関係省庁の会議で、照会17件を並べ直した
11月20日(金)19時12分。
東央大学理工学部3号館4階。物性物理学研究室の窓際の机で、稲葉千景はモニターを2枚並べて測定データを整理していた。片方の画面に電子顕微鏡の画像、もう片方に表計算ソフトで作ったプロット。
稲葉のPCに、メールの着信が1件。
発信元は、東央大学 産学連携本部。件名は『企業からの共同研究に関する照会(転送)』だった。本文は短い。三条重工の材料研究所から、本学の研究シーズに関して共同研究の打診がありました、詳細は添付の研究紹介シートをご確認ください、という1文と添付ファイルが1つ。
稲葉は添付を開いた。産学連携本部が企業向けに配っている研究紹介の定型文書だ。
『東央大学 シーズ紹介 第0412号 破断面が「壊れる前」に戻る試料について』
稲葉の手が止まった。
紹介文には、16日から17日にかけての修復ジェルの予備試験がまとめてある。記載されている測定条件の一部は、この研究室で実際に使ったものと一致していた。
「先生?」
丸眼鏡の院生がモニターを覗き込む。
「これ、うちの……」
「……誰が書いたの、これ」
そのとき、奥のデスクライトの下から声がした。
「私が出しました」
教授だった。書類の束を机の上に置き、こちらを向いている。
「提供者の名前は書いていません」
稲葉はマウスから手を離した。モニターを背にして、教授のほうへ体ごと向き直る。
「研究費が要ります。院生の来年の分が足りません」
教授は穏やかな声で言った。
「シーズ紹介の番号は、先方に渡す前に本部で採番してもらいました。共同研究の形を取れば、測定の追加と人件費の一部を先方に負担してもらえます」
稲葉は何か言おうとして口を閉じた。
「……書いてなくても、分かる人には分かります」
教授はすぐには答えない。付箋を1枚、書類の端に貼った。指先で押さえて、ゆっくりと剥がれないことを確かめる。
「書いてあっても、分からない人には分かりませんよ」
教授の声は、その書類のほうへ向いていた。
「私が先方と話します」
稲葉は画面のほうへ向き直って言った。
「そうしてもらえると助かります」
教授は付箋をもう1枚、今度は少し離れた位置に貼った。
21時を過ぎて、稲葉千景はメールソフトを開いた。宛名を入力する。志摩恒一。件名を打ったところで、指が止まった。
『お詫び』
件名だけが白い画面の上に残る。彼女はキーボードから手を離し、背もたれに体を預けた。
院生はとっくに帰り、研究室には自分1人。奥のデスクライトだけが点いている。教授の席は空いていた。
◇
11月23日(月・祝)21時04分。
Helix日本法人のオフィスフロアには、非常灯と、島の端に1つだけ残った照明の列しか点いていない。祝日の夜である。
エヴァ・ローレンスは会議室の椅子に座っていた。左手首の細い腕時計が、21時04分を指していた。ノートPCの画面には、本社の上司が映っている。名前も肩書きも画面には出ない。
「次は『Mender』だ」
エヴァはメモを取る手を止めた。
「日本側の照会は、すべて内閣府の調査室に集約されている。直接の窓口は開いていない。こちらの接触は、あの部屋で止まっている」
「本社はこの案件を、特別チームに移す」
エヴァは顔を上げた。
「私の担当は」
「外れる」
「1つだけ、申し上げます」
上司は黙っている。止める素振りはなかった。
「あの人は、定時内に正面から頼めば会う人です。断る理由を、その場で3つ言います」
「エヴァ」
「はい」
「We don't need him to agree.(彼の同意は要らない)」
エヴァは何も言わなかった。
上司の手が画面の外へ動いた。画面が黒くなった。通話終了の表示が、すぐに消える。
エヴァは黒くなったノートPCの横にバッグを置き、名刺入れを開いた。硬い紙の端を摘まんで引き出す。手帳から破った小さな切れ端だった。10月、大宮のホテルのラウンジで受け取った携帯の番号が、細い数字で書いてある。彼女はそれを机の上に置いた。スマホは取り出さない。それから、消え入るほどの声で言った。
「……テイジ」
◇
11月24日(火)12時58分。
内閣府の会議室は前の部屋より狭かった。長机が1つ、その周りに8脚の椅子。
