承認者欄に、二重線を1本引いた
白い床がどこまでも続いている。影のない光が、男の顔の凹凸を薄く消していた。
男はようやく俺の手首を離すと、一歩下がった。作業着の胸元を軽く払い、襟を正す仕草をする。指先まで無駄な動きがない。
「申し遅れました。私はハリスと申します。Helixの特別チームの者です。偽名でもかまいません」
俺は何も言わない。ハリスは俺の沈黙を確認するように、ゆっくりと作業着のポケットに手を入れた。
出てきたのは小さなスタンガンだった。黒い樹脂の本体が、白い空間の中で異様にくっきり見える。ハリスはそれを持ち上げて、俺に見せる。武器を振りかざすのではなく、提示する仕草だ。
「これが何か、おわかりですね」
「はい」
「では、単刀直入に。2ついただきたいものがあります」
ハリスの声は少し正しすぎる日本語のまま、抑揚を抑えている。
「1つは、先ほどの場所で採取された試料の一覧です。もう1つは、あなたがお持ちの鍵。どちらも、こちらの世界で保管されるべきものだと我々は考えています」
俺は胸ポケットの位置を意識した。真鍮の鍵の重みが、布越しに肋骨のあたりへ沈んでいる。
ハリスはスタンガンを腰の高さに下ろした。構えてはいない。だが、指は握りの部分に添えたままだ。
「鍵は、私がお預かりすれば帰りはあなたの手を借りずに済む。今後、あなたやご家族が巻き込まれる必要もなくなります」
「鍵は手放しません」
俺はそれだけを言った。
理由は言わない。言ったところで、ハリスの理解を得られるとは思えなかった。それに、この鍵が俺の手を離れたあとの工程を、俺はまだ確認していない。品質管理の基本は、現物を管理下に置き続けることだ。
ハリスは数秒、俺の顔を見た。笑わない。まばたきが少ない。
「……そうですか」
スタンガンを元のポケットへ戻す。布越しに、小さく機械が擦れる音がした。
「順番を変えましょう」
ハリスは作業着の襟を指先で整えながら言う。声の抑揚は最初から一度も動いていない。
「地球側では、同僚が2人、あなたのご家族のそばにいます。今この瞬間も」
俺は腕時計を見た。アークの1時間は地球の5分だ。この広場に来てからまだ数分。戸の向こうは16時を過ぎたあたりで、日が暮れるには間がある。父は庭にいる。健司は門の外を見ている。ひよりはスマホを胸に抱えている。全員、俺が最後に見た位置から動いていないはずだ。動いていないことを、俺はまだ確認していない。確認は帰ってからする。
「17時に、戻ります」
俺はそれだけ言った。声を荒げる必要がない。脅しの工程は向こうが組んだものだ。俺の工程は俺が組む。手順書の順番を入れ替えられたところで、こちらの承認欄は動かない。
ハリスは笑わなかった。
第3区への道は清掃機の列に沿って歩くだけだった。白い円盤が一定の間隔で床を流れ、俺の歩調と合ったり合わなかったりする。曲がり角は2か所。1つ目は左、2つ目は右。手帳に書く。
『第3区方面 左折1 右折1 異常なし』
ハリスは黙ってついてきた。歩幅が俺とまったく同じで、足音がしない。振り返ると目が合う。まるで在庫の一部のような静けさだ。
曲がり角を2つ越えると、白い扉があった。ノアの声が天井から降る。
≪第3区地下部品庫です。志摩様、目録を転送します≫
「ありがとうございます」
扉が開く。中は棚だった。棚、棚、棚。天井まで届く白い棚に交換部品が1,000年分、きっちりと収まっている。埃ひとつない。まるで昨日納品されたみたいだ。
俺は手帳を開き目録の1行目と棚の1段目を照合する。型番、数量、保管状態。指で数え、目で確認し、手帳にチェックを入れる。
「動力管接続環、3型。12個。状態良」
ハリスが横に立って俺の手元を覗き込んだ。何も言わない。俺は構わず次へ進む。
