ジュネーブの机に、コーヒーカップが4つ並んでいた
12月8日(火)8時50分。内閣府の会議室。
俺がドアを開けると室内にはすでに真壁と外務省の課長補佐がいた。真壁は壁際の椅子に座り、付箋だらけの革鞄を膝の上に置いている。課長補佐は机の上でケーブルを1本ずつ確かめていた。壁の大きな画面には、4つの窓が並んでいる。左上がワシントン、右上がジュネーブ、左下が近隣国。右下には、ほかの数か国が小さく映っていた。
俺は自分の席に着く。椅子を引く音が、思ったより大きく響いた。
画面の中のジュネーブ側の机には、コーヒーカップが4つ並んでいる。俺はそれを数えた。1、2、3、4。理由は知らない。たぶんあちらの深夜が長いからだ。俺は手帳を開き、日付と時刻を書く。
『12月8日 8時50分 内閣府会議室 出席者3名 画面4分割』
書いてから、手帳を閉じる。胸ポケットの鍵の位置を指先で確かめた。
課長補佐が、俺の前にA4の紙を1枚置いた。時差の表だ。各国の現地時刻が数字だけで並んでいる。俺は黙ってそれを見た。ワシントンは前日19時。ジュネーブは1時。近隣国は朝の8時。
「志摩さん、マイクのテストをお願いします」
「はい」
俺は机の上のマイクを手前に引き、短く言った。
「志摩です」
課長補佐がヘッドホンを耳に当て、小さくうなずいた。
「問題ありません」
画面の右上、ジュネーブ側の机で年配の男がコーヒーカップを1つ、手元に引き寄せた。議長だ。深い紺のスーツを着て、襟元をきっちりと合わせている。背景には閉じたカーテンが映っていた。向こうの時刻は深夜の1時前だ。画面の端に、若い随行員の姿も見える。
9時00分。壁の時計の秒針が12を指した。
「では、これより会議を開始します」
議長が静かに言った。同時通訳の声が、半秒ほど遅れてヘッドホンに流れてくる。発音は明瞭で、眠気のかけらもない。深夜1時の声ではない。
「本会議は、日本時間9時より17時までを予定しています。各国の代表の皆さま、そして当事者である志摩氏にまずは一言ずつ確認をさせていただきます」
議長の視線が、カメラ越しにこちらを向いた。
「志摩氏、おはようございます。まずはご出席に感謝します」
俺はマイクに向かって、短く答えた。
「志摩です。17時まで、お受けします」
それだけ言って、口を閉じた。
画面の中が、一瞬だけ静かになった。ワシントンの代表が、腕時計をちらりと見た。ジュネーブの若い随行員が、手元の資料をめくる。近隣国の代表は、表情を変えずにこちらを見ていた。
真壁が壁際で付箋の端を指で押さえたまま、小さく息を吐いた。
課長補佐が、時差の表の端にペンを走らせる。
会議室の空調の音だけが、低く続いていた。
9時12分。ワシントンの代表が口を開いた。
「志摩氏。まず確認したい。修復ジェルを、我が国の研究機関に提供する意思はあるか」
同時通訳の声が、半秒遅れでヘッドホンに流れてくる。声は太く、よく通る。夜の7時過ぎのワシントンには似つかわしくないほどの張りだった。
俺は手帳を開いた。12月8日の頁をめくり、『持ち帰った物』の一覧を指先で押さえる。
「お答えします。修復ジェルは、チューブ1本です。欠けや割れは直ります。摩耗と故障は直りません。仕様書はありません」
それだけ言って次の頁に目を落とす。ワシントンの代表が、画面の向こうでわずかに前のめりになった。
「待ってくれ。今のは仕様の話だ。私が聞いているのは、提供するかどうかだ」
俺は顔を上げずに続けた。声は一定の高さのまま、事務的に。
「魔石は、大型が43個です。うち5個は東央大学の研究室に貸与しています。小は83個です」
「志摩氏」
「白い角は1本です。現在、東央大学の研究室が預かっています」
「だから、そういう在庫の話ではなくてだな」
俺は頁をめくった。試験結果の欄が、几帳面な字で並んでいる。