俺は入口に近い席に案内された。名札には『志摩 恒一』とだけ印刷されている。所属は書いていない。俺は手帳を机の上に置いた。
真壁さんが俺の右隣に座った。今日もネクタイピンが少し曲がっている。
13時。
扉が開いて、4人が入ってきた。名札を胸につけている。経産省の課長補佐、文科省の課長補佐、外務省の課長補佐、厚労省の課長補佐。4人とも会釈をしたが、目は俺の手元の手帳のほうへ行っていた。
室長が一番奥の席に座った。白髪の短髪。資料を開かず、両手を机の上で組んでいる。
「調査室の室長です。今日は各省からの照会事項を、志摩さんに直接お聞きいただく場にしたいと思います。進行は真壁補佐から」
「では、経産省さんからお願いします」
経産省の課長補佐が資料をめくった。40代前半、眼鏡の奥の目が俺のほうをまっすぐ見ている。
「経産省です。単刀直入に伺います。この試料、国内産業のために国内企業へ提供するお考えはありませんか。それが筋だと思うのですが」
俺は手帳を開いた。時刻を書く。
『13時02分 経産省課長補佐:国内企業への提供を求める』
「試料の提供は、覚書の範囲外です」
経産省の課長補佐の眉が、少しだけ動いた。
外務省の課長補佐が資料をめくりながら口を開いた。
「外務省です。関連して伺います。米国企業からも照会が来ていると聞いています。輸出管理の観点から、試料は国外に出さないという約束を、ここで明確にしていただけませんか」
俺は手帳に書く。
『13時05分 外務省課長補佐:国外不出の文書化を求める』
「試料の移動の管理は、覚書の範囲外です」
外務省の課長補佐は口を閉じた。
厚労省の課長補佐が資料の2枚目を指で押さえながら口を開いた。
「厚労省です。医療への応用について伺います。この試料が、たとえば骨折の治療や臓器の修復に使える可能性はありますか」
俺は手帳のページを指で一度だけ押さえた。
「生体は、試験項目に入れていません」
厚労省の課長補佐が資料の上でペンを止めた。
文科省の課長補佐が、前のめりになる。
「文科省です。大学との関係の整理をお願いしたい。東央大学のシーズ紹介に、この試料に関連する記載があったと聞いています。国の資金が入っている以上、整理が必要です」
俺は手帳に書く。
『13時09分 文科省課長補佐:大学との関係整理を求める』
「大学の研究の進め方は、私の関与するところではありません」
「しかし、試料を提供したのは志摩さんでしょう」
「試験は依頼しました。試料は、毎回持ち帰っています」
「では、あのシーズ紹介は」
「私は関与していません」
文科省の課長補佐が、資料をめくる手を止めた。
「窓口を一本化すれば話が早いんです」
「まず文書で残していただければ」
「予算の枠は年度内に」
「大学の立場も考えてください」
4つの声が重なった。机の上で資料が滑り、誰かのペンが転がった。
経産省の課長補佐が身を乗り出す。
「国内で使わなければ海外に取られるんですよ。それだけのことです」
要求事項が4つ。仕様書は0枚。工程が決まらないまま、検査だけが先行している。
俺は手帳を閉じた。右隣を見る。
「真壁さん。照会の文面を全部見せていただけますか」
真壁さんは「はい」と言って、足元に置いた革鞄を引き寄せた。付箋だらけの留め具を外し、中からクリアファイルを1冊抜き出す。彼は両手でそれを机の上に置いた。
俺はクリアファイルを開いて、中身を机の上に出す。紙は17枚。国内が11枚、海外が6枚。
俺はまず、質問の種類で分けた。試料の提供を求めるものが7枚。共同研究の打診が4枚。入手経路の照会が4枚。医療応用の可能性を問うものが2枚。机の上に4つの山ができる。
次に俺は、同じ4つの山を引用元で並べ直した。
『東央大学 シーズ紹介 第0412号』を引いているもの。これを左に寄せる。引いていないものを右に寄せる。1枚ずつ、指でずらしながら数える。左に16枚。右に1枚。
俺は手を止めた。
「16件の出どころは、1つです」
部屋が静かになった。さっきまで4つの声が重なっていたのが嘘みたいに、誰も喋らない。経産省の課長補佐のペンが、資料の上で止まっている。外務省の課長補佐が、右の1枚を指差した。
「では、残りの1件は」
「それは後で申し上げます」
俺は左の16枚をもう一度種類別に分け直した。試料の提供が7枚、共同研究が4枚、入手経路が3枚、医療が2枚。海外6枚のうち5枚も、同じ番号を引いている。
