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国際会議の招待状に、質問を1つだけ返した




12月2日(水)10時07分。内閣府の会議室。


真壁がドアを開けて入ってくる。後ろに、外務省の課長補佐が続いた。薄い資料の束を胸に抱え、俺の正面に座る。真壁は壁際の椅子を引いた。いつものグレーのスーツに、いつもの寝癖。目の下の隈だけが、今日は少し濃い。


「志摩さん。外務省の――」


「先日は失礼いたしました」


課長補佐が先に頭を下げた。声は丁寧で、事務的。11月24日の会議で「覚書の範囲外です」と返した相手だ。


「本日は国際会議のご案内について、ご相談に参りました」


机の上に資料が広げられる。A4の紙が4枚。会議の名称、日時、形式、議題。すべて英語とフランス語が並んでいる。課長補佐は1枚目を指先で押さえた。


「12月8日、ジュネーブ時間9時。日本時間では17時からとなります。会議はオンラインで行われます。志摩さんには、この内閣府の会議室からご出席いただく形を想定しております」


俺は黙って資料を見ていた。2枚目は発言者の一覧。3枚目は議事次第。4枚目は、各国の照会事項が細かい字で並んでいる。


「発言の範囲ですが、事前にすり合わせをさせていただければと。技術的な中身に踏み込む前に、まずは事実関係の確認のみ――」


課長補佐は4枚目に手を置き、顔を上げた。


「こちらでお願いしたいのは、招待を受けるかどうかの判断を――」


「質問は1つだけです」


俺は手帳を開いた。12月1日の頁に書いた『定時外』の文字を、指先で一度なぞる。それから閉じて、課長補佐を見た。


「開始時刻を日本時間の9時に変えていただけますか。17時までなら伺います」


会議室が、しんとした。


課長補佐の口が、開きかけて止まる。手に持った資料の角が、ぴくりと震えた。


「……日本時間の、9時、ですか」


「はい」


「それは、ジュネーブの深夜1時になります。ワシントンは前日の19時です」


課長補佐は声を絞り出すように言った。眉がわずかに寄り、資料の4枚目が机の上で静かに反った。


「時差の関係で、先方の実務時間帯に合わせた設定なのですが」


「それは先方の工程です」


「確認させていただきます」


壁際で真壁が付箋だらけの革鞄から薄い紙の束を出した。覚書の写しだ。1枚目をめくり、2枚目を指で押さえて淡々と読み上げる。


「第5条。当室と志摩氏との面談は、定時内(9時から17時まで)に行うものとする」


課長補佐の眉が、わずかに動いた。


「国際会議は、面談ではありません」


「私の部屋から出るのであれば、面談です」


真壁は顔を上げなかった。声の大きさも変えていない。まるで条項の番号を確認しているだけの口ぶりだ。


課長補佐は黙った。資料の4枚目を指先で押さえたまま、視線だけが机の上を滑っている。反論の材料を、彼は今この瞬間に探している。俺にはその手順が見えた。会議の工程表を作る者は、想定外の1行に弱い。


俺は手帳を開き、時刻を書いた。


『12月2日 10時14分 第5条の確認あり』


書いてから、閉じる。俺が言うことはもうない。第5条は俺が11月12日に読んで、読んだ頁に小さく折り目を付けた条項だ。条文は動かない。動かすには双方の承認が要る。


課長補佐が、ようやく口を開いた。


「……各国に、打診してみます」


「お願いします」


俺は答えた。課長補佐は資料を揃え、角を机に2回当ててから束ねた。椅子を引く音がして、扉が閉まる。廊下の足音が3歩で遠くなった。


真壁は覚書の写しを鞄へ戻しながら、こちらを見ないまま言った。


「志摩さん。9時開始で通ると思いますか」


「わかりません」


「でしょうね」


真壁は付箋の端を指で押さえ、小さく息を吐いた。


◇


12月3日(木)16時45分。自室の机で手帳を開いていたところに、スマホが震えた。画面は真壁修司。俺は背もたれを一度戻してから出る。


「志摩さん、真壁です。外務省から戻りました。各国への打診の結果をご報告します」


声がいつもより半音低い。疲れている。だが、どこか弾んでいるようにも聞こえた。


「お願いします」


「まず、返事が来ない国が2つ。時差の計算を3回確かめ直してきた国が1つ。計算式を送ってきたのが1つ」


「計算式を」


「はい。『日本時間9時は当国時間の何時か』という式が、丁寧な表になって送られてきました。こちらで計算し直す必要がないので助かりましたが」


真壁は少し笑った。疲れているのに笑った。俺は手帳を開き、日付と時刻を書く。


「米国は」


「理由を聞いてきたのは、米国だけです。『深夜に開く理由を説明せよ』と」


「それで」


「1行で返しました。『当事者の勤務時間です』」


俺はペンを止めた。真壁の声は淡々としていたが、その1行を書いたときの指の動きが目に浮かぶようだった。付箋だらけの鞄からペンを出し、短く書いてすぐに送ったのだろう。迷いのない仕事だ。


