姪の手を引いて、物置の戸をくぐった
11月1日(日)4時58分。取材の車は3日前からいなくなっていた。
庭はまだ暗い。外灯が新しいフェンスの板を照らしている。物置の前に3人が立ち、縁側には父が座っていた。
俺は手帳を開いた。左のページに今日の日付を書き、その下に「同行試験」と書く。
「同行試験の手順を読み上げる」
「1、俺が先にくぐる」
「2、ひよりは手を離さない」
「3、異常があれば即中止だ」
ひよりはパーカーのフードをかぶり、両手をポケットに突っ込んだまま俺の隣に立っている。口元だけがもごもごと動いた。
「待って。宣誓みたいになってるんだけど」
「宣誓だ」
健司が腕組みをして、物置の戸を覗き込む。
「兄貴、俺も行く」
「駄目だ。試したことがない」
「だから試すんだろ。2人で行かせるわけにいかねえよ」
健司はそう言って、俺の反対側に立った。
俺は真鍮の鍵を物置の戸に当てた。
鍵を回す。蝶番が小さく鳴く。戸を引くと、向こうに朝の森が開けた。
「ひより、右手を出せ」
「はい」
ひよりの手は冷たい。
「健司、左手だ」
「おう」
健司の手は分厚くて温かい。父の手に似ている。
「行くぞ」
俺は左足から敷居をまたいだ。湿った土の感触が靴底に伝わる。
ひよりの手を引く。ひよりのスニーカーが敷居を越える。パーカーの袖が俺の腕に触れた。
通った。
次に、健司の手を引く。
健司の肩が戸枠のところで止まった。
「いってえ」
健司が額を押さえて後ろへよろけた。鼻の頭が赤い。
「なんだこれ。壁がある」
俺は健司の手を離さずにもう一度引いた。健司はまた、同じ場所で止まる。今度は額ではなく手のひらを前に出して、透明な何かを押すような格好になった。
俺は健司の手を離し、ひよりの手を引いて庭へ戻した。手帳を開く。5時02分。健司、戸枠で通過不可。壁のような抵抗あり。原因不明。
「ひより、今度は2人だけで試す」
引く。
通った。
ひよりのスニーカーが、こちらの庭の土から向こうの森の下草へ移る。抵抗はない。まるで普通の戸口だ。
「おじさん、今の見た目、完全に人体実験じゃん」
「実験ではない。検証だ」
「それ、もっと悪くない?」
健司が戸の枠に手のひらを当てたまま、ぼそりと言った。
「……兄貴、この戸の建て付け直したの、俺なんだけどな」
俺は手帳を開いたまま、健司の顔を一瞬見た。それから左のページの下に書き足す。
5時04分。同行試験。1名まで通過(2名目は戸枠で停止)。手を離した場合の挙動は未検証。危険のため実施しない。
縁側のほうで、がた、と小さく音がした。
父が縁側から立ち上がっていた。紺のカーディガンを肩にかけて、腰に手を当てている。
「行ってこい」
それだけ言って、父は縁側に腰を下ろした。俺は手帳を胸ポケットに戻した。
俺はひよりの右手をもう一度握った。ひよりの指はさっきよりも少しだけ温かい。
俺が先に敷居をまたぐ。ひよりが続く。
湿った土と葉の匂い。それから、どこかで鳥が鳴いている。こちらの庭にはいない種類の、細くて長い鳴き声だ。
ひよりがぴたりと立ち止まった。俺の手を握ったまま、胸のあたりまで大きく息を吸う。肩が上がる。
「空気、甘い」
ひよりの声がいつもより小さかった。
俺は腕時計を見た。5時06分。王都の門まではここから歩いて1時間だ。
森の中は思っていたより明るかった。
ひよりは3歩歩いては止まり、5歩歩いてはしゃがんだ。
ひよりは立ち上がってスマホを構えた。シャッター音が森に響く。
「電波はない。写真は撮れる」
「圏外って出てる。地図も動かない」
森を抜けると道に出た。踏み固められた土の道で、荷車の轍が2本まっすぐ西へ延びている。
道の先に門が見えた。両開きの鉄の扉が半分開いていて、その前に槍を持った男が2人立っている。片方は俺の顔を見て、槍を立てたまま軽く顎を引いた。
「シマ殿。お連れですか」
「私の姪です。身分証はありません」
門番はひよりを見た。ひよりは俺の半歩後ろで、スマホを両手で握ったまま固まっている。
「通行料、銀貨1枚です」
俺は鞄から銀貨を出して渡した。門番は銀貨を親指で弾いて音を確かめ、それから胸元の革袋に落とした。
