冬の庭で、師匠は電線の数を数えた
12月5日(土)15時58分。物置の戸から、エルディアへ。
塔の客員の部屋に戻るとセレスティアは窓際の机で何かを書いていた。羽根ペンの先が、紙の上でかすかに走る音がする。俺が扉を閉めると、彼女は顔を上げずに言った。
「おかえりなさい。今日は少し早いです」
「はい。森の道が乾いていました」
俺は外套を椅子の背にかけ、机の前に立つ。手帳を開き12月5日の頁に『エルディア入り』と時刻を書く。それから閉じて、胸ポケットの鍵の位置を指先で確かめた。
「師匠。報告があります」
「なんでしょう」
セレスティアがペンを置いた。紫の瞳が、こちらをまっすぐ見る。目の下の隈は、今日も変わらず濃い。
「地球で、12月8日に会議があります。各国の代表が集まります。議題は、俺の物置と俺が持ち帰った物です」
「持ち帰った物、というと」
「魔石と、ほかの場所で預かった物です。そこで聞かれるのは、渡すか、渡さないかです」
セレスティアは少し首を傾げた。三つ編みの先が肩から滑り落ちる。
「あなたは、その会議に出席するのですか」
「出席します。9時から17時までです」
「そう」
彼女は窓の外へ視線を移した。塔の下では市場の天幕が風に揺れている。遠くで鐘が鳴った。夕の鐘ではない。三の鐘だ。
しばらくの沈黙のあと、セレスティアはもう一度こちらを見た。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃える。彼女が何か確認するときの姿勢だった。
「その会議には、エルディアの席もあるのですか」
俺は手帳を胸ポケットに戻し、彼女の目を見て答えた。
「ありません」
セレスティアは小さく息を吐いた。怒りでも、安堵でもない。ただ事実を受け取ったときの、彼女特有の静かな呼吸だった。
セレスティアは少し黙って、窓の外に一度目をやってから視線を戻した。紫の瞳がまっすぐ俺を捉える。
「では、わたくしが地球を見ておく必要があります」
「条件は、3つです」
俺は指を折りながら言った。人差し指、中指、薬指。声はいつもと同じ高さで、事務的に。
「1つ目。戸を通れるのは鍵の持ち主の俺と、俺の手を握った1人だけです。師匠には俺の手を握っていただきます」
「2つ目。行きも帰りも、手を引くのは俺です。エルディア側でも地球側でも、勝手に戸に触らないでください」
「3つ目。地球では俺の家に泊まっていただきます。帰りは明日の朝9時です」
セレスティアは三つ編みの先を指で弄りながら、紫の瞳を細めた。唇の端がわずかに上がる。
「1つだけ、よろしいですか」
「どうぞ」
「手を握るのは、戸を通る間、ずっとですか」
「はい」
「まあ」
彼女は小さく笑った。隈の下の瞳が、試験の答え合わせをするように光る。
「よろしい。わたくしはあなたの手を握ります」
俺は手帳を開き、今日の頁に書いた。
『12月5日 師匠に条件3つ 了承』
「では、着替えと筆記具だけ」
「はい」
塔の外で夕の鐘が鳴った。低く、長い音が城壁を滑り窓硝子を震わせる。俺は手帳を閉じて胸ポケットの鍵を握る。
「定時なので失礼します」
そう言って右手を差し出すとセレスティアはこちらを一瞥してから、細い指を重ねてきた。ひやりと冷たい。インクの染みが袖口に覗く。
「よろしい。参りましょう」
客員の部屋の扉を開け敷居の上に立つ。鍵を当て、右へ一度回す。金属が噛み合う手応えはなく、景色が溶けるように揺れた。彼女の手を強く握り返す。指が、かすかに震えていた。寒さではない。新しい工程の前で、理屈が追いつこうとしているときの震えだ。
「大丈夫です。すぐ着きます」
「ええ、あなたが手を引いてくれるのでしょう」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
