元上司が玄関で頭を下げて、ケーキの箱を差し出した
「……明後日、そっちに行っていいか。明日は、会社で訂正の発表がある」
「はい。火曜の15時でしたら」
俺は手帳の今日のページに、電話をしながらボールペンを走らせる。『11/8 23:12 権藤課長より電話。11/10 15:00 来訪予定』。文字は傾いていない。
「じゃあ、その日に」
権藤の声は、最後まで数字を探しているような間を残して切れた。
通話終了。画面が時計に戻る。23時14分。
俺はスマホを机の上に置いてペンを手帳の綴じ目に挟んだ。それから手帳を閉じる。
◇
11月10日(火)14時50分。
母が朝から3回も玄関のたたきを掃き、客間の座卓を乾いた布巾で拭き、座布団の向きを直していた。
ひよりが階段の上から顔を出した。
「おじさん、今日あの人くるの」
「あの人とは」
「権藤って人」
「ああ。15時だ」
ひよりはそれきり、階段の上に座り込んだ。
14時57分。
玄関のチャイムが鳴った。
母が小走りに玄関へ向かう。俺は居間の入り口に立った。
「はい、志摩です」
インターホンに出た父の声。それから玄関の戸が開く音。外の冷えた空気が、廊下の奥まで流れてきた。
「……権藤です。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
声は、電話のときより少し掠れていた。
俺は廊下へ出た。
権藤が玄関のたたきに立っていた。
ジェルで固めた七三は、前髪のあたりがわずかに崩れている。何度も手で押さえたのか、右側の分け目が薄くなっていた。腕時計はしていない。左手首が、心細いほど白い。ワイシャツの襟は、相変わらず黄ばんでいる。ネクタイはきつく締めたままだった。
権藤の右手にコンビニの白いケーキの箱が提げられていた。
権藤は俺の顔を見た。それから、玄関の三和土の上で深く頭を下げた。
背中が丸い。七三のてっぺんが、俺の目線よりずっと低い位置まで下りていく。
「すまなかった」
声が、玄関の壁に当たって消えた。
「志摩。俺が、悪かった」
母が、後ろで小さく息を呑んだ。ひよりが階段の上で身じろぎする音がした。俺は動かなかった。
権藤は頭を下げたままケーキの箱を両手で差し出してきた。白い箱が、震えている。
「……こんなもんで、済む話じゃないのは分かってる。だが」
言葉が続かない。権藤の背中が、呼吸のたびに上下している。
「課長」
俺は言った。
「上がってください。ここでは話せません」
権藤がゆっくりと頭を上げた。目が赤い。昨夜、ろくに眠っていない顔だった。それでも七三の崩れた前髪を直そうと、右手が一度だけ動いた。
「……ああ」
権藤は靴を揃え直して、上がり框に手をついた。
母が、にこりと笑った。
「恒ちゃんの上司さんね。お世話になってます」
権藤の手が、箱ごと止まった。喉が一度だけ上下する。
「……いえ」
権藤は、掠れた声で言った。
「お世話になったのは、こちらで」
「さあ、上がって。お茶淹れてあるから」
母が先に立って廊下を歩いていく。権藤は、玄関に立ち尽くしたまま俺の顔を見た。俺は無言で客間の方を指した。
客間の空気は畳が冷えているせいか、廊下よりずっと静かだった。
権藤は、母が引いた座布団に正座した。背筋を伸ばし、ネクタイの結び目を指で一度だけ押さえる。それから黒い革の鞄を開けて、中からA4の紙を1枚取り出した。
「会社としての正式な話だ」
権藤は紙を座卓の上に置き、俺のほうへ滑らせた。
「品質保証部の課長だ。年収は前の1.5倍。定時退社は保証する」
声は、電話のときよりいくらか戻っていた。数字を読み上げる声だ。
「ありがとうございます」
俺は紙を座卓に戻した。
「お断りします」
権藤の指が、膝の上でぴくりと止まった。
「理由は」
一拍おいて、権藤は言った。
「数字で言ってくれ」
俺は手帳を開いた。今日のページの下に、まだ何も書いていない。ボールペンを取って、静かに書き込む。
『11/10 14:57 権藤課長来訪。15:05 品質保証部課長の打診。辞退』
書き終えて、ペンを置く。手帳を閉じない。
「もう、定時で帰ってますので」
俺は顔を上げて言った。
権藤はしばらく黙っていた。座卓の上の紙を、裏返しにしてまた表に戻す。指先が紙の角を何度もなぞっている。数字を探しているようだった。何か、この場で使える数字を。
「……そうか」
権藤はようやく言った。深く息を吐いて、ネクタイを緩める。
