元上司の記者会見で、「前任者」と5回言われた
11月6日(金)15時。都内のホテルの宴会場。森下は会場の一番後ろに立たされていた。
会場の空気は、冷えて固まった油のようだった。
黒い布を被せられた看板の前で、クロダ精機の社長が深く頭を下げた。
「このたびは、弊社製品の不具合によりお客様に多大なるご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます」
森下は自分の足元を見た。黒い靴の先が、絨毯に沈んでいる。
隣に立つ広報の社員が、腕を組んだまま微動だにしない。会見の30分前、控え室の隅で森下の肘を軽く掴んで言った。「質問されても話さないでください。社長と課長が対応しますから」。
一拍おいて、社長は隣に座る権藤に視線を送った。権藤が椅子から立ち上がる。ジェルで固めた七三は、後ろから見ても1本の乱れもない。
権藤はマイクの前に立った。手元に、見覚えのあるA4の綴りを置く。森下が昨夜、会社のプリンタで出力したものだ。
権藤が1枚目の紙をめくる。
「原因は、前任者が作成した作業手順書の記載の不備です」
前任者。
森下は太ももの横で、右手の指を1本折った。
声は落ち着いていた。数字を読み上げるときの、あの淡々とした音だった。
「前任者は、今年の9月末に退職いたしました。現在は在籍しておりません」
前任者。
2本目。
「前任者の手順書では、段取り替え後の初品検査の頻度が、低く設定されておりました。その結果、段取り替え直後の3ロット、1,800個の寸法不良を検出することができず、流出に至ったものでございます」
前任者。
3本目。
森下は、権藤の襟元を見た。白いワイシャツの襟が、薄く黄ばんでいる。遠目にも分かった。
権藤は2枚目の紙をめくった。
「再発防止策といたしまして、前任者が作成した工程FMEAを改訂し、段取り替え後の初品検査の頻度を『高』へ変更いたしました」
前任者。森下は4本目を折った。
「前任者の手順書を全面的に見直し、検査手順の標準化を進めてまいります」
前任者。
5本目。
森下の右手はいつの間にか全部の指が折られていた。握り拳のまま、太ももに押しつけている。
承認が24日間止まっていたことには、権藤は最後まで触れなかった。
司会の社員がマイクの前に進み出た。
「それでは、ご質問を承ります」
一番奥の席から、1人の記者が立ち上がった。
「前任者というのは、今話題の『元品質管理の手品師』ではないですか」
会場の空気が、一段だけ濃くなった。
権藤は動じなかった。
「個人についてはお答えできません」
否定しなかった。
後ろの席で、記者たちが一斉にささやき始めた。濡れたようなざわめきだった。
「お答えできません、というのは、否定ではないですね」
同じ記者が続けた。権藤は答えなかった。答えないことが、答えになっていた。
スーツの内ポケットにUSBが入っている。10月21日に、消す前の版を保存したUSBだ。森下は右手を上げかけて、そのまま内ポケットの上に持っていった。上から手のひらで押さえる。布越しに、小さな四角い硬さが指に当たった。
この中に、3枚目がある。
『承認が24日間止まっていた』の行がある。
森下は左手をゆっくりと肩の高さまで上げた。指を伸ばして、まっすぐに。挙手の形にした。
その手首を、隣から掴む手があった。
広報の社員だった。腕を組んでいた片方の手をほどいて、森下の手首を強く、静かに握っている。ただ、手首を握ったまま小さく首を横に振った。
森下は、挙げた手を下ろせなかった。下ろすことも、上げたままにすることもできずに、腕が途中で止まっている。
手首を掴む力が、少しだけ強くなった。
◇
俺は居間の座卓に手帳を置いて、開いたままにしていた。テレビはついていない。代わりにひよりのスマホから、会見の音が小さく漏れていた。
「前任者の手順書では、段取り替え後の初品検査の頻度が、低く設定されておりました」
「おじさん、これ見て」
ひよりがスマホを座卓の上に滑らせてきた。画面には会見の切り抜きが流れている。権藤が「前任者」と言うたびに、白い字幕が画面の下に浮かんでは消える。
《手品師のせいでリコール》
《魔法の前に手順書直せ》
《誰でもできるんじゃなかったの》
俺はそれを最後まで見てから、ひよりにスマホを返した。
「ひどい」
母が言った。台所の入口に立ったまま、布巾を両手で絞っている。
「名前出してないけど、出してるのと同じじゃん」
ひよりが早口で言った。スマホを座卓に置く音が、少しだけ乱暴だった。
「訴えられないの、こういうの」
母が俺の顔を見ずに言った。
健司が居間の隅で腕を組んで立っていた。作業着のまま、頭に手ぬぐいを巻いている。
「兄貴、なんか言えよ」
声は低かった。怒っているというより、怒りを抑えている声だ。
俺は手帳を閉じた。表紙を上にして座卓の隅に置く。
「課長の言ってることは、嘘じゃない」
俺が言うと、居間の空気が止まった。
母が台所の入口で動かなくなった。ひよりがスマホから顔を上げた。健司は腕を組んだまま、指を1本だけ動かして止めた。父は縁側に座って新聞を読んでいたが、紙をめくる手を途中で止めた。
誰も何も言わない。
座卓の上で、ひよりのスマホがもう一度だけ震えた。新しいコメントが流れ込んでくる。
《こいつが悪いのか》
誰もそれを読まなかった。
「古い版の手順書には、段取り替え後の検査頻度が低く書いてあった。それは事実だ」
「俺は9月14日に、検査頻度を高くする改訂版を出した。それが、課長の承認待ちで止まっていた。それも事実だ」
一呼吸、置いた。