ひよりが俺の袖を引いた。小声で早口で言う。
「待って待って待って」
「なんだ」
「今の、全部分かった。あの人絶対日本語じゃないよね? 口の動き、全然違う」
「違う。エルディアの言葉だ」
「なのに分かるの?」
「理由は、分かっていません」
「分かってないの?」
「分かっていません」
ひよりは両手で顔を包んだ。指の間から息が漏れる。
「その言い方、ちょっと安心する」
「そうか」
「おじさんが分かってないなら、あたしが分かってなくても怒られないじゃん」
俺は門をくぐった。鉄の扉の下を、ひよりのスニーカーが続く。
門の内側は音が変わった。石畳に靴音が跳ね返って、市場のざわめきが上から降ってくる。
ひよりが立ち止まった。
「……すごい」
塔の扉をくぐると、石の廊下がひんやりと足元から冷えてきた。ひよりのスニーカーが石畳を叩く音だけが、やけに大きく響く。
実習室の戸を2度叩いた。
「入りなさい」
戸を開ける。奥の壁には『《着火》作業手順書 第3版』の絵の写しが貼ってあった。セレスティアさんが机の前に立ち、銀髪の三つ編みを背中に流したままこちらを振り返る。
紫の瞳が俺の後ろのひよりの顔のあたりで止まった。
「待って、美人」
ひよりが言った。声は小さくない。
セレスティアさんは片方の眉をほんの少しだけ上げた。
「……弟子。この子は」
「私の姪です。ひよりと言います」
セレスティアさんはひよりの顔を上から下まで見て、それから俺のほうへ向き直った。
「あなた。この子の服は、こちらの物ではありませんね。それに、手に持っている板。あれは何です」
「スマートフォンです。映像を記録する道具です」
「映像を。記録する」
セレスティアさんの声が、わずかに早くなる。袖口のインクの染みが揺れる。
「記録の方式は。紙ではない。板の表面に像が映るのですか。像は保持されるのですか。複製は。保存期間は。光源は」
「待って待って待って。無理。質問多すぎ。あたし答えきれない」
セレスティアさんは口を閉じた。それから、すっと背筋を伸ばした。
「わたくしは、そちらの品を見ると早口になります」
「今の自覚あったんだ」
「あります」
そのとき、廊下からぱたぱたと軽い足音がして、戸口にルカが立った。
「先生、姪っ子さんっすか」
「先生って呼ばれてんの? おじさんが?」
ひよりが俺の顔とルカの顔を交互に見た。
「先生っすよ。火の点け方、全部この人が教えたんす」
ルカがひよりの前まで来て首をかしげた。
「姪っ子さんも、火、点けてみるっすか」
「えっ」
「《着火》っす。簡単っすよ」
「あたし、3回失敗してるんだけど」
「何回失敗しても、手順書があれば点くっす」
ひよりは俺の顔を見た。目が迷っている。それなのに、口元だけ笑っている。
「やる」
ひよりは壁の前に立った。背中を石壁にぴたりとつけて、両手をだらりと下げている。口元がむずむずしている。
ルカが壁の絵を指さした。指の先で、工程2の絵をとんとんと叩く。
「吸気は、おなかに空気をためるっす。胸じゃなくて、おなかっすよ」
俺は手帳を開いた。左のページをめくる。配信の夜の記録がそこにある。不良A×2、C×1。吸気を4拍→6拍で試す。
「ひより。今日は吸気を6拍でやれ」
ひよりは言われたとおりに息を吸い始めた。ルカが横で、手をぱんぱんと拍子の代わりに打つ。
「いち、に、さん、し、ご、ろく」
「止めるっす。そのまま4つ数えるっす」
ひよりの頬がぷくっと膨らんでいる。眉間にしわが寄っている。必死だ。
それなのに、口元が笑いそうになっている。こらえている。肩が小刻みに震えている。
「んー!」
ひよりが詠唱を一息で吐き出した。指先を前に突き出す。
何も点かない。
「不良Aです」
俺は手帳に書き込みながら言った。
「吸気不足だ。もう一度」
ひよりはもう一度壁に背をつけた。今度は笑いそうになっていない。口を真一文字に結んでいる。
「いち、に、さん、し、ご、ろく」
腹がふくらむ。止める。ルカの手が4つ刻む。
「んーっ!」
指先に、豆粒ほどの火が点いた。
橙いろの、小さな火。ろうそくの火よりもっと小さい。
1秒。
