都市規程の改訂履歴を、最初の版から並べた
11月25日(水)8時20分。
物置の戸の前に立って、俺は手帳を開いた。ボールペンを取る。
『白い都市 入室 8時20分 戸の下に木片を噛ませる 鍵は胸ポケット 魔法は使わない』
『最古の依頼:直す点の確認』
書き終えて、ペンを綴じ目に挟む。物置にあった木片を戸の下に噛ませた。蹴ってもずれない。鍵を抜いて胸ポケットに入れる。戸を開けてくぐった。
白い舗装に出た。風はない。光は均一で、影がない。遠くの電子音が鳴る。1、2、3、4、5、6、7。7秒。
右手の壁面パネルが静かに明るんだ。
≪おはようございます、志摩様≫
「おはようございます。志摩です」
≪ご用件をどうぞ≫
俺は手帳を胸ポケットに戻した。
「都市規程の原文を出してください。承認に関する条文を、最初の版から順に並べてほしい」
≪承知しました。都市規程から承認に関連する条文を抽出し、版の古い順に表示します≫
壁面パネルの一部が横に広がった。白い面に、白い文字が浮かぶ。俺はパネルの前に立った。読めるが、目を細める。
表示は版番号と発行日の列から始まっていた。第1版、第2版、第3版と続く。改訂の履歴が版ごとに残っている。承認の項目だけが、古い版から順に並んでいる。
俺は端から順に目を動かした。
第1版。承認の欄は1行だけだ。
『手順書の承認は、区の保守主任が行う』
俺は手帳を開いて、書く。
『第1版:承認は区の保守主任が行う』
ペンを挟んで次へ目を移す。第2版。同じ行がそのまま残っている。第3版も同じだ。版を重ねても、この1行は変わらない。区の保守主任。役職名まで同じだ。
俺は版を1つずつ追っていく。第4版、第5版、第6版。承認の行はずっと同じ文言のまま続いている。
パネルの白い文字が静かに並び直る。俺は目を細めた。
第7版。第8版。第9版。
やはり変わらない。
第27版にたどり着いた。発行は1,000年と96日前。俺は指でなぞるように目を動かした。承認の項目。1行だけ、前の版と文字が違う。
『手順書の承認は、保守担当者のみが行う』
俺は手帳を開いた。ボールペンを取る。
『第27版(1,000年と96日前):承認者は保守担当者のみに変更。旧版は区の保守主任』
書き終えて、ペンを挟む。顔を上げてパネルへ向けた。
「ノア。この版の改訂理由を出してください」
≪承知しました≫
壁面パネルの表示が切り替わった。白い面に、改訂理由の欄が1行浮かぶ。
『技術の流出の防止』
それだけだった。
俺はその1行を端からもう一度読んだ。技術の流出の防止。承認の権限を、区の保守主任から保守担当者へ移した理由が、これだけだ。
手帳を開いて、1行足す。
『改訂理由:技術の流出の防止』
ペンを綴じ目に挟んで、手帳を閉じた。胸ポケットに戻す。
俺はパネルから目を離さずに言った。
「ノア。第27版で、承認の条文と同時に足された附則を出してください」
≪承知しました≫
壁面パネルの白い文字が一度だけ明滅した。表示が切り替わる。第27版の承認の項目の下に、小さく附則が1行添えられている。
『区の中で用いる点検手順書は、従前のとおり区の保守主任が承認する』
俺はその1行を端からもう一度読んだ。区の中で用いる点検手順書は、従前のとおり。第1版から第26版までと変わらない。区の中で使う手順書の承認者は、今も区の保守主任だ。
「最古の依頼を開いてください」
≪1,000年と41日前の依頼です≫
パネルの表示が切り替わった。白い面に白い文字が並ぶ。一番上に日付と管理番号。その下に件名が1行。第3区の動力管の点検手順書の改訂。改訂の理由は摩耗の対策。手順書は3枚分ある。
1枚目、2枚目と進んで、3枚目の末尾に承認者の欄があった。
役職の指定は、保守担当者。署名は空欄だ。
俺は指を、その欄の上に置いた。白いパネルの表面はわずかに冷たい。
「直すのは、ここです」
≪その欄を指摘された方は、記録にありません≫
ノアの声は、相変わらず事務的で丁寧だった。俺は指を離さない。
