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物置の中身を誰も知らないまま、各国の会議が始まった




11月29日(日)23時。


外務省の小会議室には3人分の椅子しかなかった。机の上に据えたカメラの向こうで、画面が4分割されている。左上にワシントン9時、右上にジュネーブ15時、左下に時差の読めない数字、右下に東京23時。画面の隅の時計は、どの窓も同じ秒数を刻んでいない。


課長補佐は資料の角を指で押さえ、カメラに映らない位置で息を吐いた。この会議の議題は、ひとつの物置である。


「遺憾である」


ワシントンの担当者が先に口を開いた。声は回線越しに少し遅れて届く。


「我が国の企業の関係者が、一方的に拘束された」


「訂正させていただきます」


課長補佐は顔を上げずに言った。声は自分の想像より落ち着いていた。


「侵入したのは御国の企業の関係者です。拘束ではなく、住居侵入の疑いによる任意の同行です。手続きは日本の法令に沿っております」


画面の向こうで、担当者の口元が一度動いて止まった。


「……社員かどうかは、確認中だ」


「確認が取れ次第、ご連絡ください」


それきり、ワシントンは黙った。課長補佐は内心で、会議の工程表に1本消えない線を引いた。この論点はもう戻ってこない。


ジュネーブが咳払いをひとつした。


「我々が懸念しているのは、拘束の是非ではありません」


穏やかな声だった。穏やかなぶん、包丁に近い。


「あの技術が、一国の管理下に置かれることです。日本だけではありません。民間企業が単独で保有する形も、我々は望まない」


わずかに間が空いた。ワシントンの窓が、反応しないことで反応した。課長補佐はメモの余白に、誰も読まない字で「米企業にも矛先」と書いた。


「日本だけが持つのは不公平だ」


左下の窓が言った。声は若く早口で、語尾だけ丁寧に整えられている。


「我々の国にも、隣にも、同じものがあるべきだ。そうでなければ地域の均衡が崩れる」


「均衡という言葉を、もう一度お願いできますか」


課長補佐は言いながら、自分の声が平坦なのに気づいた。相手は答えなかった。答えないことで、答えた。


「確認したい」


ジュネーブが仕切り直す。


「その……物置の、持ち主は誰なのか」


「持ち主に、確認中です」


真壁が言った。それだけだった。寝癖のまま、目の下の隈を動かさず、彼はそれ以上なにも足さない。


課長補佐は5日前の会議を思い出していた。あの男は「覚書の範囲外です」とだけ言い、それ以上は何も足さなかった。いま真壁が口にした「確認中です」は、あの言い方と同じだった。彼はメモの余白に小さく丸を付けた。


「役職は」


「確認中です」


「氏名は」


「確認中です」


「連絡先は」


「確認中です、では不足ですか」


真壁は淡々と問い返した。画面の4つの窓が、それぞれ違う沈黙を並べた。


課長補佐は資料の最後の頁に目を落とした。合意できる項目はひとつしかない。そこへ持っていくのが、今夜の自分の工程だ。


「本日は、1点だけ決めさせていただきます」


彼は顔を上げた。4つの時計が、まだ1秒も揃わない。


「当事者を招いた国際会議を開きます。日程と形式は、事務方で調整します」


異議は出なかった。出せる材料を、誰も持っていなかった。


回線が切れる。部屋に残ったのは、空調の音と、真壁が手帳を閉じる音だけだった。課長補佐は上着の内側で、指先が冷たくなっているのを感じた。


◇


11月30日(月)午前9時12分。Helix日本法人のオフィスは、平日の朝の音に満ちていた。キーボードを叩く音、電子レンジの短い報せ、誰かが交わす英語の挨拶。エヴァ・ローレンスは自分の机で、ノートPCの画面を開いていた。


画面にはニュースサイトの見出しが並んでいる。その一つに、彼女の目が止まった。


【米企業の社員を名乗る男を逮捕 住居侵入の疑い】


記事の本文は短い。氏名、年齢、所属は確認中。エヴァはスクロールを止め、指をキーボードから離した。灰青色の目が、しばらくその1行を追い続けていた。左手首の細い腕時計が、9時14分を指している。


彼女はバッグから名刺入れを出した。硬い紙の端を摘まんで引き出す。手帳から破った切れ端。細い数字で書かれた携帯の番号。それをしばらく見つめてから、机の上に裏返して置いた。


メールソフトを開く。宛先は本社の上司。件名は空欄のまま。本文欄に、エヴァは1行だけ打った。


『担当を外れましたので、本日付で退職いたします。お世話になりました』


送信ボタンを押す。確認の小窓が出て、消える。送信済みの表示が静かに点灯した。


それから、エヴァは共有フォルダを開き、自分の名前で作成した接触記録と照会の経緯だけを選んでいく。10月のラウンジでの面会。11月の、内閣府への照会。社内の見積もりも、技術資料も、彼女の手が触れただけの書類は選ばない。選んだ頁をPDFにまとめ、内閣府の真壁修司宛ての新規メールに添付した。


件名は「参考情報の共有について(ローレンス)」。本文は3行。挨拶と、添付の説明、それから1行。


『この方は、定時内に正面から頼めば会う人です』


送信を押す前に、彼女は指を止めた。本社に残る記録は、いずれ消される。だが送信履歴は残る。それでいい、と思った。押した。


バッグを閉じる前に、机の上の切れ端を拾い上げた。細い数字の並びを、もう一度だけ見る。捨てる理由はなかった。名刺入れの硬い紙の束の間に、そっと差し込む。左手首の腕時計は9時31分を指していた。


