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土曜の16時から1時間、戸を開けると家族に言った




11月26日(木)の夕方、空はまだ明るかった。俺が門の前で鍵をポケットにしまっていると、軽トラの音がして健司が車を寄せてきた。


「兄貴、おかえり」


健司は運転席から降りるとなぜか俺の顔ではなく、裏の家の外壁を見上げた。塗装の足場が、白い壁に沿って四角く組まれている。作業の音は、今日もしていない。


「あの足場、組んだのは素人だぞ」


健司がぼそりと言った。


「壁際に寄せすぎだ。塗る気がない」


俺も足場を見た。銀色のパイプが夕日を受けて、まぶしかった。足場板の高さも、窓の位置も俺には判断がつかない。健司には分かるのだろう。工務店で何年も、建物の外側を見てきた目だ。


「いつからだっけ」


「24日からだ。音は一度も聞いていない」


健司は腕を組んで、もう一度足場の下の方をながめた。靴先でアスファルトを軽く叩く。


「頼んだのが誰か、聞いたか」


「聞いてない。張り紙もない」


「変だな」


健司はそれだけ言うと、俺の顔を見た。


「兄貴、昨日も物置に行ったのか」


「ああ。道を確かめただけだ」


「何かあったか」


俺は少し迷った。スマホの画面に、熱源が3つと出たことを言うかどうか。いや、まだ事実が少ない。熱源という言葉だけで、家族を騒がせる段階ではない。


「何もなかった」


「そうか」


健司は軽トラの鍵を回しながら、門の方を向いた。俺も歩き出す。庭の砂利を踏む音が、やけに大きく聞こえた。


そのとき、目の端に黒い影が入った。角の電柱の向こうに、宅配の車が停まっている。黒いワゴンだ。ハザードも出していない。運転席に人影は見えない。荷物を届けている様子もない。


俺は立ち止まった。


「どうした」


「あの車、さっきも同じ所に停まってた」


健司が振り返って、角の方をのぞき込む。


「宅配か」


「分からない。荷物を持ってる様子がない」


「このへん、路駐うるさいからな。佐伯さんがすぐ通報するぞ」


健司は笑いながら言ったが目は笑っていなかった。俺は手帳を胸ポケットから出して、開いた。


『16時18分 裏の家の足場 作業音なし 角に黒いワゴン 運転席に人影なし』


ボールペンで書いて、手帳を閉じる。胸に戻す。心臓の音は、別に速くなっていない。でも頭のどこかが静かに冷えていた。何も起きていない。ただ、小さな違和感が砂利の上に一枚ずつ積もっていく。


健司がぽつりと言った。


「あの足場、素人なら材料はどこから出したんだろうな。塗装屋に頼んだら、ああは組まない」


「24日、お前はあの家の前に車を見たか」


「見てない。帰ったら、もう組んであった」


俺たちは門をくぐった。庭の物置が、夕日を背にして黒く立っている。物置の戸は、今日も閉まっていた。


◇


11月27日(金)朝7時台の居間は味噌汁の匂いとニュースの音でごった返していた。母が「恒ちゃん、玉子焼き焦がしちゃった」と笑い、父が新聞の裏から「おう」と応える。平和な工程だ。俺は味噌汁を啜りながら、頭の中で今日の段取りを並べていた。9時に真壁さんへ電話。


そこへ階段を駆け下りる音がした。ひよりだ。制服の袖を片方通しかけて、スマホを俺の顔の前に突きつけてくる。


「おじさん、ちょっとこれ」


「朝から画面が近い」


「いいから」


ひよりは居間のテーブルにスマホを置いて、ゆうべの配信のアーカイブを再生した。画面の中のひよりは元気に喋っている。その下を、コメントが流れていく。登録者58万の配信だ。文字の速さも半端ではない。