権藤は、持ってきたコンビニのケーキの箱を座卓の上に置いた。白い箱を開ける。中には、小さなホールケーキが4つ並んでいる。白いクリームに、赤いイチゴが1つずつ。
権藤は箱を開けたまま、少しの間、中身を見ていた。それからぼそりと言った。
「ひよりちゃんの分も、入ってる」
襖が開く音がしてひよりがお茶のおかわりを盆に載せて入ってきた。湯呑みを権藤の前に置き、俺の前にも置く。それから当然のように俺の隣に座った。両手を膝の上に置いて、まっすぐ権藤を見た。睨んでいる、と言ってもいい角度だった。
権藤が、ひよりの顔を見た。七三の下で、目がわずかに細くなる。記憶を手繰るような間が、一度だけあった。
「ひよりちゃんだったな」
権藤の声は、さっきよりいくらか柔らかかった。
ひよりの肩が、ぴくりと止まった。膝の上で組んでいた指に、力が入るのが見えた。
「……覚えてたの」
声が小さい。睨むのをやめて、少しだけ視線が下がる。10年前、会社の家族見学会で会ったきりだ。俺の後ろに隠れて、権藤の名刺を受け取らなかった子だ。
「ああ。覚えてるよ」
権藤はそれだけ言って黒い革の鞄に手を入れた。奥から、紐で十字に縛った分厚い紙の束を取り出す。A4の紙が400枚を超えて重なっている。縦にも横にもきっちり揃っていて、紐の結び目だけが少し擦り切れている。
権藤は、その束を両手で座卓の上に置いた。
座卓が、わずかに軋んだ。
「お前が、俺に出した提案書の原紙だ。コピーじゃない。15年分、全部取ってある」
権藤は束の上に手を置いたまま言った。指先が、紙の縁を何度もなぞっている。
「1枚も捨ててない」
俺は、束を見た。一番上の紙の端に、見覚えのある自分の字があった。2012年4月12日付の提案書だ。会社の様式の右上に、日付と提出先。その下に当時の俺が書いた3行の要約。ボールペンのインクが、少しだけ褪せている。
「自分では書けなかったからな」
権藤の声が、座卓の上を低く這った。
「……感謝はしてるよ、うん」
少し黙ってから、もう一度言った。
「本当に、してたんだ」
ひよりの指が、膝の上でぎゅっと握り込まれる。湯呑みの湯気だけが、2人の間で細く立ち上っていた。
俺は、束を受け取らなかった。
代わりに、背筋を伸ばしたまま静かに言った。
「それは、会社の書類です。返してください」
権藤の手が止まった。紙の縁をなぞっていた指先が、ぴたりと動かなくなる。
「……なに?」
「社外秘の原紙です。私物として受け取れません。会社の管理下に戻すのが正しい処理です」
権藤は束を見下ろした。それから、ゆっくりと俺の顔を見た。充血した目が、わずかに細くなる。
「お前、それでいいのか」
「はい。私はもう会社の人間ではありません。社外秘を私物にしない。私のルールです」
権藤は、しばらく何も言わなかった。それから深く息を吐いて、黒い革の鞄を引き寄せた。束を両手で持ち上げ、鞄の中へ戻す。紐の結び目が鞄の縁に一度だけ引っかかった。
「……お前は、変わらないな」
権藤はようやく言った。声は掠れていて、それでいて、どこか安堵しているような響きがあった。
11月10日(火)16時。
玄関のたたきで権藤は靴を履きながら2度ほどかがんだ。七三の崩れは直らないままだ。ネクタイを締め直す指が、まだ少し震えている。
俺は手帳を開いた。今日のページの後ろ、白紙の1枚を端から丁寧に破る。破れ目を指で押さえてまっすぐにした。
ボールペンを取って、題を書く。『承認の手順 第1版』。
その下に、箇条書きで書いていく。申請から3日で自動的に上の人へ回す。承認者は2人。期限を過ぎたら記録が残る。誰が止めていたかが、あとから見える形にする。
書き終えて、権藤の前に差し出した。
「森下さんに渡してください。作成者の欄は、空けてあります」
権藤はそれを受け取った。目が、紙の上を一度だけ往復する。それから作成者の欄を見た。空欄だ。
黒い革の鞄に手が伸びかけて、止まった。修正テープを出す気配はない。指先が紙の端をつまんだまま、しばらく動かなかった。
「……ああ」
権藤はそれだけ言って、紙を鞄に入れた。折り目をつけないように、両手で。
「お体に気をつけて」
「ああ」
権藤は振り返らずに門を出ていった。課長は、背が高かった。
俺はそれだけ思った。
戸を閉めて、客間へ戻る。座卓のケーキの箱が、まだ開いたままだった。4つのうち1つを小皿に載せる。
スプーンで一口。スポンジが詰まっている。甘さが、舌の上でゆっくりほどけていく。