2人で敷居を越えた。
◇
物置の戸を開けると、冷たい空気が頬を打った。
冬の夕方だ。庭の隅の物置の前、俺の家の裏手。まだ16時を過ぎたばかりだというのに、西の空はもう薄い橙に染まっている。息が白い。
「ここが、あなたの家ですか」
セレスティアが庭を見回した。紺のローブの裾が、土の上で小さく揺れる。その視線は、家屋ではなく頭上へ向かった。
「……電線、ですね」
彼女は空を横切る電線を指でたどり始めた。目を細め、首をわずかに動かしながら1本、2本と数えていく。師匠はこういうものに興味を持つと止まらない人だ。
「17本」
「そうですね」
「1本だけ、少し低いです。張りが違う」
「電柱の間隔が違うんだと思います」
「なるほど。工程が違うのですね」
セレスティアは満足したようにうなずいた。魔法の説明は「感覚です」と言う人が、電線の本数は律儀に数える。そういう人なのだ。
そのとき、母屋の勝手口が開いた。
ひよりだ。エプロン姿で手にビニール袋を持っている。彼女は戸口で、ぴたりと固まった。
「……待って」
袋が、ぱさりと落ちる。
「なんで師匠さんがいるの!?」
ひよりが駆け寄ってくる。俺とセレスティアの間で足を止め、そのローブを上から下まで見た。それから、自分の腕をさすった。
「ちょっと、その格好。めっちゃ薄いじゃん。冬だよ、冬。外3度だよ」
セレスティアは自分の袖を見下ろした。紺のローブは、たしかに冬の装いではない。
「これが、わたくしの通常の装いです」
「通常が非常識なの。ほら」
ひよりが自分のダウンを脱いだ。白いダウンジャケットを、セレスティアの肩にかける。
「着て。風邪ひくよ」
セレスティアは一瞬目を丸くした。それから、ゆっくりと袖に腕を通す。白いダウンは、彼女には少し大きかった。銀髪の三つ編みが、ふわりと襟の上に乗る。
「……温かいです」
「でしょ。これ、あたしのお気に入りなんだから、大事にしてよね」
ひよりは腕を組んで、えっへんと胸を張った。セレスティアはダウンの袖口を、そっと指でつまんだ。
「ありがとう。大事に、します」
その声は、いつもの師匠より少しだけ小さかった。
◇
16時20分。外はもう暗い。街灯が点いている。ひよりが先頭で、俺とセレスティアが続く。白いダウンの背中が、街灯の下でぼんやり光って見えた。
コンビニの自動ドアが開いた。
セレスティアは立ち止まった。それから半歩下がって、もう一度入る。開いて閉まる。彼女は首を傾げた。3回目。ドアの前で、開閉のたびに眉が少しずつ動く。
「人が通ると、開くのですね」
「そういう仕組みです」
「閉まるのも、自動です」
「はい」
「では、誰も通らなかったら閉まったままですか」
「閉まったままです」
セレスティアは満足したようにうなずいた。ひよりが店内から「早く来てよ!」と手を振っている。
店内は明るい。天井の蛍光灯が、エルディアの塔の灯りとは比べ物にならないほど均一に光を並べている。セレスティアは天井を見上げ、それから棚を見た。視線がレジ横の温かい缶の棚で止まった。
「これは」
「温かい飲み物です。冬だけ、棚ごと温めています」
セレスティアは棚の前に立ち缶を1本ずつ、指先で確かめ始めた。コーヒー、お茶、ココア。ラベルの文字を目で追い、缶の底をひっくり返して値段の札を見る。動かない。ひよりが「師匠さん、何してんの」と小声で俺に言う。俺は「数えているんだと思う」と答えた。
レジの若い店員がこちらを見ていた。困った顔だ。セレスティアが缶を置き、まっすぐレジへ歩いていく。白いダウンの裾が、床のタイルの上で揺れた。
「すみません」
店員が顔を上げた。
「この店の手順書を、見せてもらえますか」
店員の口が、開いたまま止まった。