「試験の結果です。台所で6件。良品6、不良0。研究室でアルミナ板5本。5本とも接合部以外で割れました。耐熱は問題ありません」
「聞いているのはだな、渡すのか渡さないのかだ」
ワシントンの代表の声が少し大きくなった。隣の若い補佐官が、手元の資料を押さえるように手を置く。俺は続ける。
「スマートフォンは、ひびが消えました。液晶の滲みは残りました」
「おい」
「未試験の項目は2つです。生体への使用は試験しません。耐久性は現在、試験中です」
俺は手帳を閉じた。顔を上げて、カメラをまっすぐ見る。
「以上です」
画面の中で、ワシントンの代表が口を開きかけて止まった。それから、ゆっくりと背もたれに寄りかかる。深いため息が、マイク越しに低く響いた。
「……それで、渡すのか、渡さないのか」
俺は答えない。
◇
9時40分。右上の窓、ジュネーブの代表が口を開いた。穏やかな声だ。だが、穏やかな声ほど長く続く。
「志摩氏。医療への利用を考えています。たとえば、割れた骨。欠けた歯。治るなら、それだけの人が助かります。これは一国の利益ではなく、人類の利益です。渡していただけますか」
俺は手帳を開いた。12月8日の頁。同じ一覧を指で押さえる。
「お答えします。修復ジェルは、チューブ1本です。欠けや割れは直ります。摩耗と故障は直りません。仕様書はありません」
「以上です」
ジュネーブの代表はしばらく黙った。それからコーヒーカップを取った。中身が、もう半分もない。
◇
10時15分。左下の窓、近隣国の代表が身を乗り出した。
「安全保障と、地域の均衡についてです。日本だけが持つのは、不公平ではありませんか」
俺は同じ頁を開いた。
「お答えします。修復ジェルは、チューブ1本です。欠けや割れは直ります。摩耗と故障は直りません。仕様書はありません」
「以上です」
近隣国の代表は眉を動かさなかった。ただ、手元のペンを置いた。
◇
10時48分。右下の小窓、小さな国の代表が早口で言った。
「経済への影響を懸念しています。市場に出回れば、価格はどうなるのですか。特許は。独占は」
俺は同じ頁を開いた。指の位置も、同じだ。
「お答えします。修復ジェルは、チューブ1本です。欠けや割れは直ります。摩耗と故障は直りません。仕様書はありません」
「以上です」
小窓の代表は口を開けたまま、ゆっくりとカメラから目を逸らした。
◇
11時02分。画面の向こうで、ジュネーブのコーヒーカップが4つとも空になっていた。ワシントンの机にも、紙コップが3つ並んでいる。近隣国の代表は、2回目のコーヒーを注いでいた。
課長補佐が、時差の表の余白に同じ長さの線を3本、まっすぐ引いていた。
◇
11時59分。壁の時計の長針が、12の手前で止まった。
俺は手帳を閉じて机の上に置く。それから顔を上げ、カメラをまっすぐ見た。
「午前の部は、ここまでです。12時から13時までは昼休みです」
画面の中で、ジュネーブの代表がコーヒーカップに手を伸ばした。中身はもう空だった。若い随行員が、目をこすっている。ワシントンの補佐官が、背もたれに寄りかかって天井を見ていた。近隣国の代表だけが、背筋を伸ばしたままこちらを見ている。あの国は朝の8時から始まって、まだ11時前だ。
「午後の開始は、日本時間13時です」
「待ってくれ。こちらは夜の10時だ。1時間も待てというのか」
ワシントンの代表が机に片手をついて身を乗り出した。声が、ヘッドホンを少しだけ軋ませる。
俺は手帳を開いた。12月8日の頁をめくり、指で押さえる。
「議事次第にあります。1枚目です。12時から13時まで、昼休みです」
画面の向こうがしんと固まった。ジュネーブのカップが、机の上で動かない。ワシントンの紙コップも、近隣国の手もそのまま止まっている。誰も、席を立たない。
俺はそれだけ言って、マイクから口を離した。
課長補佐が、時差の表の端にペンを走らせる。それから、こちらを向いて小声で言った。
