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夜勤明けの義妹が、直った湯呑を裏返した




11月19日(木)7時40分。


台所の食卓で手帳を開き、昨夜読んだ3枚について1行だけ書く。


『3枚:直す点1か所。承認:未』


中身は書かない。母は流しに立っている。湯気が立つ。


そこへ夜勤から帰ってきた美咲さんが台所に入ってきた。


「おはようございます」


「おはよう」


俺は手帳を閉じた。美咲さんは急須を手に取って、食器棚から白地に藍の線が2本入った湯呑を出した。俺が11月14日に直した湯呑だ。


お茶を注ごうとして、手が止まった。


指の腹で、口縁をなぞっている。欠けていた場所を探している。


「……これ、直したんですか」


「ああ。土曜に」


「継ぎ目が分からない」


美咲さんは湯呑を裏返して底を見た。高台に指をかけて、光に透かすように持ち上げる。


俺は何も言わない。母が振り返って笑った。


「恒ちゃんが直したのよ。もらいものの糊で」


美咲さんは湯呑を両手で包んで、まだ裏返したまま俺を見た。


「すごいですね」


「材料がいいだけです」


美咲さんは湯呑を戻してお茶を注いだ。注ぎ口の先から細い湯気が立つ。


「お義兄さん、あれ、本当に手品みたいですね」


「手品ではありません」


「でしょうね」


美咲さんは湯呑を両手で包んで、一口飲んだ。夜勤明けの顔のまま、静かに。


美咲さんは食卓の向かいに座った。化粧は薄い。目の下が少しだけ青い。


美咲さんはもう一度だけ湯呑に目をやって、それから勝手口のほうへ顔を向けた。母が洗濯かごを抱えて庭へ出ていく。戸が閉まる音がして、台所がしんとした。


美咲さんは湯呑の縁を、また指の腹で一度だけなぞった。指先が止まったのは、欠けていた場所のちょうど上だ。そこに何かがあるわけではない。ただ、ないことを確かめるように押さえている。


「お義兄さん」


「ん」


「これ、他の物にも使えるんですか」


「割れと欠けとひびに限ります。摩耗と故障は対象外です」


「看護師みたいな言い方ですね」


美咲さんが小さく笑った。疲れた笑い方だった。


「お義兄さん。あの糊、骨にも効きますか」


俺は美咲さんの指先を見ていた。湯呑の縁をなぞる指は看護師の指だ。爪が短く切ってある。手荒れは少ない。消毒の跡がある。


「骨、ですか」


「骨です」


美咲さんは湯呑をそっと食卓に置いた。それから両手を膝の上で組んだ。夜勤明けの手だ。指の関節が少し赤い。


「担当している患者さんがいるんです。80代の女性で。家で転んで、大腿骨を折って。手術は済んでるんですけど、リハビリが進まなくて」


美咲さんはそこで一度、言葉を切った。台所の時計の秒針が聞こえる。


「痛みが強いわけじゃないんです。リハビリの意欲が上がらない。ベッドから起き上がるのに時間がかかる。昨日は一歩も出なかった」


「このままだと、寝たきりになるかもしれない。そうなったら、もう戻れない。病棟ではそういうのを何度も見てきました」


美咲さんは俺のほうへ顔を戻した。


「骨がくっつくのは、もう済んでるんです。レントゲンでも癒合は確認されてる。なのに動かない。痛みは少ないはずなんです。なのに、動かない」


美咲さんはそこで口を閉じた。


台所はしんとしていた。美咲さんは疲れた顔で、俺の答えを待っていた。


俺は手帳を開いて、指を綴じ目に置いた。


「使いません」


美咲さんは顔を上げた。疲れた目が俺を見る。


「理由は3つあります」


俺は手帳を閉じずに言った。


「1つ目。人の体には試験していません。2つ目。試験していないものを人に使うかどうかは、俺が決めていいことじゃない。決めるのは医師と病院と本人です。3つ目。手品も同じです」


美咲さんは湯呑の中の茶を一口含んで、静かに置いた。


「……ですよね。看護師として、そう言ってほしかったのかも」


美咲さんの指が、湯呑の欠けていた場所の上から離れた。


俺は手帳のページをめくった。


「止まっているのは骨ですか」 「……骨はくっついてます。止まっているのはリハビリです」 「リハビリの工程はどこで止まっていますか」 「工程?」 「手順です。起き上がる、座る、立つ、歩く。どこで止まるか」 「起き上がるところです。ベッドの端に座るところまでは来るんです。そこから立つところで止まる」


