日曜21時、手帳を47冊、机に積んだ
『【臨時】おじさんの手帳』
配信が始まる前の20時50分ごろ。俺は台所のテーブルに手帳を1冊ずつ積んでいた。
年数の順だ。2011年4月から2026年9月まで。A6の黒い背表紙に、白いラベルが1冊ずつ貼ってある。最後の1冊を一番上に置くと、47冊の山ができた。傾いていない。ラベルがまっすぐ縦に並んでいる。
ひよりがスマホを三脚に横向きに立てた。角度を何度か直して、俺の手と手帳の山だけが映るようにする。顔は入らない。
「映ってる。おじさんの手しか見えないけど、それでいいの」
「いい」
俺は答えて、山の一番上の手帳の角を指で揃えた。
台所の入口に、父が立った。
作業着ではなく、灰色のカーディガンを羽織っている。手には何も持っていない。父は手帳の山をしばらく見ていた。何も言わない。俺も何も言わなかった。
父は、ふっと息を吐くようにして背を向けた。
廊下を歩いていく。足音が遠ざかって、半分開いた襖の向こうに消えた。
俺の席から、父の部屋の中が少しだけ見えた。
父は押し入れを開けて、奥から紐で縛った古い紙の束を出した。旋盤の手順を手書きで書いた束だ。角が折れて、紙の色が飴色に変わっている。
父はその束に、一度だけ手を置いた。
開いた手のひらを、紐の上からゆっくり乗せるように。それだけだった。束を開きはしなかった。何も言わなかった。
俺は正面に向き直った。
ひよりがスマホの画面を見ている。親指が配信開始のボタンの上で止まっていた。
「押していいの」
「ああ」
俺は手帳の山の前に両手を置いた。指を組んで、ほどく。呼吸を4拍で取る。
「押してくれ」
ひよりの親指が下りた。
【配信を開始しました】
21時ちょうど。画面の右上に、同時視聴者の数字が跳ね上がる。開始3秒で2万人。会見の炎上から流れてきた足音が、コメント欄に雪崩れ込んでくる。
《手品師のせいでリコール》
《逃げずに来たか》
《誰でもできるんじゃなかったの》
《名前出せよ》
《前任者www》
《手帳って何》
ひよりが三脚の横で息を呑む音がした。画面の数字がまだ上がっている。俺は手帳の山の前に両手を置いたまま、正面を向いた。
「元品質管理の志摩です」
ひよりが顔を上げた。
「今日は手帳を読みます。会社の社外秘は読みません。私がいつ何を誰に出したか、それだけです」
顔は映っていない。映っているのは手と、47冊の黒い背表紙だけだ。俺はそれ以上、前置きをしなかった。配信で名乗ったのは、これが初めてだった。
《志摩》
《え、名前出した》
《志摩って誰》
《待って今なんて》
《元品質管理の志摩》
《名前名乗ったぞ》
《手帳っておじさんの手帳か》
《これ本物か》
《志摩さんって呼べばいいの》
ひよりがスマホの画面を覗き込んだまま、小声で言った。
「おじさん、名前、出した」
「ああ」
「いいの、それ」
俺は答えなかった。手帳の山の一番上に、指を置いた。まだ開かない。
俺は山の下から1冊抜いて開いた。2012年4月。書き方を決めてからの最初の1冊だ。指で行をなぞって、研修の声のまま読む。
「2012年4月12日。提案。提出先、権藤課長。結果採用。提案者欄、課長」
ページをめくる。
「4月19日。提案。提出先、権藤課長。結果採用。提案者欄、課長」
《毎日書いてる》
「4月26日。提案。提出先、権藤課長。結果不採用」
《字がきれい》
《全部同じ書き方》
俺は手帳を閉じて、山から1冊抜いた。2014年。
「2014年6月3日。提案。提出先、権藤課長。結果採用。提案者欄、課長」
《提案者欄……》
《待って》
《え》
《提案者欄、課長?》
《2年経っても同じ》
ひよりの息を呑む音がした。俺は読むのをやめない。
俺は山から2018年の1冊を抜いた。表紙を開いて、同じ形で読み上げる。
「2018年2月15日。提案。提出先、権藤課長。結果採用。提案者欄、課長」
《まだ課長》
「2018年7月9日。提案。提出先、権藤課長。結果不採用」
《提出先ずっと同じ人》
《会社ってそういうもん?》
手帳を閉じて、山に戻す。次に2023年の1冊を抜いた。背のラベルが蛍光灯の下で白く光る。
「2023年5月11日。提案。提出先、権藤課長。結果採用。提案者欄、課長」
《まだこの人》
