんだよ。そういう体制を作るのが、俺たちの仕事だろうが」


言っていることは、間違っていない。


属人化は、品質管理の教科書の最初の方に出てくる敵だ。


俺も昔、同じ言葉で稟議を書いた。その稟議は、課長の名前で上に上がった。


押さえた手がずれたのか、森下の声だけが急に近くなった。


「……すみません。また、もしかしたら、かけてもいいですか」


ほとんど聞こえないくらいの小声だった。


返事をする前に、通話が切れた。


耳から離したスマホを机に置く。画面はもう通話の前の待ち受けに戻っている。


「……監査、来週か」


RPNの上位なら、段取り替えの項目だ。あそこは点数を付け直したばかりで――


そこまで考えて、やめた。


もう俺の工程ではない。


窓の下の縁側から、健司の「兄貴ー、肩ー」が聞こえた。親父の「おう」も混じる。


肩は入荷待ちだ。


父と健司にはあとで物置を見せて話し、母と美咲さんには手品の仕入れ先で通して、ひよりにはまだ何も言わないことにした。


机の上のスマホは、もう鳴らなかった。


段取り替えの点数を付け直した改訂版は、共有にはない。


先月、課長の承認印待ちのまま止まった版だ。


元の席の、俺が使っていたPCのデスクトップに1つあるだけだ。


古い点数のままだと、段取り替えはリスクの低い欄に入る。


言わなかった。


言う前に切られた。


窓の外で、物置の戸がカタンと鳴った。


鍵は、俺のポケットの中だ。

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