「志摩さん。昼休みの間に、発言の整理をしておきます」
「お願いします」
真壁が壁際で立ち上がった。付箋だらけの革鞄を肩にかけ、ドアを開ける。
「志摩さん、昼はどうしますか」
「食堂でいいです」
「では、ご一緒します」
俺は手帳を胸ポケットに戻してから席を立った。
画面の向こうではジュネーブの若い随行員が、空のカップを4つまとめて机の端に置いていた。
◇
12時00分。内閣府の食堂。
真壁と向かい合わせに座る。俺は定食の食券を買い、味噌汁と白飯と焼き魚を受け取った。真壁はカレーを選んでいる。トレーを置く音が、いつもより小さく響いた。
「志摩さん。午前の部、あれで良かったんですか」
真壁がスプーンでカレーを混ぜながら言った。声は低く、疲れがにじんでいる。目の下の隈が、蛍光灯の下でいっそう濃く見えた。
「何がですか」
「全部です。同じ回答を3回繰り返しただけでしょう」
「はい。事実を読み上げました」
「各国の質問は、渡すか渡さないかでした」
俺は味噌汁を一口飲んだ。出汁の味が、舌の上で広がる。母の味噌汁より少し薄い。
「午前の部は、事実確認の時間です。議事次第に書いてありました」
真壁はスプーンを置いてこちらを見た。それから、小さく笑った。
「議事次第を、読んでいたんですか」
「読みました。2枚目です」
「でしょうね」
真壁はカレーをひと口食べて、水を飲んだ。
「各国の質問は、議事次第にありませんでしたよ」
「ええ。だから、議事次第に沿って返しました」
真壁はしばらく黙った。それから、深く息を吐いてまたカレーを口に運ぶ。
「……まあ、午後はどうするんですか」
「13時から再開します。午後も、事実を読み上げます」
「17時まで」
「はい。17時までです」
真壁はうなずいて時計を見た。12時18分。食堂の窓の外は、冬の陽が白く差している。
◇
13時00分。内閣府の会議室。
ドアを開けると真壁がすでに壁際の椅子に戻っていた。付箋だらけの革鞄を膝に置き、こちらを見て小さくうなずく。課長補佐は机の上で資料を揃え直していた。手元の時差の表には、午後の欄が新しく書き足されている。
画面の4つの窓は、どれも午前と同じ顔ぶれだった。
左上のワシントン。代表のネクタイは午前より少しだけ緩んでいる。前日23時。彼らの時計では、もう日付が変わる。右上のジュネーブ。議長のコーヒーカップは新しいものに替わっていた。朝5時。左下の近隣国。昼の12時。代表の背筋は、朝8時から一度も曲がっていない。
俺は席に着き、手帳を開いた。12月8日の頁。『渡さなかったもの』の欄。指先で1行目を押さえる。
「では、午後の部を始めます」
議長の声が、ヘッドホンに半秒遅れて流れてくる。朝5時の声とは思えないほど、丁寧で均一だ。
「午前の部では、事実関係の確認をいただきました。午後の部では、志摩氏より渡さなかったものの一覧を読み上げていただきます。各国の代表は、その内容について質問をすることができます」
議長の視線がカメラ越しにこちらへ向いた。
「志摩氏、お願いします」
俺は手帳を両手で持ち、欄の1行目を読んだ。
「預かっている魔法」
顔を上げる。画面の4つの窓が、こちらを見ている。
「持ち主から、棚に並べないでほしいと頼まれています。ですから、渡しません」
ワシントンの代表が、眉を寄せた。
「棚に並べない、とはどういう意味だ」
「言葉のとおりです。期限を書かない。記録に残さない。どこにも並べない。持ち主の意思です」
ワシントンの代表が紙コップを机に置いた。音が、マイク越しに届く。
「その持ち主は誰だ」
俺の指は、まだ手帳の1行目の上にあった。『エルディアの魔法』。この8文字を口にすれば、物置の向こうが世界中に配られる。指先に、少し力が入る。画面の4つの窓が、こちらの手元を見ている。
「その持ち主は誰だ」




