保守依頼103万件を、種類別に並べ直した
11月17日(火)8時20分。
物置の戸の前に立って、俺は手帳を開いた。ボールペンを取る。
『白い都市(仮称) 入室 8時20分 戸の下に木片を噛ませる 鍵は胸ポケット 魔法は使わない』
『9時15分までに戻る。10時、稲葉先生の研究室』
書き終えて、ペンを綴じ目に挟む。物置にあった木片を戸の下に噛ませた。蹴ってもずれない。鍵を抜いて胸ポケットに入れる。戸を開けてくぐった。
白い舗装に出た。風はない。光は均一で、影がない。遠くの電子音が鳴る。1、2、3、4、5、6、7。7秒。
右手の壁面パネルが静かに明るんだ。
≪おはようございます、保守担当者様≫
「おはようございます。志摩です」
≪ご用件をどうぞ≫
俺は手帳を胸ポケットに戻した。
「未処理の依頼を、種類別に並べ直したいのですが」
≪未処理の保守依頼は現在 1,038,412件です。優先度順には並べてあります。種類別の分類はありません≫
「分類はこちらで決めます。画面を借ります」
≪承知しました≫
壁面パネルの一部が横に広がった。白い面に、白い文字が浮かぶ。俺はパネルの前に立った。読めるが、目を細める。
「分類の項目を決めます。破損、摩耗、腐食、断線、その他。この5つで振り分けてください」
≪承知しました。全件を振り分けます≫
壁面パネルの白い文字が、一度だけ明滅する。
≪所要時間は、こちらの時刻で約2時間です≫
俺は腕時計を見た。8時36分。手帳を開いて、書く。
『8時36分 分類開始。所要約2時間(アーク時刻)。地球換算で約10分』
ペンを綴じ目に挟んで、歩道の縁に立った。清掃機の列を眺める。
白い円盤が、壁際の同じ線の上を流れていく。前後の間隔は一定で、曲がり角でも崩れない。4,812台。磨く面だけがわずかに明るさを変えている。
円盤は止まらない。床も壁も磨き続けている。この街で、清掃だけが1,000年止まっていない。
なのに、保守の依頼だけが1,038,412件も溜まっている。
俺は手帳を開き直して、1行だけ書いた。
『清掃は継続。保守は滞留。不具合の種別を待つ』
書いてから、ペンを綴じ目に挟む。電子音は7秒おきのまま、間隔は変わらない。
舗装の白さも、塔の高さも、影のなさも、前に来たときと変わらない。円盤が一列、俺の前を横切り壁際へ戻っていく。
壁面パネルが、もう一度だけ明るんだ。白い文字が並び直っていく。
俺はパネルの前へ戻った。
文字が揃った。数字は読めないほど小さい。列が長い。
五つに分かれた列の一番右、「その他」の先頭を指で押した。
依頼文が開く。日付は1,000年前のものだ。文面は短い。語尾の揃いが今の依頼と違う。項目名の位置も書き方も統一されていない。
「これは断線です」
俺は指を離して言った。
≪修正します≫
ノアが答えた。壁面パネルが一度明るんで、文字が動く。「その他」から「断線」の列へ、その一行が移っていく。並び順が詰まり、列の高さがわずかに変わる。
俺は黙ってそれを見ていた。手帳は開かない。
他の四列にも、同じような依頼が混ざっているかもしれない。1,000年の滞留で、書き方まで古くなっている。分類は、直すそばからずれていく。
「棒グラフにしてください。大きい順に」
≪承知しました≫
白い面に、縦長の棒が5本浮かぶ。長さの差ははっきりしていた。
一番長いのが摩耗。次が腐食。断線は摩耗の半分より短い。その他は、断線より少し短い。破損は一番下でほとんど床に張り付いたような長さだ。
「破損は、少数です」
≪はい。修復ジェルの対象は、破損です≫
