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落ちこぼれの見習いに手順書を渡したら、2日で火が点いた




2か月目の3日、王立魔導学院の裏庭で、少年が泣いていた。


声は出ていない。石壁の根元にしゃがみこんで、肩だけが小さく揺れている。


俺は書類の束を抱え直した。


お使いの途中だった。セレスティアさんの書類を届けるついでに、塔で借りた初等の《着火》の教本も返しに来た。


王都の初等学院というのは、ここの初等科のことだった。


物置の戸をくぐってから、こちらでは3日目になる。地球では、まだ金曜の夜だ。


少年の髪はくすんだ金色で、癖が強くあちこちに跳ねている。


鼻の頭から頬にかけて、そばかすが散っている。


見習いのローブは明らかに大きすぎて、袖が指の先まで来ている。


裾に目が行った。


焦げ跡がある。1つではない。小さな茶色い穴が、裾の前側にばらばらと並んでいる。


不良品の山を見ると、数を数えたくなる。15年やっていると、そういう体になる。


少年が顔を上げた。赤くなった目が俺の眼鏡のあたりで止まる。


「……おじさん、誰」


「見学者です」


「ケンガクシャ」


少年は鼻をすすった。


事務棟の場所を聞こうとして、俺はやめた。今の顔の相手に聞くことではない。


「それ」


少年の視線が、俺の腕の中に向いている。書類の上に載せた、薄い教本だ。


「1年生の《着火》の教本っすよね」


「はい」


「おれ、それで3年やってるっす」


少年は袖で顔を拭った。


「14にもなって、《着火》も点かないっす。入学して3年っす。来月、退学っす」


言い終えると少年はまた膝に顔を埋めた。


慰める言葉はいくつか知っている。どれも、点かない火を点ける役には立たない。


「失敗の記録はありますか」


少年の肩が止まった。


「……記録?」


「何回やって、どう失敗したか。書いたものです」


「そんなの書く人、いないっすよ。失敗なんて、毎回同じっすもん」


「毎回同じなら、なおさら書けます」


少年が顔を上げる。何を言われたのか分からない、という顔だ。


「教官は、才能がないからだって。それだけっす」


原因が「才能」で止まっている。なぜを1回問うて、そこで終わりだ。


工場なら、その報告書は差し戻しになる。


俺は書類を脇に挟んで、上着の内ポケットから手帳を出した。


後ろの方の頁に控えが1枚ある。


『《着火》作業手順書 第1版』


控えを破るのは本来やらない。だが、原本は塔にある。


頁の根元を押さえて、まっすぐ破り取った。


「名前を聞いてもいいですか」


「……ルカっす」


「ルカさん。これを読んでおいてください。明日の朝、ここに来ます」


ルカは紙を両手で受け取った。


1行目に指を当てて、唇だけで字を追い始める。


指は題名の途中から先へ進まなかった。


2か月目の4日の朝、ルカが先に来て、石壁の前に立った。


紙は丁寧に4つに折りたたんであった。


「これ、半分も読めなかったっす」


「どこまで読めましたか」


「ちゃっか、と……こうていは分かったっす。あとは、字が細かくて」


第1版は字が読める作業者を前提に書いてある。前提が外れたなら、手順書の方を直す。


俺は紙を受け取って、裏返した。


石壁の段差に紙を置いて、ペンを走らせる。


『《着火》作業手順書 第2版』 工程1 (人の絵)まっすぐ立つ 工程2 (手の絵)息を吸う。指を4本折るまで 工程3 (こぶしの絵)息を止める 工程4 (口から線が1本)3節を一息で言う 工程5 (指を1本立てた絵)指先から出す