《13年目でもこれ》
《組織って怖》
「2023年10月2日。提案。提出先、権藤課長。結果不採用」
《採用のときだけ名前変わるの草》
《不採用は自分の名前なのか》
《いや提案者欄は書いてないだけで》
《日付と結果だけ》
俺は2023年の手帳を閉じた。表紙を上にして、山の横に置く。指先が紙の縁に触れたまま、一度だけ止まった。
コメント欄はまだ流れている。数字も上がっている。ひよりが三脚の横で、息を殺しているのが分かった。
《これ全部そうなの》
《毎日3行》
《15年》
最後に、一番上の2026年の1冊を取った。巻末を開いて、表をカメラの前にかざす。
「15年で、提案412件。採用287件」
《……》
《え》
《待って》
《287件全部》
《提案者欄》
俺は表を閉じた。
《手帳なんて後から書ける》
《証拠にならない》
「その通りです。私の記録だけでは、証拠になりません」
21時15分。俺はそれでも、最後の1冊を開いた。山の一番上、2026年の黒い手帳だ。9月のページをめくる。紙の端が少し反っていた。指で行を押さえて、声に出す。
「9月14日。工程FMEA、段取り替え、点数見直し。改訂版提出。提出先、権藤課長。承認待ち」
ページを1枚めくる。
「9月30日。承認待ちのまま退職。改訂版は、元の席のデスクトップ」
そこで俺は手を止めた。手帳は開いたままだ。指は9月30日の行の上に置いたまま、動かない。ボールペンは持っていない。持つ気もなかった。
蛍光灯の音がした。ひよりが息を止めているのが分かった。
「会見で説明された古い版は、確かに古い版です。新しい版がどうなったかは、私には分かりません。会社の人ではないので」
俺はそれだけ言って口を閉じた。それ以上、誰の名前も足さない。責めない。分からないことは、分からないと言う。
コメント欄が止まった。流れていた文字が上へ抜けていくだけで、新しい行が来ない。1秒。2秒。3秒。蛍光灯の音だけが残る。
そのあいだに、ひよりが自分のスマホを見た。
声にならない息が、マイクの横で漏れた。ひよりの顔から血の気が引いていく。指先が震えて、画面の上で止まる。
俺の袖を、強く引いた。
ひよりがスマホを三脚の横からカメラの前に回した。画面が明るくなる。映ったのはSNSの投稿だった。社員証も社内の画面も写っていない。文面だけだ。
「待って、これ。クロダ精機の森下さん」
ひよりの声が上ずっている。読み上げた。
「クロダ精機 品質管理課の森下です。前任の志摩さんは、段取り替えの改訂版を9月に作っていました。手順書を書いていたのは志摩さんです。是正報告のなぜなぜ分析の3段目、承認の滞留は削除の指示を受けましたが、削除前の版を社内の通報窓口とお客様の品証窓口に提出しました」
読み終えて、ひよりが息を吐く。指先がまだ震えている。
俺は何も言わなかった。手帳の9月30日の行の上に、指を置いたままだ。
コメント欄が、一瞬で埋まった。
《は?》
《森下って誰》
《後任の人か》
《削除の指示》
《承認の滞留》
《3段目消されたってこと?》
《内部通報したの》
《これ会見と違くない》
《前任者って言われてたの志摩さんだよな》
《手帳と一致してる》
《待ってこれ本物の投稿?》
《保存した》
《切り抜き班まだか》
《え》
数字が跳ね上がる音が、蛍光灯の下でやけに静かに聞こえた。
ひよりが画面を切り替えた。三条重工の公式サイトだ。声明は20時50分付。
「待って、これ……顧客の会社じゃん」
ひよりの声が上ずって、読み上げる。
「クロダ精機の社員から当社の品質保証窓口に提出された、削除前の是正報告書の原因分析(承認手続きの滞留)と、11月6日の記者会見の説明に相違がある。当社はクロダ精機に説明を求める」
読み終えた指が、まだ画面の上で震えている。
《顧客が言ったぞ》
《承認の滞留》
《前任者じゃなくて承認者じゃん》
《削除前って書いてある》
《窓口に出てたのか》
《会見と違うって公式が言ってる》
《待ってこれ株価どうなる》
《説明を求めますって》
《は?》
《え》
《ちょっと待って》
ひよりが三脚の横で画面に食いついた。指先が数字の上をなぞる。
「待って待って待って。8万。15万。22万。え、まだ増えてるじゃん」
