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研究室で、標準試験片を割ってもらった




11月16日(月)10時04分。


東央大学の理工学部3号館の4階、物性物理学研究室。俺はノックをしてからドアを開けた。


稲葉先生が机から顔を上げる。黒縁眼鏡の奥の目が、俺を認めて細くなった。


「志摩さん、おはようございます」


「おはようございます」


俺は頭を下げた。角度はいつもと同じ。受付の警備員に下げるのと同じ角度だ。


丸眼鏡の院生が、部屋の奥からひらりと手を上げた。


「どうも」


「今朝8時58分に、内閣府へ持ち帰り品の届け出をメールで出しました。9時3分に『受領しました』とだけ返信が来ています」


稲葉先生は一瞬だけ眉を上げた。


「内閣府」


「はい。手続き上、必要な届け出なので」


俺は胸ポケットに手をやった。透明なチューブを取り出す。


チューブを稲葉先生の机の上に置いた。コロン、と軽い音がした。


俺は手帳を開いた。試験計画のページと、先週土曜の6件の結果のページを、2枚とも稲葉先生の机の上に並べた。


『試験計画(案) 対象:万能修復ジェル 目的:適用範囲と限界の把握 方法:標準試験片による三点曲げ試験、SEM観察、EBSD測定 条件:室温・大気中 n数:各材質5本』


先週土曜のページには6件分の記録が上から順に並んでいる。湯呑、リングライトのアーム、老眼鏡、ヘルメット、皿、腕時計。良品6、不良0。


稲葉先生は2枚を並べて、上から順に目で追った。


「……うちの学生より丁寧です」


「全般的な破損の修復としか分かっていません。仕様書はありません」


「材質の適用範囲、許容温度、硬化時間、強度。どれも未測定です。先週の6件は、家庭用の壊れ物が直ったというだけの記録で、試験としては不十分です」


「どこで」


「もらいものです。出所は問わないという覚書です」


俺は手帳の1ページ目を開いて、稲葉先生に見せた。『試料提供の覚書』の写しだ。4項目の下に、稲葉千景の署名がある。


「……そうでした」


「問わない、と書きました。私が」


「はい。書いていただきました」


部屋の奥で、院生が椅子を回した。


「またもらいもの、ですか」


「前回は角でしたよね。今度は何です。透明なチューブ」


「万能修復ジェル、と呼ばれていました」


「万能」


「万能って、論文で一番書いちゃいけないやつですよ」


「分かっています。だから試験をします」


稲葉先生が椅子から立ち上がり、白衣の袖をまくった。


「じゃあ、アルミナ板とステンレス板の標準試験片で測ります。三点曲げ試験ですね。うちの標準試験片が使えます」


「定時までに、第一報を出します」


「定時内でお願いします」


俺は言った。


俺は手首の時計を見た。10時07分。手帳に書く。


『11月16日(月)10時07分 標準試験片による三点曲げ試験開始 材質2種 n数各5本 室温・大気中』


◇


11時02分。


院生が三点曲げ試験機でアルミナ板を5本とも割った。


荷重をかけるたびに板がぱきりと鳴った。割れた破片は床に落ちず、試験機の支点のあいだに白い断面を見せて止まっていた。


俺は手帳に時刻を書いた。


『11時02分 アルミナ板 5本 三点曲げ試験 破断確認』


院生は手際がよかった。割れた2片をトレイに並べ、チューブの先からジェルを爪楊枝でごく少量すくい、片方の破面にだけ塗る。もう片方を合わせ、指で5秒ほど押さえる。それだけだった。


「こんなもんでくっつくんですかね」


院生が丸眼鏡の奥で笑った。


「30分置いて、もう1回曲げますよ。それで接合部から折れなかったら、わりと本気で驚きますけど」


俺は手帳に書く。


『11時06分 アルミナ板 5本 ジェル塗布 接合 静置開始』


30分のあいだ、誰も板に触らなかった。稲葉先生が白衣のポケットから手を出して、腕時計を見た。


「そろそろですね」


「はい。11時36分です」


院生がトレイから1本目を持ち上げて、試験機にかける。支点に乗せ、荷重をゆっくりかけていく。板はたわみ、やがてぱきりと鳴った。割れたのは接合部ではなかった。端から3分の1ほどの位置で、新しい断面が白く光っている。