「ここ」


ひよりが指で止めた。画面の下の方、流れの端に一瞬だけ残った一行。


《おじさんの家の上、ドローン飛んでない?》


俺は箸を置いた。


「これ、いつ」


「配信の21時40分ごろ。消える前に切り抜いておいた」


「消えた?」


「うん。投稿者がすぐ消したみたい。普通は残るんだけど」


俺は胸ポケットから手帳を出して、開いた。ボールペンを外す。


『11月26日21時40分 ひよりの配信にコメント 「家の上、ドローン」 投稿後まもなく削除』


書いて、顔を上げる。


「他に同じことを書いた人は」


「いない。あと、この人のアカウント作られたの先週だった」


ひよりは小声で言った。配信で俺の名前を出さない子だ。こういう時だけ、声が低くなる。


「先週、というと」


「24日より前」


俺は手帳のページを少し遡った。24日、足場。25日、熱源3つ。26日、コメント。並べると日付が一本の線になる。線は、うちの庭の方を向いている。


「おじさん、窓見て」


ひよりが顎で居間の窓を指した。俺は立ち上がって、カーテンの端を指でめくった。


朝の光の中、角の電柱の向こうに黒いワゴンが停まっている。昨日と同じ場所だ。ハザードは出ていない。運転席に人影は見えない。佐伯さんの白い割烹着が、向かいの玄関先でちりとりを構えているのが見えた。