ノートPCを閉じ、椅子を戻す。島の向こうで誰かが「エヴァ?」と呼んだが、振り返らなかった。オフィスの扉を開け、廊下へ出る。エレベーターの前で、彼女は一度だけ鞄の重さを確かめた。


◇


12月1日(火)16時過ぎ。


父が、物置の戸の前に立っていた。健司は腕組みをしたまま、俺の顔を見ている。ひよりはスマホを両手で握って、時々画面をちらりと見下ろした。


俺は3つ、報告することにした。順番は起こった順でいい。


「ハリスは、まだ所轄で身元の確認中だ。おとといの夜、各国のオンライン会議があった。議題は、この物置だ」


「……物置が、会議の議題って」


「あたしたちの物置だよね、それ」


「兄貴、それで国はなんて言ってるんだ」


「おじさん、まだ戸を開けるの?」


俺は、ひよりの握ったスマホを一瞥してから答えた。


「ああ。予定は変えない。それが3つ目だ」


「登録者、62万になってた」


ひよりが、ぽつりと言った。配信はしていない。それでも数字だけが勝手に増えている。画面の向こうで、誰かが待っている。


「そうか」


父が、初めて口を開いた。健司が横で小さく息を吐く。


「鍵は、持ってるんだな」


俺は返事の代わりに、胸ポケットへ手を当てた。真鍮の鍵が、布越しに指の形を確かめるように沈んでいる。


居間に戻ると、台所から油の跳ねる音がしていた。母がフライパンを振りながら、テレビをちらりと見る。


「恒ちゃん、このニュース見た? 住居侵入だって。しかもパトカー、うちの近所まで来てたんでしょう。なんだか物騒になったねえ」


母は菜箸を動かしたまま、くるくるとよく喋る。


「裏の家の足場の人が、捕まった」


俺は短く答えて居間の椅子に腰を下ろした。事実だけを言った。工程で言えば、これ以上伝える必要はない。母には物置のことも、鍵のことも、アークのことも知らせていない。知らないままのほうが、この家の平穏は保たれる。


「足場の人って、あの若い人たちかい。ああ見えて悪い人だったんだねえ。近所で捕まるなんて、世の中ままならないねえ」


「そうだな」


「あんたも気をつけるんだよ。最近は物騒だから」


「気をつける」


母はフライパンの中身を皿に盛りながら、ニュースの続きを追っている。俺は湯呑みに残った茶を一口飲んだ。渋みが舌の上でゆっくり広がる。


「夕飯、もうすぐできるから」


「わかった。部屋に上がる」


俺は椅子から立ち、台所の横を通って階段へ向かう。一段目に足をかけたところで、母が後ろから声をかけた。


「あんた、最近疲れてない?」


「平気だ」


「そうかい」


母の声には、それ以上の追及がなかった。俺は2段、3段と上がる。足音が静かな家の中に規則正しく響いた。


自室に戻ると、窓の外はもう茜色だった。俺は机の前に座り、引き出しを開けた。奥から父に借りた旋盤用のルーペを取り出す。黒い枠で、レンズに小さい傷が1本ある。


胸ポケットから鍵を出す。手のひらに載せて、ルーペを当てる。持ち手の刻み目が2本。その横に、読めない小さな文字が3つ。拡大しても、やはり読めない。線が細すぎる。というより、文字なのか模様なのかも判然としない。


3文字の並びを見ていると、妙な既視感があった。アークの壁面パネルの隅に、似た形の印があった気がする。目に入っただけで、手帳には書かなかった。


俺はルーペを置いた。推理はしない。現場で確認できることだけを書く。手帳にも、パネルの印のことは書かない。書けば、誰かが読み解こうとする。まだ、その工程は組まれていない。


鍵を胸ポケットへ戻す。ルーペを引き出しに戻し、静かに閉じた。窓の外で、カラスが1羽、電線から飛び立った。17時まで、あと3分。


俺は背もたれに体重を預けた。胸ポケットの中で鍵が、呼吸のたびに肋骨へ小さく当たる。


ふと、エルディアの塔の棚に置いたままの空き缶のことを思い出した。錆びた缶コーヒー。テープで印を付けて、袋に入れたままだ。考えが缶のほうへ行きかけて、すぐにやめる。今日は戸を開けない。開かない日に、向こうの持ち物を数えるのは無駄だ。


スマホが短く震えた。画面を開くと、真壁からの転送メールだ。件名は【国際会議のご案内(案)】。添付された招待状のPDFを開く。発出元は外務省経由、会議名は英語とフランス語が並んでいる。議題の欄は『Anomalous Storage Facility and Related Phenomena』。要するに、うちの物置だ。


日時の欄へ目を落とす。


『日時:12月8日(火) ジュネーブ時間9時(日本時間17時)〜』


ジュネーブの9時は向こうの始業。日本の17時は、こちらの終業だ。


向こうの一日の始まりに、こちらの一日の終わりを重ねてきたわけか。招待状の文面は丁寧だが、工程の組み方に遠慮がない。俺は手帳を開き、日時の欄の横に小さく書く。


『定時外』


返信はしない。腕時計が16時59分を指している。

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