家の前に車が3台来て、向かいのおばあちゃんが出てきた
【人気配信者の自宅に侵入 埼玉・狭間市】
10月28日(水)の朝7時過ぎ、そのネットニュースは、ひよりのスマホに通知で来た。
記事に名前は出ていない。それでもコメント欄には「手品師のおじさん」と「狭間市」が並んでいた。
ひよりのチャンネルの登録者は、一晩で26万になっていた。
7時12分。家の前の道に、ワゴン車が3台止まっていた。
ひよりは食卓に突っ伏していた。パーカーのフードをかぶったまま、腕の中に顔を埋めている。
「学校、休む」
くぐもった声がテーブルに落ちた。
「そうしろ」
7時20分。固定電話が鳴った。母が出る。
「はい、志摩です……ああ、校長先生。おはようございます。……ええ、そうなんです。……はい、今日は休ませます。……いいえ、こちらこそご迷惑を」
美咲さんが階段を下りてきた。夜中の騒ぎのあと、横になっても眠れなかった顔だ。
「寝ようと思ったんですけど、全然眠れなくて」
美咲さんはひよりの隣に座った。ひよりの背中に手を当てる。ひよりは動かない。
7時40分。母がゴミ袋を両手に持って、勝手口から外へ出た。
マイクが伸びてきた。カメラが回る。
「すみません、お伺いしたいのですが」
「手品師の方のご家族ですか」
母は立ち止まった。ゴミ袋を胸の前で抱え直す。
いつもの母なら、ここで何か言う。長く早口で、相手が引くまで喋る。
母は何も言わなかった。
勝手口の戸が開いた。母が入ってきて、背中で戸を閉めた。鍵をかける手が震えている。
「……恒ちゃん」
母は台所に立ったまま、俺を見た。ゴミ袋を持っていた手をエプロンで拭いている。
「ごめんね。何も言えなかった」
声が小さい。泣いているわけではない。ただ、声が小さい。
俺は流しの前に立ったまま、母を見た。
「それで合ってる」
母が顔を上げる。
昼過ぎ、居間の座卓で俺はスマホから真壁さんの番号を呼び出した。
「志摩さん、お疲れさまです。そちら大変でしたね」
俺は窓の外を見た。道路のワゴン車は3台ともまだいる。カメラは三脚に載ったままだ。
「昨夜の件で、所轄には被害届を出しました。家族が撮影されていて、生活に支障が出ています。国として動けますか」
「公には動けません」
真壁さんの声は低く、しかし迷いがなかった。
「ただ、所轄の生活安全課にご相談の窓口を1本にするよう、話は通せます。問い合わせが分散しないようにするだけです。抑止にはなるはずです」
「お願いします」
通話が切れた。
俺はスマホを置いて手帳を開いた。左のページに書く。13時48分、真壁に連絡。所轄の窓口一本化を依頼。了承。
【家族の対応手順】
・取材には家族の誰も答えない。名刺は受け取らない。戸を開けない。
・インターホンには、まず父が出る。母は出ない。
・ひよりの通学は、当面健司が車で送る。帰りも健司が迎えに行く。
・外出時の記録は、恒一が取る。時刻と場所と相手。
書いて、台所の冷蔵庫にマグネットで貼った。
ひよりは食卓の隅で、スマホを伏せたまま座っている。
「チャンネル、やめる」
ひよりが言った。顔は上げない。声は小さく、けれどはっきりしていた。
俺は冷蔵庫の前から振り返る。
「やめる理由が、ひよりの側にない」
ひよりの肩が少しだけ揺れた。顔を上げる。目は赤い。泣いてはいない。口が真一文字に結ばれている。
「でも、家にまで来たじゃん」
「来たのは向こうだ」
ひよりはしばらく俺を見ていた。それから、伏せていたスマホを両手で持ち、膝の上に置いた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
母の肩が跳ねた。父が縁側から立ち上がって、インターホンの前に行く。貼り紙の2行目だ。
