白い都市の壁が、「ようこそ、保守担当者様」と言った
11月14日(土)13時49分。
戸の下に、物置にあった古い木片を噛ませた。蹴ってもずれない。鍵は抜いて、胸ポケットに入れた。
俺は手帳を開いた。ボールペンを取る。
『白い都市(仮称) 入室 13時49分 戸は開放保持 スマホ圏外』
『地球の時計で15時までに戻る。戸の位置と方角を確認してから進む』
書き終えて、ペンを綴じ目に挟む。
白い舗装へ一歩踏み出した。靴底の感触は硬く、滑らかで、砂の粒ひとつ拾わない。音はしなかった。
遠くの電子音がまた鳴る。間隔を数える。1、2、3、4、5、6、7。
7秒。次の音もその次も、7秒。誤差は耳で測る限りない。
俺は音のした方角へ体を向けず、まず足元と周囲を見た。塔は白い。壁も白い。影がほとんどない。光源は見えない。
「……周期的ですね」
声は小さく出した。
手帳を閉じて胸ポケットに戻す。戸はまだ、背中の右後ろにある。俺は2歩目を踏み出さなかった。
白い舗装の上で壁面パネルが一つ静かに光った。光源はないはずなのに、パネルだけが内側から薄く明るんでいる。
≪ようこそ、保守担当者様≫
声は壁から出た。女性とも男性ともつかない、整った機械音声だった。抑揚はある。事務的で丁寧だ。
俺は壁面パネルへ顔を向けた。
「はい。……担当者ではないのですが」
≪鍵を確認しました。登録名簿との照合はできませんでした。保守業務の権限は、鍵の所持によって暫定的に付与します≫
一拍おいて、声は続けた。
≪私は都市管理システム『ノア』です。当都市の保守業務は、現在、私が代行しています。保守担当者様の識別名をどうぞ≫
俺は右手を胸ポケットへやった。名刺入れは家の机の上だ。俺は手を下ろした。
「志摩です」
≪志摩様。確認しました。本都市の保守業務に従事する間、仮の登録名として使用します≫
時計を見る。13時52分。
俺は戸から見える範囲で、広場から白い歩道へ歩き出した。
足元を手のひらほどの白い円盤が磨いていた。数十台が一定の間隔で動いている。どれも音を立てない。
≪未処理の保守依頼は、現在 1,038,412件です≫
俺は足を止めずに壁面パネルへ顔を向けた。
「一番古いものは」
≪1,000年と41日前です≫
「皆さんは、どちらに」
≪市民の在席記録は1,000年前の最終日で終わっています。理由は、保守ログの範囲外です≫
俺は手帳に2行だけ書いた。
『白い都市 保守依頼 1,038,412件 最古は1,000年と41日前』
『市民の在席記録:1,000年前の最終日で終了。理由:記録なし』
それ以上は聞かない。
歩道の先にも、白い塔が並んでいる。遠くの電子音は、7秒おきのままだ。
俺は時計を見た。13時56分。戸は、振り返れば見える位置にある。
俺は足元の円盤の前にしゃがんだ。円盤は俺の靴を避けて、半歩ずれて磨いていった。音はない。磨く面だけが、わずかに明るさを変えている。
「これは何台ありますか」
≪4,812台が稼働中です≫
俺は舗装を見た。白い面に擦過の痕はない。継ぎ目も摩耗で沈んでいない。角も丸くなっていない。
手帳は開かない。頭に入れておく。
円盤が俺の前を離れ、壁際へ流れていった。数十台の列は崩れない。間隔は一定のまま進んでいく。
俺は立ち上がった。膝の埃を払う。ここに埃はない。
白い壁面パネルの下から、手のひらほどの開口部が静かに開いた。開いた口から透明なチューブが1本、押し出されてくる。俺は右手で受け取った。軽い。中身は透明で、気泡は見えない。
≪万能修復ジェルです。用途は、全般的な破損の修復です≫
「全般的な、とは」
≪はい。全般的な破損の修復です≫
「対象材質は」
≪全般です≫
「許容温度は」
≪全般です≫
俺は手帳に1行だけ書いた。
『万能修復ジェル 用途:全般的な破損の修復。対象・温度:全般』
仕様書で一番困る書き方だと思った。