「……絵っすね」


ルカが紙を覗きこんで、首を引いた。


「絵です」


「なんか、子ども向けっぽいっす」


「読めない作業者向けの手順書は、工場で一番大事です」


「コウジョウ?」


「前の職場です」


「前の職場……おじさん、何者っすか」


「見学者です」


ルカは口を半分開けたまま、何か言いかけて、やめた。


「それと、今日は火を点けません」


「え」


「今日は不良を集めます」


「フリョウ」


「失敗のことです。種類ごとに分けます」


俺は紙の余白に縦の線を引いて、3つの列を作った。第1版の不良分類と同じだ。


A、取り込み不足。B、形の散り。C、出口で停止。


「点かなくていいんすか」


「点かなくていいです。どう点かないかを見ます」


ルカは手順書を石壁に立てかけて、工程1の絵を見た。


指を折る。1本、2本、3本、4本。


握ったこぶしのまま、3節を一息で言い切る。


指先は何も起きない。


「指先は温かくなりましたか」


「ならないっす」


Aの列に印を1つ入れる。


2回目も同じだった。3回目も同じだった。


昼を過ぎるころには、ルカの声がかすれてきた。


印は全部、Aの列に並んだ。BとCは白いままだ。


第1版の処置どおり、指を5本折るまで吸わせてみた。それでも印はAに入った。


毎回同じ不良なら、原因はたぶん1つだ。


「ルカさん。もう一度、工程2だけやってください。横から見ます」


「横?」


「横です」


俺はルカの左に回った。


ルカが指を折り始める。


肩が上がった。胸はほとんど動かない。


背中が丸い。首が前に出て、腹の上にローブのたるみが落ちている。


正面からだと、大きすぎるローブの布で背中の線が見えなかった。


3年間、誰もこの子を横から見なかったらしい。


「猫背ですね」


「……ねこぜ」


「背中が丸いと、息が胸に入りません。魔素も入りません」


ルカは自分の腹のあたりを見下ろした。その姿勢が、もう丸い。


俺は第2版の工程1の絵に、線を1本足した。人の絵の後ろに、縦の壁を描く。


かかとと尻と頭を壁につける。


「今やったら点くかもしれないじゃないっすか」


ルカが壁に手をついて、身を乗り出した。


「かもしれない、で点けると、次に点かなかったときに原因が分かりません」


「……おじさん、変な人っすね」


「よく言われます」


2か月目の5日、朝の裏庭は石が冷たかった。


ルカは石壁に背中をつけて立った。かかと、尻、頭。


足元に第2版を置いて、ルカは絵を見下ろさずに目だけで追った。


指を折る。


今度は肩ではなく、胸が上がった。


こぶしを握る。息を止める。


3節が、一息で出た。


ルカの右の人差し指の先に、火が点いた。


豆粒ほどの、橙色の火だ。


火の匂いが、かすかに鼻に届いた。


ルカの口が開いた。開いたまま、閉じない。


火は指先で小さく揺れて、消えた。


「……あ」


ルカの目から、先に水が落ちた。声はその後から出てきた。


「点いた、点いたっす、今の、おれの指っすよね、おれの」


「はい。ルカさんの指です」


「3年っすよ、3年、ずっと、何回やっても」


ルカは長い袖を目に押し当てた。肩が大きく上下している。


俺は手順書の余白に、印を1つ入れた。


「再現性を確認します。あと9回」


「……今、泣いてるんすけど」


「泣きながらで構いません」


ルカは鼻をすすりながら、もう一度壁に背中をつけた。


2回目から6回目まで、続けて点いた。


7回目は点かなかった。


ルカが涙を拭こうとして、壁から背中が離れている。


不良の原因は、工程1の飛ばしだ。記録にそう書く。


「ルカさん、背中」


「あっ」


8回目、9回目、10回目は、また点いた。


「歩留まり9割。合格です」


ルカが壁から背中を離して、俺の前に来た。


濡れた顔のまま、両手で第2版を胸の前に持っている。


「先生!」


「先生ではありません。見学者です」


「じゃあ、見学者の先生っす」


「それは先生です」


ルカは聞いていなかった。


「明日、教官に見せるっす。退学、取り消してもらうっす」


ルカの指が、紙の端をきつく握っている。


「先生も、来てほしいっす」


「見学者として、行きます」


2か月目の6日、実技試験場の床には、古い焦げ跡がいくつも残っている。


壁際には、見習いたちが並んでいる。どの顔も、ルカの方を向いた。