「いつからですか」


俺は手帳を閉じて、食卓の上に置いた。


「手術の後から、ずっとです。日にちで言うと3週間前から」


「転ぶ前と後で、変わったことはありますか」


美咲さんは少し考えた。夜勤明けの目が、湯呑の向こうの一点を見ている。


「理学療法士さんが来ても、横を向いたままなんです。指示に反応しない。声はかけてるんです、こっちは。何度も。でも返ってこない」


美咲さんの指が、食卓の上で止まった。


「病棟では、やる気がないって言われてます。記録にもそう書くしかない。私も書きました。『リハビリ意欲低下』って」


俺は何も言わない。美咲さんは続ける。


「分かってるんです。やる気の問題じゃないって。でも、記録に残す言葉が他にないんです。看護記録って、見たことと聞いたことを短く書くもので。『やる気がない』は、一番短くて一番、何も言ってない言葉なんです」


俺は手帳の表紙に指を置いた。


「やる気は工程じゃないです」


美咲さんは顔を上げない。湯呑を見ている。


「工程、じゃない」


「工程は手順です。起き上がる、座る、立つ、歩く。どこで止まるか。やる気は、そのどこにも入りません」


美咲さんは黙って湯呑を見ていた。白地に藍の線が2本。俺が直した、欠けのない縁。


指の腹が、縁をなぞって止まる。


「……そういえば」


美咲さんの声が、少しだけ低くなった。


「転んだとき、補聴器が落ちたって。床に落ちて、外装にひびが入ったって。ご家族から聞きました。私、そのとき忙しくて、聞き流してたんです」


美咲さんは湯呑を両手で包んだ。包んで、動かさない。


「娘さんが遠方で。修理に出すと3週間かかるって。だから、まだ直してないって」


美咲さんはそこで口を閉じた。台所の時計の秒針が、いつもより大きく聞こえる。


俺は何も言わない。手帳も開かない。


「……聞こえてないんだ」


美咲さんは俺のほうを見た。


「補聴器、割れてるんです。だから聞こえてない。理学療法士さんの声も、私の声も」


俺はうなずいた。


「それは骨じゃない不良ですね」


◇


17時10分。


台所の食卓に美咲さんが小さな補聴器を置いた。ベージュの耳かけ型で、外装に2本のひびが走っている。電池のふたが浮いている。


「お義兄さん。これ、直せますか」


美咲さんは食卓の向かいに立ったまま、補聴器を指先で押した。


「午後に、患者さんと娘さんに電話して了承をもらったんです。病棟から預かってきました。修理に出す係なので」


俺は手帳を開いた。ボールペンを綴じ目から抜く。


「分かりました。記録してから見ます」


俺は手帳に書く。


『17時10分 補聴器(耳かけ型・ベージュ) 外装にひび2本 電池のふた浮き 預かり時刻:17時10分 依頼者:美咲さん』


ペンを走らせていると、台所の戸が開いた。ひよりが入ってくる。スマホをポケットに突っ込んだところだ。


「おじさん、何やってんの」


「補聴器の記録」


「補聴器?」


美咲さんがひよりを見る。


「患者さんの。お義兄さんに直せるか聞いてるの」


ひよりが食卓を覗き込む。補聴器を指さす。


「これ、直るの?」


「記録してから」


俺は手帳を開いたまま補聴器を食卓の中央に寄せた。美咲さんが向かいの椅子を引いて座る。ひよりは食卓の端に立ったまま、スマホをポケットに半分入れて俺の手元を覗き込んでいる。


「中は開けません」


美咲さんが俺を見る。


「開けないと、分からないですか」


「外装の破損と、中の故障は別の項目です。開けずに直せるのは外装だけです」


「……そういうものなんですね」


「そうです」


チューブを胸ポケットから抜く。爪楊枝を1本取り、先にジェルを粟粒ほど乗せる。長いほうのひびの端からゆっくりなぞる。透明なものが染み込むように消えて、ひびが塞がる。短いほうも同じように塗る。継ぎ目は見えない。光の角度を変えて覗き込むが、樹脂との境目も分からない。