「……向かいの、佐伯さんだ」
父が先に門を出た。俺はその半歩後ろに続く。
向かいの佐伯さんが、白い割烹着のまま道路の真ん中に立っていた。小柄な背をまっすぐ伸ばして、ワゴン車の前に立つ。
「ここは私道ですよ」
佐伯さんの声は小さい。だが、騒がしい道路の上でその声だけがすとんと通った。
「車、どかしてちょうだい」
マイクを構えた男が一歩前に出た。首から下げたプレス証が、秋の陽に光る。
「公共の関心事です。手品師が本物なら、知る権利があります」
佐伯さんは男の顔を見上げた。見上げたまま、動かない。
「知る権利って、何時から何時までなの」
男が返答に詰まる。その隙に、道路の向こうから町内会長が回覧板を胸に抱えて歩いてきた。
「あらあら、朝から大勢で何かと思ったら」
「志摩さんちの恒ちゃんはね、15年、回覧板を1日も遅らせたことがないの」
町内会長は俺の顔ではなく取材陣のほうを見て言った。
「そういう人を、手品師だなんだと騒いで。近所はみんな寝てるのよ」
取材陣が互いの顔を見た。マイクを持つ手が下がる。カメラのレンズが、佐伯さんと町内会長のほうへ向く。
「どいてちょうだい。郵便屋さんが通れないの」
佐伯さんは、ワゴン車の運転席の窓を指の背でこつこつと叩いた。
1台目のワゴン車がゆっくりと路肩から動き出した。
2台目が続いた。3台目は道の先の角まで下がって、ハザードを点けたまま止まった。
父が、道路の先を見たまま低い声で言った。
「ご近所に、助けられちまったな」
俺は手帳を開いて14時08分と書いた。その横に、小さく「取材車両2台退去。佐伯さん、町内会長」とだけ書き足した。
15時。健司の工務店の白いトラックが、家の前に横付けされた。
「兄貴、親方連れてきた」
「ああ」
俺は玄関から出てトラックの横に立った。親方は日焼けした顔に首へタオルを巻き、若い衆3人はすでに軍手をはめている。4人とも、俺の顔を見ると軽く頭を下げた。
俺は内ポケットから折り畳んだA4の紙を出して、親方に差し出した。一番上に【塀目隠しフェンス工事 工程表】と書き、その下に時刻を並べてある。
15時00分 基礎ブロック据え付け 16時00分 支柱建て込み 17時00分 フェンス板取り付け 18時00分 仕上げ・清掃・確認
父が縁側に腰かけて、庭の様子を見ている。ときどき立ち上がり、植木鉢を1つずつ端へ寄せていく。無言のまま、職人の動きを邪魔しない位置に置き直す。
17時。フェンス板が取り付けられていく。木目調の板が、ブロック塀の上にまっすぐ並ぶ。外の道路からは、庭も窓も見えなくなる。
18時ちょうど。最後のビスが打たれ、親方が水平器を当ててフェンスの端から端まで目で追った。
「志摩さん、終わりました」
親方は工程表を胸ポケットから出して、もう一度見た。
「志摩さん。この工程表、うちの現場でも使っていいか」
「どうぞ。改訂したら教えてください」
親方は一瞬、目を丸くした。それから「ああ」と短くうなずいて、工程表を大事そうに胸ポケットへ戻した。
「志摩さん、やっぱりあんた現場向きだわ」
俺は道路へ出た。家の前は静かだ。路肩に車はない。道の先の角に、ハザードを点けたワゴン車が1台だけ残っている。
俺は手帳を開いて18時22分と書いた。その下に「工事完了。取材車両、残り1台」と書いた。
21時50分、俺はひよりの部屋の戸を叩いた。
「物置に来てくれ。話す」
22時。物置の前で俺は手帳を開いた。庭の外灯が新しいフェンスの板を照らしている。
ひよりはパーカーのフードをかぶったまま、物置の戸から2歩離れて立っている。腕を組んでいる。目は俺の手帳を見ていた。
「報告の形で話す。親父と健司に話したのと同じ順番だ。質問は最後にまとめてくれ」