「課長は、止まっていたことを言っていない。言っていないだけで、嘘は言っていない。俺が作った古い版が現場に残っていた。それで流出した。間違いじゃない」
「それがどうした」
健司が言った。腕を組んだまま、指が二の腕に食い込んでいる。
「言ってないだけなら、何も言ってないのと同じだろ。みんな、兄貴が全部悪いって思うじゃねえか」
「思うだろうな」
俺は言った。
「だが、事実は別に記録がある。日付と、提出先と結果が、15年分」
ひよりがスマホを握り直した。親指が、画面の上で止まっている。書きかけの反論が、送信ボタンのすぐ上まで来ていた。
「待て」
俺の声に、ひよりの指が止まった。
「反論は、記録でする」
ひよりは顔を上げた。目が潤んでいる。唇を一度だけ噛んで、それから小さく息を吐いた。親指が、ゆっくりと画面から離れていく。
「……いつ」
声がかすれていた。
「いつ、それ出すの」
俺は答えなかった。
そのとき座卓の上で、俺のスマホが震えた。
画面が光って、名前が白く浮かび上がった。
森下悠真。
スマホと手帳を持って2階に上がる。自分の部屋の戸を開けて、中に入ってから後ろ手で閉める。
俺は机の前に立ったまま、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「すみません、すみません、止められませんでした」
森下さんの声は、喉の奥で潰れていた。
「何をですか」
「10月21日に、課長に、なぜなぜの3段目消しとけって言われて。是正報告から消したんです。今日の会見で、やっぱりおかしいって思って。手を挙げたら、広報の人に手首を掴まれて。それで、何も言えなくて。すみません」
電話の向こうで鼻をすする音がした。
俺は机の端に手帳を置いた。
「森下さんが謝ることでは、ありません」
「でも、俺、志摩さんが作った改訂版のこと、知ってて。消したのに。知ってて、会見でも言えなくて」
「課長に指示されて消した。広報に止められた。どちらも森下さんが決めたことじゃない」
俺は手帳の角を指で押さえた。
「森下さん。是正報告の、消す前の版は残っていますか」
電話の向こうで、森下さんの呼吸が止まった。それから絞り出すような声が返ってきた。
「……残ってます」
「どこにですか」
「USBに。自分の私物のUSBに、消す前のやつを保存してあります」
「それは、森下さんの判断で使ってください。社内の内部通報の窓口と、お客さんの品証の窓口があります。手順は、会社の規程に書いてあります」
「……はい」
「使うかどうかは、森下さんが決めてください。私からは、何かしろとは言いません」
「……はい」
「今日は、もう帰って休んでください」
「……はい。あの、ありがとうございます」
「お疲れさまでした」
通話を切った。画面が時計に戻る。16時47分。
俺はスマホを机の上に置いた。手帳を引き寄せて、開く。9月14日のページに貼った黄色い付箋が、夕闇の中でぼんやりと浮いている。付箋には、まだ何も書いていない。
「会社の社外秘は、自分からは1枚も出さない」
声に出して言った。自分のための確認だった。手帳を閉じて、机の上に置く。
それから押し入れの前に立った。
襖に手をかける。左の襖の、桟のあたりを指でつまんで静かに右へ滑らせる。乾いた木の音がして、襖が敷居の上を走っていく。
押し入れの奥から畳んだ布団の匂いと、古い紙の匂いがゆっくりと流れ出してきた。
奥から段ボールを出す。箱は6つ。側面に黒い油性ペンで「手帳」とだけ書いてある。退職の日に詰めて、そのまま押し入れの奥に置いていた。
1箱ずつ、畳の上に下ろす。
蓋を開ける。
中身は全部、俺の私物の手帳だ。
箱の中に46冊。机の上の今年の1冊と合わせて、15年分で47冊。A6の黒い手帳で、背に年月の白いラベルが貼ってある。
会社の書類は1枚も入っていない。退職のときに全部返した。
手帳の中身は要約だけだ。日付と、提案・提出先・結果。毎日3行か4行。それだけを15年間、同じ書き方で続けてきた。社外秘の数値は書かない。具体的な製品名も書かない。書き方のルールは、入社して1年目の終わりに自分で決めた。それ以来、破ったことはない。
戸の外で足音がした。
「おじさん、入っていい」
「いいぞ」
ひよりが戸を開けて半歩だけ入ってきた。段ボールを見て、一瞬だけ足を止める。それから黙って俺の前に座った。
俺は箱から1冊取って畳の上に置いた。ひよりはそれを両手で取って、表紙をじっと見てからゆっくり開いた。ページを1枚、2枚とめくる。
「……毎日書いてある」
ひよりが言った。声は小さかった。いつもの早口じゃない。
「これ、15年分、ずっと」
「ああ」
ひよりはもう何も言わなかった。手帳を膝の上に置いたまま、開いたページを見下ろしている。
廊下を歩く音がした。ゆっくりで、途中で一度止まる。父だ。
戸のところで足音が止まった。
父は段ボールをしばらく見ていた。それから、低い声でひとことだけ言った。
「お前も、書いてたな」
それだけだった。父はまた歩き出した。階段を下りていく足音が、小さくなっていく。
ひよりが、小さく息を吐いた。手帳を閉じて、表紙を両手で押さえている。
俺は段ボールの蓋を閉じた。手前の箱だけ閉じて、手を置く。段ボールの表面が少しだけ冷たい。
「ひより」
「なに」
「日曜の21時、配信の枠をくれ」
ひよりが顔を上げた。目が少しだけ見開かれている。
「30分で終わらせる」
「……いいけど」
ひよりは手帳を畳の上に置いて、俺の顔をまっすぐ見た。
「タイトル、どうする」
俺は手帳を1冊手に取った。表紙を指でなぞってから、畳の上に戻す。
「『おじさんの手帳』で」