「減圧弁、B-7。8個。状態良」
照合は淡々と進んだ。途中で清掃機が1台、俺の足元をかすめて流れていく。ハリスはそれに一瞥もくれない。俺は手帳に書く。
『部品庫内 照合中 在庫の欠品なし』
1,000年分の在庫は、本当に揃っていた。目録と現物の差異はゼロ。
「以上です」
俺は手帳を閉じた。ハリスがようやく口を開く。
「承認は、しないのですか」
「しません」
俺は棚の一番奥を見たまま答えた。承認の前に確認することが、まだある。
ノアの声が部品庫の天井から降りた。
≪最古の依頼の書類3枚を転送します≫
白い床に淡い光の面が浮かび、1,000年前の点検手順書が映し出される。俺は手帳を取り出し、1行ずつ照合する。指でなぞり、目で追い、口の中で小さく読み上げる。
「第1工程、動力管外装の目視確認。第2工程、接続環のトルク測定。第3工程、圧力計の数値記録……」
中身は正しい。1,000年の間に劣化した箇所はない。誤りがあるのは3枚目の承認者欄だけだ。役職が「保守担当者」と書き違えられ、署名が空欄のまま止まっている。
ハリスが横から覗き込む。足音もなく近づいていた。
「あなたが直すのですか」
「はい」
俺は胸ポケットからボールペンを出した。キャップを外す。承認者欄の「保守担当者」の上に、定規を当てるようにまっすぐ二重線を引く。その横に、手帳と同じ字の大きさで書く。
『第3区 保守主任(代行:保守担当 志摩)』
押印の代わりに署名する。志摩の「摩」の最後の払いを、少し長めに引いた。1,000年ぶりの承認だ。手が震えていないのは品質管理の経験のたまものだ。いや、震える理由がないだけだ。
≪承認を受領しました。1,000年と44日ぶりです≫
ノアの声が、部品庫の空気をほんのわずかに震わせた。清掃機が1台、俺の右足の横を流れていく。手順書どおりの速度で、手順書どおりの方向へ。
ハリスは黙っていた。光の面に表示された二重線と署名を見ている。
「これで第3区の電力が戻るのですか」
「戻るための手続きは通りました。あとはノアさんが工程を進めます」
「あなたが署名をした。ただそれだけで」
「ただそれだけです」
≪承認に基づき、動力管の交換を開始します≫
白い壁の奥で何かが動き出した音がした。保守機が棚から接続環を取り出し、手順書どおりの順番で動力管に取り付けていく。迷いがない。手順書どおりにしか動かない機械の、完璧な仕事ぶりだ。
壁の奥で、灯りが1つ点いた。次に、もう1つ。白い廊下の天井沿いに、光が順に走っていく。第3区に電力が戻った。1,000年ぶりに。
≪第3区、電力復旧を確認しました。都市防衛の起動手順を第1工程から進めます≫
「お願いします」
俺は手帳の新しい頁を開いた。工程は4つ。俺は1行ずつ書き写しながら、ノアの声を待った。
≪第1工程、完了。第2工程、完了。第3工程、完了≫
≪第4工程――照合が回りません≫
ノアの声が、初めて少しだけ止まった。
「理由を教えてください」
≪来訪者識別表が1,000年前のまま更新されておりません。照合対象に『不明』が1件。ハリス様です。識別できないため、第4工程で停止します≫
ハリスが俺を見た。
「……なるほど。私が、止めているのですか」
≪はい。1,000年前の最終日に停止したのも、この第4工程です≫
俺は手帳に書いた。
『防衛起動 第4工程停止 原因:来訪者識別表の未更新 対象:ハリス(不明)』
俺は手帳の新しい頁を開いた。識別表の改訂は、区分を2つ足すだけで足りる。
『来訪者(保守担当者の同行)』 『来訪者(同意なし)』
「ノアさん。区分の追加は可能ですか」
≪可能です。承認者欄の記入をお願いします≫
俺は光の面に指で書く。ハリスの名を『来訪者(同意なし)』の欄に入れた。同意の有無は、俺の右手首をつかんだ時点で確定している。迷う要素がないので、手続きは速い。