「おや」


2本目も同じだった。3本目も。4本目も。5本目も。


どれも接合部では折れない。接合部ではない場所で折れた。5本ともだ。


俺は手帳に書く。


『11時40分 アルミナ板 5本 再接合後 三点曲げ試験 破断位置:接合部以外 5本とも』


『結果:接合部での破断 0件』


「志摩さん、これ、接着剤じゃないですよ」


「まだ分かりません。接合部が強いのか、元の板が弱くなったのか。そこを分けるのが試験です」


稲葉先生は黙っていた。腕を組んだまま、割れた5本の破片を順番に手に取って、接合部を光に透かしている。


「継ぎ目が見えませんね」


「光学顕微鏡でも見えないかも知れません。あとでSEMに回しましょう」


◇


15時10分。


稲葉先生がSEMの操作卓に座る。腕が、キーボードの上で一瞬止まった。


「置きますよ」


院生がトレイを試料台に載せる。接合部を上にして固定したアルミナ板が、真空排気の音とともに視野から消える。


画面が明るくなる。最初は灰色の砂地だった。稲葉先生が倍率を上げる。砂地が粒になり、粒が壁になり、壁がなだらかな斜面に変わる。


「……継ぎ目が見つかりませんね」


「見えてないだけじゃなくて、本当にない感じですよこれ」


「どこを探しても、界面らしい界面がありません」


俺は手帳に書いた。


『15時10分 SEM観察 アルミナ板接合部 接合界面の確認』


「EBSD、回しましょう」


「結晶方位まで揃っていたら、これはもう接着の話ではなくなります」


院生がEBSDの操作卓に移る。試料を入れ直し、画面に結晶方位マップが描かれるまで、誰も口を開かなかった。


院生がマウスで接合部の左右を指定して、数値を読み上げる。


「接合部の両側で、結晶の向きが連続しています」


「1つの結晶が、接合部をまたいで繋がってます。これ、割る前の結晶方位と比べないと確定はできないですけど、少なくとも普通の接着界面じゃない」


稲葉先生の顔から血の気が引いた。白いというより、青白い。モニタの光のせいだけではない。


「待ってください、これは」


稲葉先生はそれだけ言って、口を閉じた。


俺は手帳に書いた。


『15時28分 EBSD測定 接合部の結晶方位連続性を確認』


画面の前で、稲葉先生がゆっくりと椅子の背にもたれた。


「ありえない、ありえないんですよ」


消え入るような声だった。


「接着なら、母材と違う物質の層が継ぎ目にできるはずなんです」


声は小さかった。SEMの排気音が部屋の底で唸っている。


「これは接着ではありません」


一拍置いた。黒縁眼鏡の奥の目が、画面の上で静止している。


「……壊れる前の状態に、戻しています」


院生がスライドガラスを取り出し、チューブからジェルを爪楊枝の先でごく少量すくい取った。薄く引き伸ばすように塗る。


「元素分析、いきますね」


「炭素と酸素と、あとケイ素が出てますね。ケイ素が強い。これ、スライドガラスの成分ですよ」


俺は手帳を開いた。時刻を書く。


『15時36分 EDS分析 ジェル単体 スライドガラス上』


「今度は、アルミナの端材に塗ったものを測ってください」


院生が台を載せ替える。再びスペクトルが描かれる。今度はケイ素の山が低くなって、アルミニウムの山が立っている。


「数字が変わりましたね」


「ええ。測るたびに、変わっています」


「最初はガラスの成分に近かった。今度は母材のアルミナに寄ってきている」


「時間が経つと、周囲の材料と混ざっていくってことですか」


俺は手帳に1行だけ書いた。


『結果:測定位置ごとに元素組成が変動。アルミナに近似する傾向あり』


そのとき、背後で空気の動く気配がした。


教授だった。


白髪まじりの頭をわずかに傾け、画面を正面から見ている。足音は聞こえなかった。俺は会釈をした。教授は小さく片手を上げただけだった。


「続けて」


教授は低い声でそれだけ言った。


やがて、白衣の胸ポケットから付箋の束を取り出す。1枚をはがし、ボールペンで何か書いた。四角い字が、遠目にも読み取れた。