俺は手帳に書き足した。


『11月27日7時52分 角に黒いワゴン 26日16時18分と同じ位置 運転席に人影なし』


手帳を閉じる。胸に戻す。


「ひより。今日の配信は」


「夜の予定。でも、しばらく家の外映さない方がいい?」


「そうしてくれ。あと、窓から外を撮るのも」


「わかった」


ひよりはスマホを制服のポケットにしまった。それから少し迷って、俺の顔をのぞき込んだ。


「おじさん、怒ってない?」


「怒ってない。記録してるだけだ」


「それ、怒ってる時と同じ顔だよ」


母が台所から「ひよりちゃん、ごはん!」と呼んだ。ひよりは「はーい」と走っていった。俺はカーテンを戻して、味噌汁の椀を手に取った。


9時ちょうど、俺は自室の机にスマホを置き、真壁さんに電話をかけた。呼び出し音が3回鳴って、低い声が出る。


「はい、真壁です」


「志摩です。おはようございます。いくつか報告です」


俺は手帳を開き、日付の若い順に読んだ。24日、足場。25日、防犯の仕組みが熱源を3つ感知。26日、配信へのコメントと削除。27日、黒いワゴンが同じ位置に停車。


声の調子は変えなかった。時刻と事実だけを、工程表を読み上げるように並べる。途中で何度か、真壁さんの「はい」が挟まった。


「犯罪の構成要件がないと、警察は動けません」


真壁さんは、こちらを突き放すのではなく確認するような口調で言った。俺は「承知しています」と返した。


「ですから、これは記録としてお伝えする形です。現時点で被害はありません。家の敷地に入られた事実もありません」


「……所轄に、巡回だけ頼んでおきます。黒いワゴンのナンバーは、おわかりになりますか」


「すみません、角度が悪くて見えませんでした。今度見えたらお伝えします」


「ええ、無理はなさらないでください。停車位置と時間の記録は続けていただいて構いません。撮影は、相手に気づかれない形でお願いします」


「はい。あと、配信のコメントのアカウント名を、あとでメールします」


「助かります。何か動きがあれば、また連絡します。……お仕事、お邪魔しました」


「いえ。定時内に失礼します」


電話を切った。スマホを机に置く。部屋は静かで、カーテンの向こうから朝の光が薄く差していた。心臓は普通に動いている。ただ、背中のあたりが少しだけひやりとしていた。


手帳の端に、書き足す。


『11月27日9時04分 真壁氏に報告。所轄へ巡回依頼。ナンバー不明』


ペンを置く。窓の外では佐伯さんが箒を動かす音が、かすかに聞こえていた。


午前9時20分。自室の机に手帳を開いた。ページの真ん中に縦線を1本引く。左に順番、右に連絡先。工程表と同じ書き方だ。


1、真壁修司(内閣府)。2、所轄の警察署。3、向かいの佐伯さん。4、健司の会社。


書いてから、少し考えた。順番の理由も書いておく。理由のない手順書は現場で使えない。


『1は状況の判断ができる。2は動くまでに時間がかかる。3は近い。4は昼に強い』


ボールペンを置いて手帳を眺めた。4つの窓口。これで足りるか。足りない気がしたが、これ以上増やすと今度は誰が何をするのか分からなくなる。品質管理で一番怖いのは、手順書が多すぎて現場が読まなくなることだ。


スマホを手に取る。ノアの窓口を開く。白い画面に、いつもの入力欄がある。戸が開いている間しか同期しない。つまり今書いても届かない。次に戸を開けたときにまとめて送られる。それでいい。むしろその方が確実だ。


入力欄に打つ。


『戸が開いている間、家族から非常の連絡があれば上から順に連絡してください。1、真壁修司。2、所轄の警察署。3、向かいの佐伯さん。4、健司の会社』


打ち終えて、親指を止めた。ノアは事務的で丁寧だ。この文面をどう解釈するか。少し迷って、一行足す。


『これは手順です。判断は私が戻ってからで構いません。連絡だけお願いします』


送信の代わりに保存の操作をした。画面の隅に小さく「次回同期時に送信」と出た。俺はそれを見て、手帳に書き足した。


『9時32分 ノア窓口に連絡網を登録(次回同期で送信)』


手帳を閉じる。椅子の背にもたれた。机の上の時計は9時35分。朝の光がカーテンの隙間から1本、床に落ちている。


連絡網は作った。手順も書いた。でも、これは俺が物置にいるときの話だ。俺がここにいるときに、あの黒いワゴンが動いたら。佐伯さんが気づいてくれる。それだけが今の頼りだった。


俺は立ち上がって窓のカーテンを少しだけ開けた。角の電柱の向こう、黒いワゴンはまだ同じ場所に停まっていた。


◇


夕食の後、空はもう暗い。庭の砂利が居間の明かりを背負って白っぽく浮かんでいる。俺は父と健司とひよりを物置の前に呼んだ。母と美咲は母屋で食器を片づけている。話を聞かせる必要はない。