層別は済んだ。ロットは1つ。流出元は――
「流出ではなく、配布ですね」
俺は言った。声は上げない。
厚労省の課長補佐が、俺を見た。
「配布、というのは」
「産学連携本部が、企業向けに配っている文書です。16件が同じ番号を引いているのは、1つの文書が配られたからです」
経産省の課長補佐が、右の1枚を引き寄せた。俺は手を出さない。彼はそれを裏返して、表に戻した。
室長が、組んでいた両手を解いた。白髪の短髪が、わずかに動く。
「志摩さん。16件の出どころが1つなら、話は早い。その1枚は何ですか」
俺は孤立した1枚を室長と真壁さんの前に滑らせた。紙は机の上を短く滑って、真壁さんの手前で止まる。英文だった。ヘッダにHelixのロゴ。宛先は内閣府調査室。受付印が右上に押してある。
「この1件だけ、品物のことを聞いていません」
「試料の性質も、共同研究の打診も書いていません。聞いているのは1点だけです。『提供者が、入手のたびにどこへ移動しているか』」
真壁さんが紙を両手で取り、右上の受付印に目を落とした。
「受付は11月20日、17時42分。私が志摩さんにお電話した後の、最後の1件です」
真壁さんは紙を机の上に戻した。それから室長のほうを見た。室長も真壁さんを見ていた。2人はしばらく目を合わせていた。
「照会への回答は、内閣府で一律にまとめる。各省個別の回答はしない」
室長の声は静かだった。経産省の課長補佐が口を開きかけたが、室長は続けた。
「大学への連絡は、内閣府から行う。文科省は窓口に立たないでください」
「試料は出さない。国内にも、国外にも。以上です」
経産省の課長補佐が「しかし」と言いかけて、室長が片手を上げた。それだけで、その声は止まった。
「回答の文面を詰めます。真壁補佐、案を作ってください」
そこから会議は、回答文の一字一句の作業に移った。要求事項が4つ、仕様書が0枚のまま、今度は文章の検査が始まった。真壁さんがその都度、クリアファイルから別の紙を出して、前の照会文と突き合わせた。
俺は手帳を開き、時刻と決まったことを1行ずつ書いた。
『13時40分 回答方針:一律回答・試料不出・大学連絡は内閣府経由』
『15時20分 厚労省:医療応用の留保を要求。却下』
『16時30分 回答文:第3稿。真壁補佐が最終確認中』
16時52分。室長が「では、これで」と言って資料を閉じた。4人の課長補佐が同時に立ち上がり、次々と扉から出ていった。経産省の課長補佐だけが振り返って、俺の手帳を一瞬見てから出ていった。
俺は手帳に最後の行を書いた。
『16時52分 会議終了』
真壁さんが資料の束を鞄に収めた。16時59分。
真壁さんが顔を上げた。
「志摩さん。国として、1つだけ伺っても」
「定時内でしたら」
「これは、誰のものですか」
「持ち主に、確認中です」
真壁さんは、それ以上聞かなかった。
室長は両手を組んだまま、目を伏せていた。俺は自分の腕時計を見た。17時ちょうどだった。
「定時なので、失礼します」
俺は立ち上がった。ペンを綴じ目に挟んだ手帳を、上着の内側へしまう。
「お疲れさまでした」
真壁さんが言った。室長は答えない。俺は会議室の扉を開けて、廊下へ出た。扉が閉まる音が後ろで小さく鳴った。
◇
17時24分。帰りの電車。俺はスマホをポケットから出して、画面を起こした。
新着メールが1件。差出人は稲葉千景。
『お詫び』
俺は本文を開いた。
「志摩さん。先ほど産学連携本部から連絡がありました。シーズ紹介の件、私の管理不足です。止められませんでした。ご迷惑をおかけしました」
短い文面だった。俺は文面を2度読んでから、返信を打つ。
「存じています。是正は大学と内閣府で進むそうです」
それだけ書いて送信した。俺はスマホを伏せて、窓の外を見た。日が落ちて、線路沿いの建物の窓が点いている。
17時31分。電車の中でスマホが短く震えた。画面を起こすと、エヴァ・ローレンスから1行だけ届いている。
「担当を外れました。次に伺うのは、私ではありません」
返信はしない。手帳を出して、今日の日付の下に書く。
『17時31分 エヴァ・ローレンスより連絡:担当を外れた。次に来るのは本人ではない』
担当が替わるなら、引き継ぎ書の1枚くらいは欲しい。