俺はスプーンを持ったまま、しばらく黙った。
「……コンビニのケーキだ」
それだけ言って、また一口食べた。
◇
11月12日(木)9時55分。内閣府の会議室。
俺は長机の下座側に座っていた。手元に手帳とボールペン。それからA4の綴じが2部。表紙には『志摩恒一殿と内閣府大臣官房調査室との覚書(案)』とある。
真壁さんが、付箋だらけの革鞄から書類の束を出して整えている。寝癖は今日も右側が跳ねていた。目の下の隈は、10月に家に来たときより濃い。
「お待たせしました。室長が来られます」
10時ちょうどに室長が入ってきた。白髪の短髪。
「第1条から読み合わせます」
「第1条。志摩氏は、保有する魔石の数量を当室に届け出る。内訳は大型43個、小型83個とする」
「第2条。研究目的のため、大型5個を東央大学物性物理学研究室に貸与する。管理責任は当室が負う」
「第3条。志摩氏が今後持ち帰る物品については、届け出制とする。出所は問わない」
「第4条。志摩氏の家族への取材および接近については、所轄警察署との連絡窓口を当室に一本化する」
「相違ありません」
ここまでは予定どおりだった。
真壁さんが、5枚目の紙をめくった。
「第5条。当室と志摩氏との面談は、定時内(9時から17時まで)に行うものとする」
その瞬間、室長の眉がぴくりと動いた。
「待ってください」
室長は手元の紙に目を落としたまま言った。
「第5条の『定時内』という条項は、前例がありません」
会議室の空気が、少しだけ重くなった。
「はい。前例がないことは承知しています」
「相手が個人である以上、面談の時間帯を条文で縛るのは異例です。急な呼び出しに対応できない場合、協定の意味が薄まる」
室長は、手元の紙を裏返した。それから真壁さんのほうを向く。
「真壁君、君はどう考える」
真壁さんは、一度だけネクタイの位置を直した。それから静かに言った。
「入れてください」
声はいつもより低かった。
真壁さんは付箋の束から1枚抜いた。
「前例の代わりに、数字を出します」
室長が顔を上げる。
「志摩さんは、年俸300万ドルの話を勤務時間を理由に断っています」
「それは聞きました」
「その勤務時間を書いたのが、第5条です。消せば、Helixと同じ紙になります」
室長はしばらく黙った。それから手元の紙に目を落とし、第5条の行を指でなぞる。
「残しましょう」
文言の詰めは午前いっぱいかかった。昼は真壁さんが買ってきた弁当を、書類の山の隙間で食べた。稲葉先生の到着を待つあいだも、条文の言葉を1つずつ削っては足した。
16時40分。会議室に、稲葉先生が駆け込んできた。白衣の上にコートを引っ掛け、黒髪のクリップが片方ずれている。息が上がっていて、眼鏡の奥の目がやけに輝いていた。
「志摩さん。例の、例のものは」
俺は鞄から布に包んだ魔石を5個、机の上に並べた。稲葉先生の手が伸びて、指先が石に触れる直前で止まる。震えていた。
「ありえない、ありえないんですよ。こんなものが、手のひらに乗る大きさでこの質量で」
「受け取りの記録をお願いします」
俺は手帳を開き日付と時刻、数量、受け取り者を書く。稲葉先生は震えるペンで署名した。真壁さんが横から覗き込み、「記載は以上という理解でよろしいですか」と確認する。時計を見る。16時58分。
署名が終わった。俺は真壁さんの議事録の時刻欄を指で示す。「開始10時00分、終了16時59分。相違ありません」
真壁さんがネクタイを直し、俺のほうを見た。
「志摩さん。国として、1つだけ伺っても」
俺は手帳を閉じた。
「定時内でしたら」
真壁さんは腕時計を見た。秒針が回る。それから小さく息を吐いて、付箋だらけの鞄を閉じた。
「……来週にします」
◇
帰りの電車。吊り革につかまった俺のスマホに、ニュースの見出しが流れてきた。
『クロダ精機、会見内容を訂正 品質管理課長を交代』
俺は開かずに閉じた。
続けてひよりからLINEが2通。
『おじさん、海外のニュース見て』
『登録者55万』
リンクを開く。英語の見出しの中に、『The Wizard Who Leaves at Five』があった。頭の中で訳す。5時に帰る魔法使い。
俺はポケットから手帳を出した。吊り革を左手で握ったまま、右手でボールペンを取る。
『11/12 覚書署名 魔石5個貸与 残り38個』
書き終えて、ペンを綴じ目に挟む。もう一度、画面の見出しを見た。
電車が揺れる。窓の外のビルが、ゆっくり流れていく。
17時だ。