第3区の動力管の点検手順書は、区の中で使うものだ。附則どおりなら、区の保守主任が承認すれば効力を持つ。なのにこの書類は、本則だけを見た誰かが承認者を保守担当者と書き違えている。だから1,000年と41日、署名が入らない。
「ノア。この依頼が起票された当時、保守担当者は在席していましたか」
俺は指を承認欄から離して言った。パネルの白い面が一度だけ明滅する。
≪外の業務で不在が続いていました≫
「外の業務の内容は」
≪記録にありません≫
ノアの返事は一拍も遅れなかった。俺はパネルから目を離さずに続けた。
「不在の期間は」
≪起票の3日前から、記録が途切れるまでです≫
「記録が途切れるまで、というのは」
≪読み上げます≫
壁面パネルの白い文字が並び直った。俺は端から追った。
『第3区 動力管 点検周期:旧版のまま継続』
『摩耗の進行:記録あり』
『第3区 電力供給停止:1,000年と12日前』
『都市防衛 起動手順:第4工程にて停止』
『市民・保守担当者 在席記録:同日をもって終了』
俺はその5行を上から順にもう一度読んだ。読んでいる間に、遠くの電子音が2回鳴った。
「電力が落ちた日と、全員の在席記録が切れた日が同じですね」
≪はい≫
「防衛の起動手順は、第4工程で止まった」
≪はい≫
俺はパネルの前で手帳を開かなかった。開かないまま、頭の中で5行を並べ直した。5行とも、同じ日付の側に寄っていた。
「誰も、手順書を更新しなかったんですね」
俺はそれだけ言った。声は荒げなかった。
ノアの返事は、少し間を置いた。
≪はい。更新する権限のある方が、いませんでした≫
俺は壁面パネルを見ていた。白い文字は動かない。風がないので、何も揺れない。
頭の中で、前の会社のことが浮かんだ。改訂版の承認が24日止まっただけで、3ロットの不良が出た。24日だ。現場は旧版のまま回って、初品検査の頻度は低いままだった。
こっちは1,000年だ。
≪ご承認をお願いします≫
「承認は、在庫を自分の目で見てからにします。部品庫の場所を教えてください」
≪第3区の地下です。道は1本、曲がる場所は2か所です≫
「今日は道を確かめるだけにします」
≪承知しました。お気をつけて≫
◇
白い道には目印がない。曲がり角にも標識がない。白い舗装がどこまでも続き、影がないので遠近がつかめない。頼りになるのは清掃機の列だけだった。白い円盤は壁際の同じ線を一定の間隔で流れる。曲がる場所では列が曲がる。俺は列について歩いた。
1時間歩いても曲がる場所は来なかった。2時間でも来なかった。同じ白い壁、同じ白い床、同じ間隔の円盤。俺は何度も腕時計を見た。時刻だけが進んだ。曲がる場所は2か所。それだけで3時間かかった。
3時間目に入って、やっと列が左へ折れた。その先でもう一度右へ折れた。ノアの言ったとおり、2か所だった。
階段があった。下りた。扉があった。閉じている。
俺は扉の前に立った。開けなかった。腕時計を見た。8時46分。
手帳を開いて書く。
『8時46分 部品庫(第3区地下)の扉の前 開けずに戻る』
手帳を閉じて胸ポケットに戻した。扉に背を向けた。
俺は同じ道を戻った。白い舗装、白い壁、同じ間隔の清掃機。曲がり角を2回。
戸の前に立つと、壁面パネルが明るんだ。
「今日は、ここまでです」
≪承知しました。承認は保留のまま、次回の確認事項に含めます≫
声は事務的で丁寧だった。俺は戸をくぐった。物置の空気は冷えて暗い。腕時計は9時02分。戸の下の木片を外そうと、かがむ。
胸ポケットのスマホが震えた。画面を起こす。窓口の同期の最後に1行だけ表示されている。
≪志摩様。戸の外に、熱源が3つあります≫
俺は画面を見たまま動かなかった。物置の窓から庭を見る。窓は小さい。そこから見える範囲に、人はいない。物干し竿、裏の家の外壁。昨日から塗装の足場が組まれている。作業の音はしない。
スマホの画面に視線を戻す。表示はその1行だけだった。それ以上は何も出ない。
窓口が同期するのは、依頼の文面と確認の結果と承認の有無だけだ。熱源を知らせる仕様は、聞いていない。