「あ、消えた」


ひよりが声を出した。俺は爪楊枝を置いて、電池のふたを指で押す。浮いていたふたが、軽い音を立ててはまった。


「外装は終わりました」


美咲さんがバッグから小さなボタン電池を出した。予備を持ってきていたらしい。俺は受け取って、ふたを開け、向きを確認して入れる。


美咲さんが手を出した。俺は補聴器を美咲さんの手のひらに置く。美咲さんは両手で包んで、耳に近づけた。


ピー、と小さく鳴った。美咲さんが手のひらの中で補聴器を転がす。


「……聞こえる音だ」


俺は手帳に書く。


『17時15分 外装ひび2本→ジェルで修復。電池ふた→はまる。電池装填→ピー音確認(美咲さん)。中の機能:未判定』


「外装は直りました。中の機能は俺には判定できません。病院で確かめてもらってください」


美咲さんは補聴器を包んだまま、しばらく動かなかった。それから顔を上げる。


「お義兄さん。その糊、どこで手に入れたんですか」


俺は手帳を閉じた。


「言えません。仕入れ先の都合で」


美咲さんは補聴器を両手で包んだまま、俺を見ていた。目の縁が少し赤い。指の腹が外装の上をゆっくり動いて、ひびがあった場所で止まる。そこを一度だけ押さえて、それから言った。


「じゃあ、聞きません。私は、補聴器を直してくれた人を知らない」


◇


11月20日(金)9時。


俺は自室の机でスマホを開いた。内閣府への届け出のメールを開き、件名と本文を打つ。


『持ち帰り品の使用について(第三者の物品・外装修復1件)』


本文は1行にした。使用日時、対象、数量、結果。宛先と名前を確認して送信する。送信済みの表示を見てから、手帳を開く。


『11月20日(金)9時02分 届け出送信:持ち帰り品の使用。第三者の物品・外装修復1件(補聴器)』


書いてからペンを挟み、スマホを机の端に伏せた。


◇


昼過ぎ。12時48分。


スマホが短く震えた。画面を起こすと、美咲さんから1行だけ届いている。


「返事しました。平行棒、3歩」


俺は文面を2度読んだ。それから手帳を開き、時刻を書く。


『12時48分 美咲さん連絡:患者さん返事あり。平行棒、3歩』


俺は手帳を開いたまま、それ以上は書かない。返信もしない。


美咲さんは報告を1行で送ってきた。俺の手元には時刻と結果が残る。それでいい。


俺はスマホを伏せて、手帳を閉じた。


◇


16時40分。


机の上に手帳を開いて、スマホをその横に伏せてある。西日がカーテンの端から細く差している。


スマホが短く震えた。画面を起こすと、内閣府の真壁さんからだ。俺は手帳を開いたまま、通話ボタンを押した。


「志摩です」


「内閣府調査室の真壁です。お世話になっております。先ほど、本日付けの届け出を確認いたしました」


声はいつも通り丁寧で、間が一定している。紙をめくるような音が一度だけ聞こえた。


「それで、別件ですが、修復ジェルの件で国内外の企業から当室に照会が来ています」


真壁さんの声が、ほんの少しだけ低くなった。俺はペンを止める。


「照会、ですか」


「はい。使用の事実と、入手経路についての問い合わせです。現時点で照会元の企業名は申し上げられません。照会の出どころについては、当室でも確認を進めているところです。こちらから情報を出した事実はありません」


「分かりました」


俺は手帳に書く。


『16時41分 真壁さん:修復ジェル照会あり。国内外の企業。出どころ確認中。企業名は伏せる』


「志摩さん。来週、関係省庁の会議にお呼びしたいのですが、ご都合はいかがでしょうか」


俺は手帳のページをめくって、来週の予定を確かめる。まだ白い。俺はペンを置いた。


「定時内でしたら、伺います」


「承知しました。日時と場所は、追ってご連絡します。9時から17時の間で調整させてください」


通話が切れた。俺はスマホを机の上に置き、画面を伏せる。


手帳の一番下に書く。


『16時43分 真壁さんより照会の件。来週、関係省庁の会議。日時は追って。定時内で了承』


俺は腕時計を見た。16時44分。定時まで16分ある。


俺は手帳の白いページに来週の欄を作り、『9時から17時』とだけ書いた。ペンを挟んで閉じる。

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