2秒。
ふっと消えた。
「え、待って。今点いたよね。点いた。今の見た?」
「見た。点いた。でも消えた。6拍のまま、肩を上げずに腹で吸え。ルカさん、もう一度お願いします」
「任せるっす」
「いち、に、さん、し、ご、ろく」
ひよりは目を閉じて、腹をふくらませる。今度は迷いがない。肩が上がっていない。
「止めるっす。4つ」
ルカの手が静かに4回打たれる。
ひよりの指先がまっすぐ前に向けられている。震えていない。
「んーっ!」
指先から、火が立った。
親指の先ほどの火がまっすぐ上を向いて燃えている。ゆらゆらと揺れている。消えない。
1秒。2秒。3秒。4秒。5秒。
ひよりは目を見開いた。
「……点いた」
声がかすれている。笑っているのか、泣いているのか自分でも分からないような顔だ。
「点いた。点いた。点いたじゃん」
「点いた」
ルカがにっと笑ってひよりの肩をぽんと叩いた。
「おれ、2日かかったっす。姪っ子さん、1日目っすよ」
ひよりは火を点けたままの指先をそっと顔の前に持ってきた。
「あたし、これ、配信で3回失敗したやつ」
「ああ」
「あのときは、吸気が足りなかったの?」
「地球の空気は魔素が薄い。それもある。でも、1回目は吸気不足だ。2回目もだ。3回目は詠唱の息継ぎ。記録にある」
「おじさん、あたしの失敗ぜんぶ記録してたんだ」
「した」
「なんで」
「教えるためだ」
火がふっと消えた。
俺は手帳に書く。
ひより:不良A、直りました。エルディア(魔素が濃い)で吸気6拍。
書き終えて、顔を上げる。
「不良A、直りました」
ひよりがぱっと顔を上げた。それから笑った。声を出して笑った。目はうるんでいる。
セレスティアさんが壁際からこちらを見ていた。口元がわずかに緩んでいる。
「弟子。この子、筋がいいです」
「はい。知っています」
ひよりがスマホを両手で持ち直した。泣き笑いの顔のまま、鼻の頭が赤い。
「おじさん。これ、撮っていい?」
「写真はいい。上げるのは駄目だ」
「じゃあ、あたしのスマホの中だけ」
「それでいい」
シャッター音が鳴った。ひよりは壁の手順書の絵を撮り、ルカを撮った。ルカがピースをして、それから恥ずかしそうに手を下ろした。
「あの、セレスティアさんも撮っていいですか」
「わたくしを」
セレスティアさんは一瞬、紫の瞳を瞬かせた。それから背筋を伸ばして、三つ編みを片手で胸の前へ持ってきた。
「よろしい」
ルカの案内で市場を回って、塔に戻ったのは昼を少し過ぎたころだった。
客員の部屋の前まで来た。俺は戸の前で足を止めて、手帳を開いた。
今日の日付の下に、1行だけ書く。
同行者も同じ時間を過ごす。
それだけだ。それ以上の説明は書かない。ひよりが後ろから手帳を覗き込んだ。
「なにそれ。なんの行」
「記録だ」
俺は手帳を閉じて、胸ポケットに戻した。
「帰るぞ。地球では、まだ8分だ」
物置の戸を引くと、こちらの庭の空気が流れ込んできた。ひんやりしていて、どこか土の匂いが薄い。
俺が先に敷居をまたいだ。ひよりのスニーカーが続く。
「早っ」
健司が物置の前に立っていた。腕時計を見ている。
「8分。ほんとに8分だ」
父は縁側に腰を下ろしていた。紺のカーディガンを肩にかけたまま、庭の外灯のほうを見ている。
「おう」
それだけだった。俺は手帳を開いて5時14分と書く。その横に「同行試験終了。往復8分。異常なし」と書いた。
ひよりは物置の横に立ったまま、スマホの画面を見ている。指で滑らせて、止めてまた滑らせて。
「200枚」
ひよりが言った。声が小さい。
「超えてた」
ひよりはスマホを下ろした。それから、物置の戸のほうを振り返る。戸はもう閉じている。
「おじさん」
「なんだ」
「これ、あたし一生黙ってられる自信ない」
ひよりの声は笑っているようで、笑っていなかった。
俺は手帳を閉じた。
「じゃあ、手順書を書くか。黙る手順の」
ひよりがぱっと俺の顔を見た。
「は?」
家の中で、居間のテレビがついていた。日曜の朝の情報番組が、小さな音で予告を流している。
「今週、臨時国会で教育の議論が始まります」
画面の前には、誰もいない。