数字が跳ねるたびに、コメント欄が白く沸騰した。
《ごめん志摩さん》
《前任者じゃなかった》
《手のひら返すわ》
《昨日まで叩いてたわ》
《謝る場所ここしかない》
《志摩さん冤罪じゃん》
《手帳全部ほんとだった》
《会見で前任者連呼してたの誰だよ》
《権藤って人か》
《名前言ったらあかんやつや》
俺はまだ何も言わない。手帳の9月30日の行に指を置いたまま、画面の数字を見ていた。
俺は手帳を閉じた。
「森下さん、ありがとうございます」
それだけ言って、俺は口を閉じた。
壁の時計の長針が6の位置に来ている。21時30分ちょうどだ。
「時間なので失礼します」
俺は47冊の山の一番上にそっと手を置いた。ひよりが黙ってスマホに手を伸ばし、配信終了のボタンを押す。画面の右上で赤い点が消えた。コメントの滝が止まり、画面が暗くなる。
同時視聴者は、最大で31万人だった。
台所が静かになった。蛍光灯の音だけが残る。ひよりはスマホを持ったまま、しばらく動かなかった。俺も動かなかった。手帳の山は、傾いていなかった。
◇
11月8日(日)23時。クロダ精機の本社、3階の役員会議室。蛍光灯の光が、磨かれた机の上に三条重工の声明を印刷した紙を白く浮かび上がらせていた。紙は1枚だけだ。それでも机の上でやけに重く見えた。
社長が、その紙を指先で引き寄せた。紙を裏返し、また表に戻す。それから権藤のほうへ静かに視線を送った。
「承認が止まっていたのは、君のところか」
権藤は、ネクタイの結び目を一度だけ押さえた。答えようとして、数字を探した。何件何日、何ロット。頭の中で棚を開ける。どれもこれも、今の問いに使える数字ではなかった。
「数字で答えてください」
社長が言った。権藤は口を開きかけて、また閉じた。答えられる数字が、なかった。
常務が腕を組んだまま、絞り出すように言った。「事実関係は、社内の記録を見れば分かる。問題は、会見で説明した内容と違う点が、顧客の公式声明になったことだ」
権藤は、机の上の紙を見た。自分の指先が、ワイシャツの袖口を掴んでいるのが見えた。
「……志摩の品質は、残業込みでした」声は低くかすれていた。「定時で回る仕組みにしようとしていたのは、本当です」
社長が、わずかに眉を動かした。
「なら、なぜ承認しなかった」
権藤は答えなかった。答える数字も、答える言葉も机の上にはどこにもなかった。
社長は紙を机の中央に戻し、両手を組んだ。
「会見の内容は、月曜に訂正を出す。君は品質管理課長から外れる」
権藤は、自分の腕時計の文字盤を見た。高い時計だった。秒針が、やけにゆっくり回っている。
権藤は、磨かれた机の上にスマホを置いた。会議室には蛍光灯の音だけが残っている。ネクタイを緩め、ワイシャツの襟元を指で開いた。
スマホの画面を点ける。連絡先を開き、指でゆっくりとスクロールしていく。上から下へ。取引先、社内、親戚、昔の同僚。何十年分の名前が淡々と並んでいる。
権藤の指が、ある1つの名前の上で止まった。
彼はその名前を親指でそっと押さえた。押しはしない。ただ、触れるだけだ。画面の明かりが、黄ばんだ襟元を白く照らしている。
秒針だけが回っていた。
権藤はスマホの画面を消した。机の上に伏せて置く。そして、深く息を吐いた。
発信は、まだしない。
◇
23時を過ぎていた。自分の部屋で、俺は台所から運んだ手帳を、1冊ずつ段ボールに戻している。46冊。年数の順に下から入れていく。背の白いラベルが、箱の中で縦に揃っていく。
戸口に足音が止まった。
「おじさん」
ひよりだ。半分だけ開いた戸の隙間から、顔を出す。
「登録者、50万いった」
それだけ言った。
「そうか」
俺は手帳を1冊、箱に入れた。ひよりは何も足さずに、戸を閉めた。廊下を歩いていく足音が、ひよりの部屋の戸の音で消える。
俺は今年の1冊を机の上に残して、最後の箱の蓋を閉じた。6つの箱を押し入れの奥へ戻す。襖を閉める。乾いた木の音がした。
机に戻って、今年の手帳を開く。今日のページに、ボールペンの先を置く。
「11/8 配信 30分 予定どおり」
書き終えて、ペンをページの上に置いた。
机の上のスマホが震えた。画面が光って、名前が白く浮かぶ。
【権藤課長】
俺は手帳を閉じてから、電話に出た。




