17時ちょうど、ジュネーブは朝の9時だった
12月8日(火)13時。内閣府の会議室。
ワシントンの代表が紙コップを机に置いた。音が、マイク越しに届く。
「その持ち主は誰だ」
俺は手帳の次の行に目を落とした。行き先の名前は、1行目に書いてある。読まないだけだ。
「今日の議題の範囲外です」
ワシントンの代表の口が、開いたまま止まった。
俺は続けた。
「魔法の手順書。これは、渡しません」
「手順書だけか。魔法そのものは」
「魔法そのものは、預かっている魔法の欄に含まれます。渡しません」
ジュネーブの若い随行員が手元のペンを止めた。議長がカップを置く音が、マイクに小さく響く。
「物置の向こうで預かっている技術。渡しません」
近隣国の代表が、口を開いた。
「物置の向こう、というのは、どこのことですか」
声は静かだったが、はっきりと通った。朝8時から正午を過ぎて、まだ張りがある。
俺は顔を上げずに答えた。
「今日の議題の範囲外です」
「範囲外、という言葉で済ませるおつもりですか」
「はい。今日の議題は、私が持ち帰った物の扱いです。行き先の名前は、議題に含まれていません」
近隣国の代表は、しばらく黙ってこちらを見ていた。それから、小さくうなずいた。納得したわけではない。記録に残すべき発言として受け取った、という顔だ。
俺は最後の行を読んだ。
「鍵。渡しません」
「鍵、というのは」
ワシントンの代表が、前のめりになった。
「何の鍵だ。どこに繋がる鍵だ」
「今日の議題の範囲外です」
「だから、その範囲外というのはだな」
「議題に含まれていないものは、お答えしません。今日の議題は、持ち帰った物の扱いです。行き先と、持ち主の名前は含まれていません」
俺は手帳を閉じた。机の上に静かに置く。
「以上が、渡さなかったものの一覧です」
画面の中で、ワシントンの代表が背もたれに寄りかかった。ジュネーブの議長は、カップを両手で包むように持っている。近隣国の代表は、背筋を伸ばしたままこちらを見ている。
13時20分。
ワシントンの代表が、机の上で拳を軽く握った。画面の向こうは前日23時を過ぎた時刻だ。ネクタイは緩んでいるが、声にはまだ張りがある。
「では、誰が渡すかを決めるのか。あなたか」
俺は手帳の表紙の端を指先で一度なぞった。それから顔を上げて、カメラをまっすぐ見た。
「渡すかどうかは、仕様を読める人が決めてください」
会議室が、しんとした。
画面の4つの窓が、こちらを見ている。ワシントンの代表の口が、開きかけて止まった。ジュネーブの議長は、カップを両手で包んだまま動かない。近隣国の代表は、背筋を伸ばしたまままばたきもしない。
真壁が壁際で付箋の端を指で押さえた。課長補佐のペンが、時差の表の上で止まっている。インクが、紙の上で小さな点になった。
俺は続けた。
「私は読めないものは渡しません。修復ジェルの仕様書はまだありません」
ワシントンの代表が、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。拳が、机の上でほどける。何か言いかけて、口を閉じる。それから天井を見た。
ジュネーブの議長がカップを机に置いた。陶器が木の天板に触れる音が、マイクに小さく響く。誰も、すぐには次の質問をしなかった。
画面の向こうでワシントンの補佐官が、手元の資料をめくる音だけが聞こえた。めくって、止まる。めくって止まる。探しているのだ。反論の材料を。俺にはその手順が見えた。だが、材料は見つからない。
近隣国の代表が、小さく息を吐いた。それから手元のペンを置いた。ペンが机に触れる音は、マイクには届かなかった。
俺は手帳を胸ポケットに戻した。
時計の長針が、13時22分を指していた。
◇
16時00分。午後の部、最後の1時間。
各国の質問は続いた。ワシントンは渡す条件を聞き、ジュネーブは管理の枠組みを聞き、近隣国は地域の均衡を聞いた。俺の答えはどれも同じ形だった。
「今日の議題の範囲外です」
「仕様書がありません」
「試験中です」
質問の形は変わっても返す工程は変わらない。俺は手帳を開き、聞かれた順に頁をめくった。時計の長針は、淡々と進んだ。
16時28分。画面の右上、ジュネーブ側の若い随行員が立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。外はもう明るい。向こうは朝の8時半だ。
左上のワシントン側では若い補佐官が紙を1枚、静かに持ち上げた。
「では、研究目的に限り1グラムでも提供いただけないか、という案です」
声は丁寧だった。疲れてはいるが、発音は崩れていない。深夜3時を前にした声だ。補佐官は紙に書かれた条件を読み上げた。量、用途、管理方法、記録の取り方。条件が3つ並んでいる。1グラム、研究目的、冷暗所。それだけだ。
俺は手帳を開いた。12月8日の頁を指で押さえ、顔を上げる。
「1グラムの仕様書も、ありません」
補佐官の手が、止まった。
「1グラムであっても、欠けや割れが直るのか、摩耗と故障は直らないのか、生体に使えるのか使えないのか。どれも書かれていません」
俺はそれだけ言って、手帳を閉じた。
補佐官は、紙を伏せた。音はマイクには届かなかった。隣の代表が、背もたれに寄りかかったまま天井を見ている。
ジュネーブの若い随行員がカーテンの端を指で摘んだまま、じっとしていた。
◇
16時59分。
俺は腕時計を見た。秒針が、12の手前を回っている。顔を上げる。画面の4つの窓が、まだこちらを見ていた。
ワシントンの代表は、深夜3時の手前だ。ネクタイは完全に緩み、目の下に薄い隈ができている。ジュネーブの議長は、朝9時。カーテンが開いていた。窓の外の湖が、白く光っている。机の上のカップは、空だった。近隣国は夕方の4時。背筋は、朝8時から一度も曲がっていない。その背中にだけ、疲れが見えた。
秒針が12を指した。
17時00分。
俺は手帳を閉じて、立ち上がった。
「定時なので、失礼します」
近隣国の代表が静かに口を開いた。
「こちらは、まだ16時です」
俺はカメラをまっすぐ見て答えた。
「こちらは17時です」
課長補佐が、時差の表の端を指で押さえたまま、絞り出すように言った。
「志摩さん。明日も、9時からでしょうか」
「今日の議題は終わりました」
俺はそれだけ言って、マイクから離れた。彼の手元では時差の表の余白に引かれた3本の線が、まだ乾いていない。
俺は扉へ歩いた。真壁が静かに立ち上がり、付箋だらけの革鞄を肩にかけて後に続く。背後のスピーカーから、議長の声が流れた。
「では、これにて本日の会議を終了します。次回の日程は、追って調整のうえ――」
その先は聞こえなかった。扉が閉まった。
◇
廊下は静かだった。蛍光灯が白く並んでいる。窓の外はもう暗い。12月の午後5時は、とっくに夜の始まりだ。
真壁が半歩後ろから言った。
「議長のカップ、午前だけで4つ空いてましたよ。数えてましたよね」
「はい。4つです」
「でしょうね」
真壁は小さく笑った。疲れた声だったが、足取りはしっかりしている。
そのとき、真壁の携帯が震えた。彼は歩きながら画面を見て、眉をわずかに上げる。それから、こちらを見ないまま言った。
「外務省からです。3か国が個別の要求を出してきました」