試験官の机の前に、教官が座っている。


額が頭のてっぺんまで禿げ上がっていて、机の上で組んだ太い指に、金の指輪が光っている。


「ルカか。退学の書類なら、もうできている」


「その前に、見てほしいっす」


ルカは第2版を両手で差し出した。


教官は受け取らなかった。指輪をはめた指で、机に置かれた紙を1回はじいた。


紙が机の上を滑って、端で止まる。


「才能は授かり物だ。紙切れで生えるか」


「……生えたっす」


ルカの声は小さかった。だが、引っこまなかった。


教官の目が、ルカの後ろにいた俺に移った。


「で、そっちは」


「見学者です」


「見学者が試験場に入るな」


「承知しました。入口で見ています」


俺は1歩下がって、入口の枠の内側に立った。ここなら試験場の外だ、ということにする。


ルカは第2版を拾い上げて、試験場の奥の柱に背中をつけた。


足元に紙を広げる。


「柱にもたれて魔法を撃つ見習いがどこにいる」


教官が鼻で笑った。


工程1です、と言いかけて、やめた。見学者は口を出さない。


ルカが指を折る。胸が上がる。息を止める。


3節。


指先に火が点いた。


壁際の見習いたちが、そろって身を乗り出す。


俺は数える。1回。


2回目、点いた。3回目、点いた。4回目、5回目も点いた。


教官は机の上で指を組んだまま、ほどかなかった。


「偶然だ。もう一度」


ルカは紙から目を離さずに、もう一度柱に背中を押しつけた。


6回目、点いた。


「おい、6回目だぞ」


「あいつ、紙見ながらやってんのか」


「去年、あいつの隣で俺の袖焦げたんだけど」


見習いたちの声は、教官のひと睨みで止まった。止まっただけで、首はまだ前に出ている。


7回目から9回目までは、続けて点いた。


10回目、点いた。


ルカは指先の火を見ている。火が消えてから、ようやく息を吐いた。


昨日より柱の方が背中が当てやすいのかもしれない。記録しておく。


教官の指輪が、机の端に当たって小さく鳴った。


「……それを、ほかの見習いにも配るつもりか」


教官は俺を見ていた。


「才能のない者に魔法を持たせれば、事故が増える」


壁際の誰かが、自分の袖を押さえた。


教官の言うことは、間違っていない。火を扱う人数が増えれば、事故の件数も増える。工場でもそうだ。


「なるほど。それは次の版で手当てします」


「次の版だと」


教官が椅子から立ち上がった。


太い指が、ルカの胸元の紙に伸びる。


「その紙は学院で預かる」


ルカは紙を胸に押しつけて、両腕で抱えこんだ。


背中を丸めて、教官の指から紙を隠す。


さっきまで柱にまっすぐ当たっていた背中が、また丸くなった。


「これは、おれのっす」


教官の指が、紙の手前で止まった。


机の上には、ルカの退学の書類が載ったままだ。


教官はそれに目を落として、何も言わずに裏返した。


◇


その夜、教官は自室の机で報告書に向かった。


ランプの芯を少し上げる。羊皮紙の上で、インクの匂いが強くなった。


見習いルカ、《着火》の実技。


結果の欄に、教官はペンを下ろした。


書くべき言葉は決まっている。偶然、と書けば、それで済む。


ペン先が紙に触れた。


そこから先に進まなかった。


机の端には、試験場で裏返した退学の書類がある。署名欄の名前は、教官自身のものだ。


教官は、試験場で自分が数えた回数を思い返した。


10回。


途中で一度も外していない。


自分が「もう一度」と言った後の5回も、その前の5回と同じ手つきで点いた。


試験場の床の焦げ跡を、教官は誰よりも長く見てきた。偶然で10回続いた見習いは、1人もいない。


才能のない子どもが、授かり物を紙1枚で手に入れた。


紙には字がほとんどなかった。絵と、数字と、壁に背をつけた人の形だけだ。


字の読めない見習いでも使える。


つまり、誰でも使える。


教官は報告書の冒頭に戻った。


宛名の行には、すでに「学院長殿」と書いてある。


神の手を通さずに授かり物を配る紙。


それは学院の規則で裁ける話ではなかった。


教官は宛名の行に横線を2本引いた。


新しい羊皮紙を出して、最初の1行から書き直す。


ペンは、今度は止まらなかった。


【聖光教会 審問局】

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