「1、この鍵について」
スウェットのポケットから真鍮の鍵を出して、手のひらに載せる。鍵は外灯の色を返した。古いのに、錆びていない。
「閉じた戸に当てて回すと、戸の向こうが別の場所につながる」
「待って待って待って。今なんて」
「2、つながる先。ここから入ると向こうの東の森の、倒木のそばに出る。街がある。人がいる。言葉は通じる。街の名は王都ルーメンだ」
「王都って。王都って言った? おじさん今、王都って」
「言った。3、時間の割合。向こうの1日がこちらの16分だ」
「16分。1日が。24時間が16分」
「そうだ」
「4、持ち込める物。手に持っている物だけが通る。服は通る。ポケットの中は通る。鞄は通る。地面に置いた物は通らない」
「待って。待って。情報量多すぎ。1個ずつ。1個ずつにして」
「5、魔石。向こうの魔物から取れる石だ。魔法の燃料になる。握って魔法を使うと色が抜ける。灰色になったら終わりだ。今、残りは43個」
「魔物。魔物って出た。今。魔法も出た」
「出た。6、向こうで世話になっている人。師匠のセレスティア。見習いのルカ。見習い神官のミラ」
「誰。全員誰」
「7、向こうから持ち帰った物。角、肉、糸」
「角と肉と糸」
ひよりが復唱した。声がだんだん小さくなっていく。
「……あの角? バーベキューの肉? 光る糸?」
「そうだ」
ひよりは両手で自分の顔を包んだ。指の間から息が漏れる。
俺は手帳を閉じた。
「以上だ。質問をどうぞ」
「で、それ。その鍵で開くんでしょ。開くの? 今」
「開く」
俺は真鍮の鍵を物置の取っ手の横に当てた。
鍵を回す。真鍮の感触が指に残る。戸を引くと、蝶番が小さく鳴いた。
戸の向こうに、夜の森が広がった。
月明かりが木々の間を抜けて、下草の上にまだらに落ちている。倒木が1本、光の筋の中に横たわっていた。湿った土と葉の匂いが、敷居のところから流れ込んでくる。
ひよりが、口を開けたまま固まった。
「待って待って待って待って」
「森じゃん」
「森だ」
ひよりは敷居の手前で立ち止まった。爪先が、こちらの土と向こうの土の境目で止まっている。フードをかぶり直して、それからかぶり直すのをやめて、両手をパーカーのポケットに突っ込んだ。
ひよりが身を乗り出して、森の奥を見た。それから俺の顔を見る。
「おじさん、毎晩ここ行ってたの?」
「毎晩じゃない。記録はある」
「白髪」
「なんだ」
「それ、向こうのせい?」
ひよりの指が、俺の頭のほうを指した。俺は手で髪に触れた。白髪の混じった黒髪だ。
「白髪は、誤差だ」
「誤差で済ませるの? 40歳でその白さ、誤差?」
「誤差だ」
ひよりは口を閉じた。閉じたが、目はまだ俺の髪のあたりを見ている。
それから、視線を森のほうへ戻した。月明かりの中の倒木を見ている。
「……それ、撮っていい?」
ひよりの声が、少しだけ低くなった。ポケットからスマホを出しかけて、俺の顔を見る。
「駄目だ」
俺は戸を片手で押さえたまま答えた。
ひよりはスマホをポケットに戻した。戸の向こうの森を見たまま、小さく言った。
「連れてって」
「試したことがないので、分かりません」
ひよりが、ぱっと俺の顔を見る。
「なんで敬語」
「試したことがないので、分かりません」
「じゃあ、試そ」
ひよりはそう言って、俺の空いている手を握った。指が冷たい。握る力は、思ったより強い。
俺は腕時計を見る。22時14分。
「今夜は駄目だ。取材の車が、まだ1台いる」
「じゃあ、いなくなったら」
「……ああ」
俺は戸を閉めた。蝶番が小さく鳴く。ひよりの爪先は、こちらの土の上に揃えて残っていた。
手帳を開いて、22時15分と書いた。
その下に、「同行試験 予定」と書いた。