店員は一瞬、レジの下をちらりと見た。それから困ったように笑った。
「マニュアルは、見せられないんですけど」
「では、口頭で構いません」
セレスティアが前のめりになった。白いダウンの袖口を、指でつまんでいる。
「品出しの決まりを、教えていただけますか」
店員は少し考えて、それから棚のほうを見た。
「えっと……古い物を前に出す、ですね。同じ商品でも後ろに新しいのが入ってるので」
「先入れ先出しです」
俺が言うと、店員は「あ、はい、そう呼ぶこともあります」と目を丸くした。
「温かい飲み物は、棚に入れてから何日で下げるか決まってます。夜中でも、同じ手順で回します」
「夜中でも」
セレスティアが繰り返した。声が、少し速くなっている。師匠が手順を聞くときの声だ。
「はい。誰が見てるわけでもないですけど、記録は残します」
「記録を」
「はい。何時に、何を、いくつですね」
俺は胸ポケットの手帳に手を伸ばしかけて、やめた。今は客だ。だが頭の中では、もう頁が開いている。
店員の背筋が、いつのまにか伸びていた。声も、少し大きくなっている。
「では、下げた物はどうするのですか」
セレスティアが続けて聞いた。店員は「それは、うちの店では……あ、でもそれはちょっと」と急に歯切れが悪くなる。
「企業秘密です」
「そこは秘密なの」
ひよりが呆れたように言った。それから俺とセレスティアの背中を交互に見て、深く息を吐く。
「この2人、同じ人種だ」
俺は否定しなかった。否定する材料がない。
「では、温かいのを3本お願いします」
俺は財布を出した。コーヒー2本とココア1本。店員は手早く袋に入れ、レジを打つ。
「420円でございます」
「はい」
小銭を出して受け取る。セレスティアが俺の手元を覗き込んだ。
「それが、こちらの硬貨ですか」
「はい」
「刻印が、細かいですね」
彼女はお釣りの10円玉を1枚、指先でつまんだ。表に裏にゆっくり返す。
「文字が、円になっています」
「はい」
「穴が、ありません」
「5円と50円にはあります」
「5円と、50円」
復唱して、目を細めた。覚えている。この人は、そういうものを覚えるために来たのだ。
「師匠、行きますよ」
「ええ」
セレスティアは硬貨を返した。名残惜しそうだった。
店を出ると、外はもうすっかり暗い。時刻は16時50分。風が、頬を切った。
◇
18時30分。居間の炬燵を囲んで、夕飯だった。
母が、セレスティアの隣に座ってにこにこしている。箸を渡し、醤油差しを近くに置き煮物の皿を少し押しやる。世話を焼く手つきがもう孫に接するそれだ。
「恒ちゃんの会社の、外国の方なんでしょ。日本語お上手ねえ」
俺は否定も肯定もしない。黙って茶碗を持つ。向かいで父が「おう」とだけ言って、煮魚の骨を取っている。健司は箸を止めた。視線だけが俺とセレスティアのあいだを行き来している。ひよりが横から「ほら、食べなよ」と健司の茶碗を小突いた。
「兄貴、これ、どういう流れだ」
「あとで」
「あとでって、いつもあとでだよな」
「パパ、ご飯粒こぼしてる」
「どこ」
「膝」
健司が慌てて膝を払う。ひよりが笑い、母が「やだ、子どもみたいなことして」と台拭きを投げる。父は黙って味噌汁を啜った。
セレスティアは目の前の味噌汁を両手で包むように持っている。湯気が銀髪の横を上がっていく。彼女は一口、静かに飲んでそれから顔を上げた。
「おいしいです」
「あら、よかった。おかわりあるわよ」
「ありがとうございます。その前に、ひとつ伺いたいのですが」
母が首をかしげる。セレスティアは汁椀を置き、背筋を伸ばした。
「出汁は何分、取るのですか」
「出汁?」
「はい。何を、どの順で、何分煮るのですか」
母は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「出汁はね、朝のうちにぱぱっと取っちゃうのよ。昆布と、あとは顆粒のやつ」