『試料、もう少し』


教授はそれだけを残して、電子顕微鏡室を出ていった。


稲葉先生は付箋に目を落とした。


「……もう少し、ですか」


稲葉先生は付箋を指でつまんだまま、しばらく動かなかった。


「志摩さん、これ、どこで」


「出所は問わないという覚書です」


俺はそれだけ答えた。


「……聞きません」


「聞いたら私の報告の義務が増えます」


「測定の再現性は取れていますか」


稲葉先生の指が止まった。黒縁眼鏡のレンズの向こうで、まばたきが1回遅れた。


「再現性」


「はい。同じ試料、同じ条件で、同じ結果が出るかどうかです。今のEDSは測るたびに位置を変えています。位置依存なのか、時間依存なのか、測定ごとのばらつきなのか。切り分けができていません」


「条件を固定して、n数を決めてばらつきを見る。それが先です」


「……そうですね」


稲葉先生は椅子の背から身を起こして、院生の方を向いた。


「3回繰り返して」


「同じ試料で、同じ位置を3回。位置を変えるのはその後」


「了解です」


稲葉先生は俺の方に顔を戻さなかった。指先がわずかに震えているのを、俺は見た。


俺は手帳に時刻を書いた。


『15時43分 EDS再測定指示(同一位置3回) 目的:再現性確認』


◇


16時48分。


俺は手帳に書く。


『16時40分 EDS再測定(同一位置3回) 結果:ケイ素の山は誤差範囲内 再現性:○』


物性物理学研究室の実験室は、SEMの排気音がドアの向こうに消えて、急に静かになっていた。


院生が壁際の棚から古いステンレス板を取り出した。端に「耐摩耗試験済」と書かれたラベルが貼ってある。表面に浅い溝が何本も走っていて、指でなぞるとざらつく。削れた深さは0.3ミリ。


「これ、どうです? うちで一番削れてるやつです」


院生は軽い声で言いながらチューブからジェルを爪楊枝の先に取った。溝に沿って薄く塗る。透明なジェルが白い蛍光灯の下で一瞬光り、それから白く濁った。


ジェルは溝に吸い込まれず、表面で乾いていく。削れた面の銀色はそのままだ。白く濁った膜が、溝の縁に沿って薄く残った。指でこすると、ぽろぽろと剥がれて落ちる。


「あ、これだけ直らないですね」


俺は手帳を開いた。時刻を書く。


『16時48分 ステンレス板(耐摩耗試験済・削れ深さ0.3ミリ) ジェル塗布 結果:修復されず。白濁乾燥のみ』


書いてから、1行足す。


『不良:1件(摩耗)』


「不良が1件出ました。安心しました」


稲葉先生が顔を上げる。


「なんで嬉しそうなんですか」


「嬉しそうではありません」


「嬉しそうです」


「……嬉しいです」


俺は言った。


稲葉先生は一瞬、目を丸くした。それから、ふっと息を吐くように笑った。声はなかった。


「正直ですね」


「品質管理では、不良が出ない方が問題です」


「全部直る方が、よほど怖い」


稲葉先生はステンレス板を指でつまんだまま、首をかしげた。


「欠けは埋まって、摩耗は埋まらない。同じ体積の欠損なのに」


「破損と、摩耗は、別の項目なのかもしれません」


「項目って、誰の」


「仕様書は、ありません」


俺は手首の時計を見た。


16時59分。


「定時内の面談は、17時までです」


「待ってください、私の話は17時には終わらないんです」


「では、明日の10時に」


「……はい」


俺は手帳を開き直した。


『16時59分 ステンレス板(摩耗0.3ミリ) 修復不可 欠け(湯呑・アルミナ板)は修復可 差異の要因:不明』


書いてから、もう1行足す。


『耐熱・耐久:未確認』


「次は、直ったものがどこまで持つかです」


「定時なので、失礼します」


直るかどうかは分かった。どこまで持つかは分からない。品質管理では、そこまで測って初めて良品と呼べる。


定時は、守った。

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