割れたスマホに、窓口を置いた
11月18日(水)8時20分。
物置の戸の前に立って、俺は手帳を開いた。ボールペンを取る。
『白い都市 入室 8時20分 戸の下に木片を噛ませる 鍵は胸ポケット 魔法は使わない』
『9時15分までに戻る』
書き終えて、ペンを綴じ目に挟む。その下に昨日の分が1行だけ残っている。
『11月17日(火)10時 稲葉研 耐熱は問題なし 耐久は来週』
ペンを抜いて1行足す。
『本日:最古の依頼の3枚を確認。承認はしない』
書いてから、またペンを挟む。物置にあった木片を戸の下に噛ませた。蹴ってもずれない。鍵を抜いて胸ポケットに入れる。戸を開けてくぐった。
白い舗装に出た。風はない。光は均一で、影がない。遠くの電子音が鳴る。1、2、3、4、5、6、7。7秒。
右手の壁面パネルが静かに明るんだ。
≪おはようございます、志摩様≫
「おはようございます。志摩です」
≪ご用件をどうぞ≫
俺は手帳を胸ポケットに戻した。
「最古の依頼の3枚を、家で確認したいので持ち帰りたいのですが」
≪印刷機能はございません。お手持ちの端末にお移しできます≫
俺は胸ポケットから自分のスマホを出して、画面をノアのほうへ向けた。黒いままの画面に、白い舗装が映り込む。
「これに、入れられますか」
≪はい。窓口をお置きすることもできます。保守担当者様が不在の間の、問い合わせ先です≫
「窓口は、どこに置くんですか」
≪お手持ちの端末の中です。都市の壁ではありません≫
「置く前に、確認させてください」
俺は手帳を開いた。ボールペンを綴じ目から抜く。
「1つ目。端末のどこを使いますか」
≪写真1枚ぶんです。保存領域の一部を窓口に使います≫
「写真1枚分というのは、何枚分の容量ですか」
≪志摩様の端末で撮影できる写真の、1枚分と同じです≫
俺は手帳に書く。
『確認1 使用領域:写真1枚分』
「2つ目。電池は減りますか」
≪待機の電池の消費は1日2%です。窓口が応答している間は、その分が加算されます≫
俺は指を止めた。1日2%。1か月で60%。充電は1日1回だ。寝ている間に充電すれば足りる。足りるが、数字は書いておく。
『確認2 電池:待機で1日2%。応答中は加算』
「3つ目。消し方は」
≪志摩様の一言でできます。『窓口を閉じる』とお伝えください。それで消えます≫
「一言で、ですか」
≪はい。志摩様の声であれば、どこからでも届きます≫
俺は手帳に3行目を書く。
『確認3 消去:志摩様の一言「窓口を閉じる」で消える』
「消す手順を、先に聞けてよかったです」
俺は手帳を閉じた。
≪はい。消せないものを置くほうが危険ですから≫
ノアの声は変わらない。白い壁面パネルの文字も動かない。
≪補足します。窓口は戸が開いている間だけ都市と同期します。閉じている間は、端末の中だけで動きます≫
手帳をもう一度開く。
『確認4 同期:戸が開いている間のみ。閉じている間は端末内で完結』
「同期というのは、都市と何をやり取りするんですか」
≪依頼の文面と、確認の結果です。志摩様が端末で見た依頼と、承認の有無が都市に戻ります。都市の本体は端末に置きません≫
俺はペンを止めた。本体を置かない。窓口だけ。それなら端末が壊れても、都市は端末の中に残らない。交換部品の在庫も、清掃機の列も端末には入らない。
「端末を落としても、都市は壊れませんね」
≪はい。窓口が消えるだけです≫
俺は手帳に1行足した。
『確認5 端末破損時:窓口のみ消失。都市本体に影響なし』
書いてから、ペンを綴じ目に挟む。画面をノアのほうへ向けたまま、俺は言った。
「承認します。窓口のみで」
≪承知しました。窓口を置きます≫
壁面パネルが一度だけ明滅した。俺のスマホの画面が、黒から白に変わる。白い面の中央に、小さな文字が1行だけ浮かんだ。
『アーク窓口 接続待ち』
≪設置が完了しました。これで、ご自宅からでも依頼の文面を見られます≫
「分かりました」
俺はスマホを胸ポケットに戻した。手帳を開いて、一番下に書く。
『8時34分 窓口設置。承認は窓口のみ。都市本体は端末に置かず。消去は一言』
書き終えて手帳を閉じる。腕時計を見る。8時35分。まだ時間はある。
白い舗装の上で清掃機の列が一定の間隔のまま壁際を流れていく。音はない。電子音が7秒おきに鳴る。1、2、3、4、5、6、7。
俺は壁面パネルへ顔を向けた。
「では、3枚を確認します。家で」
≪承知しました。窓口から開けます。戸を閉じても、文面は端末に残ります≫
「残るのは文面だけですね」
≪はい。文面と、承認の欄だけです≫
俺はうなずいて、戸のほうへ体を向けた。白い舗装はどこまで行っても白い。影はない。
俺は戸をくぐった。物置の空気は冷えて暗い。木片を外し、戸を閉める。鍵を当てて回し戻す。刻みは2本のままだ。
◇
17時40分。
物置の戸を開けると先に3人が来ていた。父は作業台の端に腰をかけている。健司は脚立を畳んで壁に立てかけたところだ。ひよりは入口の脇に立って、スマホをいじっている。
「兄貴、なんだよ改まって」
「人を紹介します」
俺は作業台の中央に自分のスマホを置いた。画面は白いままだ。中央に小さく『アーク窓口 接続待ち』と出ている。
ひよりが顔を上げる。スマホをポケットに突っ込んだ。