チューブをシャツの胸ポケットに入れる。万年筆の隣に立てて収めた。重みでポケットがわずかに前に引かれる。
≪お持ち帰りは、お手元に持てる範囲でお願いします≫
声は相変わらず丁寧で、事務的だった。俺は持ち帰りの理由を聞かなかった。聞いても、たぶん同じ答えが返る。全般です、と。
時計を見る。13時58分。
俺は歩いた。
1,038,412件という数字を頭の中で棚卸しの表に置き換える。件数は結果だ。見るべきは滞留日数と種別。
最古が1,000年と41日前。残りがいつ積まれたのか、種別が何に寄っているのかも分からない。
手順書なら最初に分布を取る。層別して、傾向を見て仮説を置く。ここではまだ何も取れていない。取れていないものは、書かない。
歩道はまっすぐで、曲がり角がない。塔の外壁には継ぎ目が見当たらない。板を重ねた痕も、打ち込んだ留め具も塗装の境目もない。白い面がそのまま立ち上がっている。
俺は足を止めずに目の前の塔と、その次の塔を見比べた。高い。どれも同じ高さだ。窓の位置も同じ。間隔も同じ。
円盤の列が壁際を流れていく。一定の間隔のまま、崩れない。俺はその列を目で追いながら、また歩き出した。
俺は歩道を進みながら、右手で塔の1つを指した。
「あの塔は何階ですか」
≪48階です。居住区画です≫
声は歩きながらでも聞こえた。音はどこからでも同じ大きさで出る。
「中は」
≪無人です。入室は可能です≫
俺は指を下ろした。
「今日は外から見るだけにします」
≪承知しました。見学の記録を残します≫
俺は手帳に1行だけ書いた。
『塔:48階 居住区画 無人 入室可 本日は外観のみ』
入らない理由は書かない。時間と手順の問題だ。中を見るなら、入る前に条件を決める。今日は決めていない。
右手の列と左手の列が、先へ行くほど細く見えた。
交差点に出た。横断歩道がある。白い縞が舗装に埋まっている。信号はない。人のいない横断歩道だけが、まっすぐ向こう岸へ渡っている。
俺は歩を緩めずに渡った。靴底の感触は変わらない。縞の上でも、縞の間でも同じだ。
頭上の細い通路を、円盤が1台ゆっくり渡っていった。通路は塔と塔の間にかかる白い桟だ。幅は円盤1台ぶんしかない。円盤は磨く面を下に向けたまま、桟の上を滑るように進む。
「この先も見られますか」
≪見学は可能です。戸から離れる場合は、お知らせください≫
「戸の見える範囲で結構です」
≪承知しました。外側のみ、順に示します≫
そのあと40分ほど、俺は戸の見える範囲を往復した。声は塔の外側を順に示し、俺は聞いて、歩いた。
時計を見る。14時47分。15時に戻る予定なら、そろそろ折り返しだ。
≪こちらの時刻では、もう夜です≫
声はそう言った。光は均一のまま、影ひとつ増えない。俺は腕時計の文字盤へ目を落としたまま歩き出した。
「定時があるので」
≪定時、ですか≫
「はい。私の定時です」
壁面パネルが一度だけ明滅した。
≪「定時」を検索します。……当都市の規則に、該当する項目は見つかりませんでした≫
「私の定時です。17時です」
≪承知しました。保守担当者様の定時を、17時として登録します≫
俺は足を止めて、戸のほうへ体を向けた。右手で時計を見る。14時48分。戻るのに2分はかかる。
「定時なので、今日はここまでにします。次は、事前にお知らせします」
≪承知しました。次回までに、保守依頼を優先度順に並べておきます≫
並べる前に、まず棚卸しだ。
俺は白い舗装を戸まで戻った。一度だけ立ち止まる。電子音はまだ7秒おきに鳴っていた。風はない。
戸をくぐる。物置の空気は冷えていた。
木片を抜いて戸を閉め、鍵を当てて回し戻す。刻みは2本のままだ。
外で、母が洗濯物を取り込む音がしている。
手帳に退室時刻と持ち帰りを書いた。
『白い都市(仮称) 退室 14時50分 滞在61分 持ち帰り:修復ジェル1本 定時登録:17時』
最後の1行は、少し間を置いてから書いた。
『呼称:保守担当者様(理由:不明)』