「土曜の16時から1時間、戸を開けます。部品の確認なので」


俺はそれだけ言った。声は低く、予定を読み上げるだけの調子だった。


健司が腕を組んだまま、砂利を一歩踏んだ。


「兄貴、明日はやめたほうがいい。足場の件もあるし、黒い車もいる」


「足場は裏の家だ。車は敷地の外だ。物置とは別だ」


「別って。兄貴が物置に入ったら、庭から丸見えだぞ」


健司の声が少し強くなる。俺は首を振った。


「丸見えなのは今も同じだ。戸を開けなければ、俺は何も確認できない」


ひよりがパーカーの袖を引っぱりながら、小声で割り込んだ。


「おじさん、時間ずらすだけでも……夜とか、まだ人が見てない時間とか」


「夜に開けると、明かりが漏れる。夕方の方が自然だ」


「そっか」


ひよりはそれ以上言わなかった。スマホを両手で握ったまま、靴先で砂利を小さく寄せる。


俺は手帳を胸ポケットから出して、開いた。ボールペンで書く。


『11月28日16時00分〜17時00分 第3区地下部品庫 在庫確認(予定変更なし)』


手帳を閉じて胸に戻す。


「予定は変えない。変えると、相手の都合に工程を合わせることになる」


「相手って誰だよ。車か。足場か」


健司が苦笑いを浮かべた。怒っているのではない。呆れている顔だった。


「記録を見る限り、相手はこちらが動くのを待っている。待たせたまま、工程は組み直せない」


「兄貴の理屈は分かった。でもな……」


健司は言いかけて、黙った。ひよりが小さくため息をつく。


父が、それまで黙って物置の戸を見ていた。戸の木目を指の背で一度なぞる。それからこちらを向いて、低い声で言った。


「おう」


それだけだった。健司が父を見た。


「親父」


「恒一が決めたことだ。土曜の16時だな」


父はそう言って、腰を伸ばす。庭の砂利がかすかに鳴った。


健司は数秒、口を開けていたがやがて頭をかいた。


「分かったよ。土曜は俺も家にいる。軽トラ、門の前に置いとく」


「助かる」


俺が言うと、ひよりが顔を上げた。


「あたし、配信16時半からにずらす。窓、開けとく」


「窓は閉めておけ」


「えー」


ひよりが唇をとがらせる。それでも目は笑っていなかった。


物置の戸は、今日も閉じている。鍵は俺のポケットの中だ。合わない鍵が、布越しに冷たく当たっていた。


俺は空を見上げた。星は見えない。雲が低く垂れて、裏の家の足場の輪郭をぼやけさせている。16時から1時間。天気は明日の朝、もう一度確認する。


手帳にはもう書いてある。予定は変わらない。


◇


11月28日(土)15時58分。俺は物置の前に立っていた。手帳を開いて、書く。


『15時58分 物置前 入室前確認』


書いて、胸ポケットに戻す。スマホをひよりに渡した。画面はすでにノアの窓口を開いてある。


「戸が開いてる間は、ノアさんと話せる。何かあったら上から順に」


ひよりは両手でスマホを受け取った。指先が少し冷えている。


「わかった。おじさん、気をつけてね」


「ああ」


健司が門の方を向いたまま、低い声で言う。


「黒いワゴン、今日は見えてない。角の電柱の向こう、空だ」


「そうか」


父は黙って、庭の砂利を一歩踏んだ。腰を伸ばし、裏の家の足場の方をじっと見ている。夕方の光が、銀色のパイプを鈍く光らせていた。作業の音は、やはりしない。だが足場の影が庭の砂利に伸びて、物置の戸の手前まで届いている。


俺はポケットから合わない鍵を出した。真鍮の古い鍵は、指に冷たい。物置の戸の前に立ち、戸に当てて回す。2本目の深さまで回る。手応えはいつもと同じだ。戸の下に木片を噛ませ、開いたまま固定する。鍵を抜いて胸ポケットに入れる。


俺は一度だけ振り返った。ひよりがスマホを胸に抱えるように持っている。健司が腕を組んで、門の外を睨んでいる。父が無言でうなずいた。


俺が戸をくぐろうと右足を踏み出した、その瞬間だった。


裏の家の足場の上で銀色のパイプがきしんだ。見上げるより先に、作業着の男が足場板から庭へ飛び降りる。砂利がざりっと鳴った。俺の頭の中で、記録の欄がひとつ開く。時刻15時59分。場所、物置前。事象、未確認の男、接近。


「おい――」


健司が声を上げた。だがその声より早く、男の手が俺の右手首をつかんだ。指は冷たく、硬かった。振りほどこうと腕を引く。引いた瞬間、足元の感触が変わる。砂利のじゃりじゃりが、つるりとした白に替わる。


見上げると、視界いっぱいに白が広がっていた。影のない白。清掃機の円盤が、壁際を一定の間隔で流れていく。


男はまだ何も言わない。俺の手首をつかんだまま、白い床の上に立っている。作業着の裾が、風もないのにわずかに揺れていた。


作業着の袖口から覗く手首に、汗ひとつない。


ひよりが何か叫んだ。だが声は、白い壁に吸われて届かない。


男は俺の手首を離さないまま、少し正しすぎる日本語で言った。


「手を握っている人は、1人まで通れる。……そうですよね」

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