俺は胸ポケットのチューブに指で触れた。固い感触がある。中身はこれまでの試験で、欠けた湯呑みやアルミナ板を埋めた。ステンレス板の削れは直らなかった。あれは不良ではなかった。対象外だ。そもそも仕様が違う。
「大半は、この2種類ですね」
≪はい。摩耗と腐食で、8割を超えます≫
俺はパネルの棒グラフを見た。一番長い棒と2番目に長い棒が、残り3本を合わせたより長い。数字は読まない。比率だけ見る。
品質管理では不良対策は多い順に潰す。上位2つで8割を超えるなら、そこを抑えれば全体は大きく動く。だが、この2つはジェルの対象ではない。摩耗と腐食。どちらも部品を交換する項目だ。表面を埋める修復では減らない。
この1本で埋められるのは、破損の列だけ。全体の1割に満たない。残りは交換。交換には部品が要る。部品の在庫は確認していない。交換の手順も確認していない。
俺はパネルから半歩下がった。白い舗装の上で、清掃機の列が一定の間隔のまま壁際を流れていく。音はない。
この山は、修復では片づかない。
手帳に1行足した。
『上位2種で8割超。2種とも部品交換の項目。ジェル(破損)では減らない』
手帳を閉じて胸ポケットに戻した。壁面パネルへ顔を向ける。
「最古の依頼を開いてください」
≪1,000年と41日前の依頼です≫
パネルの表示が切り替わった。白い面に白い文字が並ぶ。一番上に日付と管理番号。その下に件名が1行。第3区の動力管の点検手順書の改訂。改訂の理由は摩耗の対策。手順書は3枚分ある。
文字は小さく、俺は端から順に目を動かした。改訂前の点検頻度、改訂後の点検頻度、使用する器具、判定基準。
最後に承認者の欄があった。空欄のままだ。
承認がなければ、この改訂は効力を持たない。
俺は手帳を開かなかった。頭の中で並べる。承認されない手順書は、発行されていないのと同じだ。現場は古い版のまま回り続ける。摩耗は溜まる。依頼は積まれる。
1,000年と41日。承認の欄は、まだ空欄だ。
≪承認権限者は、保守担当者様のみです。承認をお願いします≫
俺はパネルから目を離さずに言った。
「承認はしません。中身を確認していないので」
ノアの返事が一拍遅れた。
≪……確認してから承認される方は、初めてです≫
パネルが一度だけ明滅した。
≪呼称を、志摩様に更新します≫
呼称が変わった理由はこちらには分からない。向こうの都合だ。
俺は手帳を開いた。ボールペンを取る。
『呼称:志摩様(変更の契機は推定:承認前に確認すると言った)』
書いてから、もう1行足す。
『最古の依頼:第3区 動力管 点検手順書 改訂(摩耗の対策)承認待ち 承認者:空欄』
ペンを挟んで手帳を閉じた。それ以上は読まない。中身の確認は次の手順に回す。今日は分類と件名までだ。
俺は時計を見た。8時52分。
パネルの文字はまだ表示されている。白い都市は静かで、風もない。
腕時計を見る。9時02分。俺は手帳を胸ポケットに戻した。
「10時に約束があるので、失礼します」
≪承知しました。お気をつけて、志摩様≫
声は相変わらず事務的で丁寧だった。俺は壁面パネルから目を離し、戸のほうへ体を向けた。白い舗装はどこまで行っても白い。影はない。
戸の前に立つ。俺は振り返らずに言った。
「交換部品の在庫は、ありますか」
≪ございます。1,000年分≫
俺は足を止めた。在庫は1,000年分ある。交換の手順は承認されないまま、1,000年止まっている。部品はある。手順がない。
「在庫は、あるのに」
≪はい。承認をお待ちしています≫
俺は壁面パネルへ顔を向けた。
「確認してからにします」
≪承知しました≫
俺は戸をくぐった。物置の空気は冷えて暗い。木片を外し、戸を閉める。鍵を当てて回し戻す。刻みは2本のままだ。
手帳に1行だけ書いた。
『10時 稲葉研』