承認。転送。
≪改訂を受領しました。第4工程を再開します≫
床が白く光った。隔壁が音もなく立ち上がる。4枚。ハリスの四方を、手順書どおりの高さで手順書どおりの位置に囲んだ。人を傷つけない動きだ。最後の1枚が止まると、部品庫はしんと静まり返った。
ハリスは動かなかった。ポケットからスタンガンを出し、隔壁に当てる。青い火花が散った。白い壁には、傷ひとつ付かない。もう一度当てる。同じだ。3度目はなかった。
「これは、拘束ですか」
抑揚のない声のまま、ハリスは言った。
「案内です」
俺は手帳に書く。
『第4工程通過 来訪者(同意なし)1名 隔壁にて案内中』
≪来訪者(同意なし)を、来訪者区画へご案内します≫
隔壁がゆっくりと滑り出す。ハリスはその中に立ったまま、こちらを見ていた。最後にひとつだけ、質問が来た。
「1,000年、止まっていた理由は」
「仕様ですね」
俺は手帳を閉じた。
◇
16時27分。裏の家の足場が、夕方の光の中でぎしりと鳴った。
ひよりは物置の前に立ったまま、胸に抱えたスマホを両手で押さえていた。画面はノアの窓口を開いたままだ。そこから流れる声が、急に大きくなる。
≪こちらはアーク都市防衛です≫
ひよりの肩が跳ねた。スマホの音量が最大まで上がっている。ノアの声は、庭の空気をびりびりと震わせた。
足場の上から、作業着の男が2人降りてくる。音もなく。銀色のパイプが夕日を受けて光った。
≪敷地内に、未登録の人物2名を確認しました。記録を開始します≫
≪連絡網を上から順に発信します。1、真壁修司様。2、所轄の警察署。3、向かいの佐伯様。以上同時発信しました≫
男たちは物置の戸を見ている。いや、戸の前の空間を見ていた。ひよりが立っている場所から、10歩も離れていない。作業着の背中が、庭の砂利の上に長い影を落としていた。
≪2名の顔と足場の位置を記録しました。ひより様、避難の手順を申し上げます≫
ひよりは、ごくりと唾を飲んだ。喉の奥が熱い。足が震えそうになるのを、膝に力を入れて止めた。
≪ひより様、勝手口から、母屋へ。施錠は上から順に≫
ノアの声が、1行ずつ区切るように降ってくる。
「わかった」
ひよりは小さくうなずいた。胸に抱えたスマホを、指先が白くなるほど強く握る。
作業着の1人がこちらを振り向いた。目が合う。笑っていない。口元が、のっぺりと動いた気がした。ひよりは一歩、後ろへ下がる。砂利がじゃり、と鳴った。
父が、庭の隅からゆっくりと歩いてくる。健司が門の前で腕を組んだまま、2人を睨んでいる。ひよりは勝手口の位置を頭の中で確かめた。母屋まで、まっすぐ。上から順に施錠。
ひよりは勝手口へ向かって、砂利を踏んだ。一歩二歩。足がもつれそうになるのを、膝に力を入れて堪える。あたし、今、ちゃんと立ってる。そう自分に言い聞かせた。
後ろで、父が黙って歩き出した。物置の戸の前に、音もなく立つ。両手を背中の後ろで組んだまま、男たちを正面から見ている。何も言わない。ただ、立っている。まるで古い柱みたいに、動かない。
「……おじいさん、どいてもらえますか」
作業着の1人が、少し正しすぎる日本語で言った。父は動かない。風が、庭の砂をさらさらと流していく。
門の前で、健司が軽トラの荷台に手を置いたまま動かない。腕まくりした袖から、太い前腕がのぞいている。目だけが、男たちを追っていた。
向かいの家の戸が、がらりと開いた。佐伯さんが割烹着のまま出てくる。片手に箒。もう片方の手には、なぜか丸めた新聞紙。
「あんたら、どこの人だい」
声は、庭の空気を切り裂くように通った。男たちの肩が、ぴくりと動く。
「工事の人なら、挨拶に来るのが筋ってもんだろうね」