「え、誰。おじさんの知り合い」
「向こうの管理者です。家で一度、顔合わせをしておきたかった」
「顔合わせって、画面越しか」
健司が作業台の脇に立つ。父は腰をかけたまま、手を作業台の上で組んだ。
俺はスマホの画面を指で軽く叩いた。戸は閉めてある。窓口は端末の中で動いている。
「ノア。お願いします」
画面の白が、一度だけ明るんだ。
≪はじめまして。ノアと申します。保守を担当しております。志摩様≫
物置の中の空気が、一瞬止まった。
ひよりが口を開けたまま、指先だけ動かして自分のスマホを握った。健司は脚立のほうへ半分振り返って、また戻った。父は組んだ手をほどかない。
「はい?」
3人の声が、きれいに揃った。
ひよりが先に動いた。スマホを握ったまま、画面へ半歩近づく。顔を寄せて、白い面の文字を読むように目を細める。
「え、待って。今、声」 「向こうの管理者です。ノアと言います」 「しゃべってる」 「しゃべっています」
ひよりが振り返って健司を見る。健司は片手で首の後ろをさすった。
「兄貴、これAI? しゃべるやつ?」 「管理AIです。都市の保守を担当しています」 「AIなのに志摩様って」 「鍵を持っているのが俺だけなので、暫定の権限です」
父は作業台の端で、まぶたを一度だけ下ろした。
「……おう」
ノアの声が続く。画面の白は明るさを変えない。
≪失礼しました。お呼びの区別のため、お名前を教えてください≫
ひよりが顔を戻す。画面の前で、指先を一度だけ上げた。
「ひより。ひよりでいいよ」 「ひより様。承知しました」
ひよりが口を半開きにして、俺のほうを見る。
「様って」 「向こうの基準です」 「おじさんも様なの?」 「志摩様です」 「うわ」
ひよりが笑いをこらえるように口を押さえた。健司がその横で肩を揺らしている。
俺は作業台の端に手を置いた。
「呼称は変えられません。向こうの運用です」 「兄貴、それ本気で言ってる?」 「本気です。手順書に呼称の項目はありませんが、変更の権限もありません」
父が短く息を吐いた。
「……そうか」
≪ほかのお二方のお名前も、お聞かせください≫
健司が麦茶のコップを作業台の端に置いて、手を拭く。
「健司でいいよ。兄貴と区別つくし」
≪健司様≫
父が工具棚の前で振り向いた。手には油布がある。
「……恒彦」
≪恒彦様≫
ひよりがスマホを覗き込んで、声を出して笑った。パーカーの袖を口元に当てている。
「志摩家、全員様じゃん」
ひよりがスマホを差し出す。画面の端から中央へ2本のひび。ガラスの下で液晶がかすかに滲んでいる。
「これ直せる?」
ノアの声が作業台のスマホから返る。
≪画面のひびは破損です。修復ジェルの対象です。液晶の滲みは故障です。対象外です≫
俺は胸ポケットからチューブを抜く。爪楊枝の先に粟粒ほど取り、ひびに沿ってなぞる。透明なジェルが染み込むように消え、2本の筋が塞がる。指でこすっても段差はない。
「ひびは消えた」 「滲みは残ってる」
ひよりが画面を傾けて光にかざす。ガラスの割れは見えない。液晶の滲みは、白い背景に薄い影のように残った。
「破損と故障は、別の項目ですね」
ひよりが直ったガラスの上から、液晶の滲みのところを指で触る。画面は明るいまま、そこだけ反応しない。
「え、ここだけ効かない。一番邪魔なとこじゃん」
「故障は別件です」
◇
19時を少し回った居間の座卓。夕食の皿が並び、味噌汁の湯気が細く立っている。町内会から戻った母が、俺の隣に座って箸を取った。父は向かいで、健司とひよりは横に並んでいる。
母がふと、座卓の端に伏せてあった俺のスマホを手に取る。画面がついて、白い面に小さな文字が浮かんだ。
「恒ちゃん、これ何? 小さい字で『窓口』って出てるよ」
俺は箸を止めずに答える。
「アプリです。会社の人が入れた」
「会社辞めたのに?」
ひよりが味噌汁を一口すすってから、母の手元を覗き込む。
「元の会社の人だよ、ばあちゃん」
「ふうん」
母は画面をしげしげと見て、それから伏せて元の場所に戻した。特に興味は続かなかったらしい。漬物に箸を伸ばす。
健司が茶碗を置いて笑う。
「最近は何でもアプリだよな。兄貴の会社の人、マメだな」
「そうか」
父が短く答えて味噌汁をすする。
俺は画面を伏せたままにしておく。ノアは声を出さない。出せば母がまた首を傾げる。説明の手間が増えるだけだ。
ひよりが小さく笑って、俺にだけ聞こえる声で言う。
「窓口、ばれなかったね」
◇
11月18日(水)22時14分。
自室の机に手帳を開いて置いた。スマホをその横に伏せる。画面を指で軽く叩いてから、白い面に向かって言った。
「最古の依頼の中身を読ませてください」
≪承知しました。3枚表示します≫
スマホの画面が切り替わる。白い面に、薄い灰色の枠が3つ並んだ。1枚目を指で押す。点検頻度、使用器具、判定基準。文字は小さいが読める。2枚目を押す。改訂の理由が摩耗の対策だと書いてある。3枚目を押す。承認者の欄が空欄のまま、一番下にある。
俺は手帳に時刻を書いた。それから3枚を上から順に目で追い直す。1枚目と2枚目を並べて、同じ項目名の位置を指でなぞる。
「最古の依頼の3枚、確認しました」
≪はい。ご承認をお願いします≫
俺は指を止めた。
「……承認の前に直す点が1か所ありそうです」