「返事は」


「まだです。ですが、送った瞬間に『ああ、これは通るな』と思いました」


「なぜ」


「あの1行に、付け足すものがなかったからです」


俺は手帳に書いた。


『12月3日 米国照会 深夜理由の説明要求 回答:当事者の勤務時間です』


書いてから、閉じる。真壁が電話の向こうで小さく息を吐いた。


「志摩さん。今の時刻、16時59分です」


「はい」


「定時ですね」


「定時なので失礼します」


「お疲れさまでした」


電話が切れた。画面の通話時間は14分。俺は手帳を閉じ、スマホを机に伏せた。明日は金曜。戸は開けない。


◇


12月4日(金)15時02分。内閣府の会議室。


外務省の課長補佐がA4の紙を1枚、机の真ん中に置いた。おとといの資料より薄い。各国名と、会議時刻を現地時間に直した欄が並んでいる。数字だけの一覧だ。近隣国の行を除けば、どの行も夜か深夜の数字が並んでいた。


「各国の回答が、そろいました」


課長補佐の声はおとといより少しだけ小さい。一覧を指で押さえたまま、しばらく黙った。それから絞り出すように言った。


「……来るんですか、全員」


俺は一覧を見た。ワシントン前日19時。ジュネーブ1時。近隣国だけが朝の8時。ほかはどの国も、勤務時間の外だ。


「はい」


俺は答えた。特に感慨はない。工程が通っただけだ。


「定時内でしたら、どなたでも」


課長補佐は顔を上げた。口が開きかけて、止まる。おとといと同じ動きだ。想定外の1行に、彼の工程表がまだ追いついていない。


「……ジュネーブは深夜1時から、ワシントンは夜通し、この会議に出る、と」


「そういう回答をいただいたという理解でよろしいですか」


壁際の椅子で真壁が言った。課長補佐は一覧へ目を落とし、小さくうなずく。


「はい。全員、出席で返してきました。開始時刻の変更は、受け入れられました」


課長補佐は一覧の端を指で押さえたまま、絞り出すように言った。


「議題の当事者が出ない会議は、開く意味がない。……各国とも、そういう回答です」


「では、変更の手続きをお願いします」


俺は手帳を開いた。12月1日の頁。『定時外』と書いた文字の上に、定規を当てるようにまっすぐ二重線を1本引く。その横に、同じ字の大きさで書く。


『9:00〜17:00』


「12月8日(火)、日本時間9時から17時まで。ジュネーブ時間1時から9時まで」


課長補佐は一覧の端にペンを走らせながら、小さく息を吐いた。


「……時差の表を、作り直します」


「お願いします」


課長補佐は同じ手つきで資料を束ねた。扉が閉まる。廊下の足音が、おとといより少しだけ速く遠くなった。


真壁が付箋だらけの鞄を閉じながら、こちらを見ないまま言った。


「志摩さん。ジュネーブは深夜1時に起きて、ワシントンは朝3時まで寝られませんよ」


「そうですね」


「それだけのことを、言ったんです」


俺は手帳を閉じた。言ったのは1行だ。1行で足りることは、1行で言う。


◇


12月4日、ジュネーブ。夜。


ホテルの一室のカーテンは閉じられていた。窓の外の湖は見えない。机の上には昼に届いた一覧が広げられ、蛍光灯の白が紙の縁を少し眩しくさせていた。若い随行員は上着を椅子の背にかけ、袖口を直した。一覧の端には各国の返信が並んでいる。出席、出席、出席。欠席の文字は1つもない。彼はその並びを指でなぞり、それから手を離した。数字を時刻として読むのに、少し時間がかかった。


「深夜に会議を開くために、こっちは寝不足になるのか」


「決まったことだ。言っても始まらない」


「いや、これは面白いよ。向こうは平然としているんだろう」


「平然としているかどうかは、会ってからの話だ」


若い随行員は黙って聞いていた。誰も、欠席にしようとは言わない。文句は出るのに、席は空かない。それが奇妙だった。椅子のきしむ音が一度して、それきり部屋は静かになった。空調の音だけが低く続いている。


年配の代表が窓際の肘掛け椅子から身を起こした。資料を膝に置いたまま、若い随行員を見た。


「向こうは朝の9時に、普通に出勤してくるのか」


若い随行員は答えなかった。答えられる材料が、一覧のどこにもなかった。彼は受話器を取り、フロントの番号を押した。指先が少し冷たかった。


「ルームサービスをお願いします。当日の0時に、コーヒーを4杯」


「0時、でございますか」


「はい。8日の0時です」


「……4日後の、0時に、4杯ですね」



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