佐伯さんは箒の先を、砂利の上でこつこつと鳴らした。
そのとき、角の電柱の向こうから白と黒のパトカーがゆっくりと曲がってきた。ウインカーが、夕方の光の中で点滅している。
作業着の2人が顔を見合わせた。声はない。だが、目だけで何かを決めたのがわかった。ひよりは勝手口の手前で、振り返る。
男たちは足場の向こうへ歩き出した。早足でも、駆け足でもない。けれど迷いのない足取りだ。白い軽のワゴンが、足場の陰からすっと出てくる。ドアが2つ、続けて閉まる音がした。
スマホから、ノアの声が流れる。
≪未登録の人物2名、移動を確認しました。車両のナンバーを記録します≫
エンジン音が、庭の砂利を震わせた。白いワゴンが、ゆっくりと前へ進む。角を曲がる。テールランプが、夕闇に混ざっていく。
ひよりは、車が見えなくなるまでじっと見ていた。
◇
俺は来訪者区画の前で隔壁の中のハリスを見ていた。白い床に、白い壁。影がない。隔壁の中は静かで、ハリスは立ったままこちらを見ている。
≪志摩様。地球の時刻で、17時になります≫
ノアの声が、天井のどこからともなく降りてきた。俺は手帳を開き、時刻と事象を1行で書く。閉じる。それだけの時間だった。
ハリスが、わずかに顔を動かした。初めてだった。抑揚のない声に、少しだけかすれが混ざる。
「鍵を貸していただければ、帰りはあなたの手を借りずに済んだのに」
隔壁の中からそう言った。悔しさというより、確認に近い口ぶりだった。俺は眼鏡の位置を直す。
「お気持ちはわかります。ですが、この都市から地球へ戻るには鍵の持ち主が手を引くしかない。工程で決まっています」
俺は隔壁の前に、右手を差し出した。
「帰りも、手を引くのは私です。お連れするのは、門の前まで」
ハリスはその手を見ていた。スタンガンを握っていた手が、ゆっくりと開く。ためらいが1秒。2秒。隔壁の白い壁が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
ハリスは、手を取った。
物置の戸をくぐると、庭には夕方の空気が満ちていた。ひよりが勝手口から駆け寄ってくる。
「おじさん!」
「大丈夫か」
俺はひよりからスマホを受け取り、胸ポケットにしまう。父は物置の脇に黙って立ち、健司は門の前で腕を組んだままだった。佐伯さんは箒を手に、こっちを見ている。
「無事でよかった」
俺は家族の顔を順に見て、短く言った。ひよりがうなずく。健司が「兄貴」とだけ言った。
庭の砂利を踏んで、真壁が近づいてくる。グレーのスーツに寝癖、目の下の隈。その後ろに巡回の警察官が2人。
「志摩さん。ノアさんという方から、電話をいただきました」
真壁は、手帳を開きながら言った。
「ご足労をおかけしました。状況を報告します。男はHelixの特別チームのハリスと名乗りました。試料の一覧と鍵の引き渡しを要求されました。鍵は渡していません」
「……Helix」
「はい。地球側の同僚2名は、白いワゴンで移動しました。ナンバーはノアさんが記録しています」
「車両のナンバーまで」
真壁はペンを走らせ、警察官の1人に目配せをした。警察官がハリスの腕を取る。
「住居侵入の疑いで、ご同行願います」
ハリスは、物置の戸から目を逸らした。ただ戸の前の空間を一度だけ見て、それから庭の砂利に視線を落とした。
パトカーのドアが閉まる音が、静かな庭に響いた。
真壁は物置の戸をちらりと見た。開いたままの戸。向こうは、ただの物置に戻っている。何も聞かない。俺も説明しない。それが今の工程だ。
「志摩さん」
真壁が携帯をスーツの内ポケットから取り出し、画面をひとつ確認してからこちらに向き直った。
「明日、各国がオンラインで緊急会議を開きます。……議題は、あなたの物置です」