「顆粒」
「そう。便利なの。時間なんて計らないわよ」
「では、味噌は何グラムですか」
「目分量よ」
「目分量」
「そう。味を見て、足りなかったら足すの」
セレスティアは黙った。そして、ゆっくりと俺を見た。紫の瞳が、助けを求めるでもなく確認するでもなく、ただじっと向けられる。
俺は茶碗を置いて言った。
「感覚ですね」
セレスティアは一瞬だけ、本当に一瞬だけ黙った。
「……感覚です、か」
その声は、悔しさでも納得でもなく手のひらで転がして確かめるような響きだった。
「そうよ。料理は感覚と愛情」
母がにこにこと言う。セレスティアは視線を汁椀に落とし、指先でふちをなぞった。三つ編みの先が、ほんの少し揺れる。
父が「おう」ともう一度だけ言い、湯飲みを置く。食卓の上で味噌汁の湯気だけが静かに立っていた。
◇
夜の空気が、縁側の板の間を冷たく滑っていく。俺は戸を半分だけ開けたまま、柱にもたれて座っていた。隣でセレスティアが、ひよりの白いダウンを着たまま、膝に湯たんぽを抱えている。銀髪の三つ編みが、湯たんぽの丸い縁に乗っていた。
「今日は、たくさん見ました」
セレスティアは湯たんぽを抱え直して、順に挙げはじめた。電線が17本あったこと。1本だけ張りが違ったこと。コンビニの棚が夜中でも同じ手順で回っていること。味噌汁の出汁が、目分量でしかも顆粒だったこと。
「手順になったものは、ああやってどこへでも並ぶのですね」
「並びます」
「誰が見ていなくても、記録を残す。決めた量を決めた時刻に。……わたくしたちの魔法と、同じ形です」
彼女は湯たんぽの上で指を組んだ。
「ですが、困ります」
「困る、というと」
「わたくしたちの魔法があの棚に並ぶのは」
セレスティアは顔を上げずに言った。声は静かだが、少し速い。手順の話をするときの速さだ。
「棚に並べば、期限を書かれます。期限が来れば、下げられます。下げる者を誰が決めるのですか」
「決めていないから、会議になります」
「ええ。……そしてエルディアには、その会議の席がありません」
彼女はそこで一度口を閉じた。湯たんぽのお湯が、中で小さく揺れる音がした。
「自分では、断れないのです。だから弟子。あなたの会議で、あなたが渡さなかったものの一覧に、わたくしたちの魔法も入れておきなさい」
紫の瞳が、まっすぐこちらを向いた。隈の下で、光が一点だけ強く見える。
俺は腕時計を見た。21時12分。
「明日の9時に、お答えします」
「……今は」
「今は17時を過ぎています」
セレスティアは一瞬、目を細めた。それから湯たんぽを抱えたまま小さく息を吐く。
「……よろしい。9時ですね」
◇
12月6日(日)9時00分。物置の前は、霜で白くなっていた。
セレスティアは白いダウンを丁寧に畳み、ひよりに返した。ひよりは「あったかくしてね」と言い、師匠は頭を下げた。紺のローブに戻った背中は、やはり冬には薄い。
俺は腕時計を見た。秒針が12を指す。9時ちょうどだ。
「ゆうべの件、入れます」
「よろしい」
セレスティアは短く答え、こちらへ手を差し出した。細い指が重なる。ひやりとして、インクの染みが袖口に覗く。
「では、行きます」
鍵を戸に当て、右へ一度回す。景色が溶けるように揺れた。手を強く握り返す。敷居を越える。
◇
東の森から塔の客員の部屋まで送り、扉を閉める。手を離す瞬間師匠は「9時ですね」とだけ言った。俺はうなずいて、戸を開け直す。戻ると物置の前は9時02分。ひよりはもう母屋へ戻っていた。
自室で手帳を開く。12月8日の頁。『渡さなかったもの』の欄に、ペンを置く。
『エルディアの魔法』
1行目を書いて閉じた。会議まで、あと2日。




