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年俸300万ドルの面談で、勤務時間を聞いた




年俸300万ドル。1ドル150円で、4億5,000万円になる。


退職金の、約58倍だ。


10月27日(火)の14時。大宮のホテルのラウンジに着いたのは、約束の5分前だった。


ラウンジは平日の昼下がりで、人の姿がまばらだった。


絨毯の上を歩く足音も、カップを置く音もやけに遠くに聞こえる。空調の音が一定の高さで唸っている。


30代半ばに見えるエヴァ・ローレンスは、窓際の席に背筋を伸ばして座っていた。


金髪は一筋の乱れもなく後ろでまとめられ、灰青の目はこちらの姿を認めると静かに細められる。


黒のパンツスーツは肩の線がきっちり出ていて、左手首の細い腕時計だけが光を受けてちかりと瞬いた。


彼女が軽く会釈をして、俺は向かいの椅子を引いた。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


声は思ったより低く、子音がはっきりしている。日本語は流暢だが、文末だけわずかに正しすぎる。


俺は紺のスーツの内ポケットから手帳を取り出し、テーブルの上で開いた。


ボールペンを抜いて、今日の日付と開始時刻を書く。13時56分。


真壁さんには昨日のうちに連絡してある。


「同席はしませんが、議事録をいただければ」という返事だった。議事録はこちらで作る。


「どうぞ、おかけください」


エヴァが右手で椅子を軽く示す。もう座っている。


「先に、ひとつお詫びをさせてください」


彼女は両手を膝の上で揃えて、まっすぐこちらを見た。


「志摩様のお名前を知った経緯です。クロダ精機の退職者名簿と、配信に映った、指輪のない左手と、腕時計の跡から可能性を絞りました。調査会社を使いました。失礼をお詫びします」


俺はペンを置かずに、手帳の端に「名簿」「左手」「時計の跡」とだけ書いた。


「そうですか」


真壁さんの言っていた海外の企業は、ここだったらしい。


エヴァは悪びれなかった。声にも表情にも、言い訳の成分は見当たらない。謝罪に時間を割かない。合理的だ。


「本題に入ります」


彼女は背筋をさらに伸ばした。灰青の目は俺の顔を外さない。


「Helix先端素材研究所の所長として、志摩様をお迎えしたいと考えています」


間を置かず、条件を並べた。


「年俸は300万ドルです。研究費は上限を設けません。ご家族の渡米も、住居から学校までこちらで手配します」


前の会社の年収は残業を全部込みにしても、その70分の1を少し超えるくらいだった。


同じ額を稼ぐには、俺はあと70年近く働く必要がある。


クロダ精機を15年で辞めた男に、これから70年は長い。


定時で帰れるようになったのは、つい先月のことだ。


俺は手帳に「300万ドル」「研究費 上限なし」「家族 渡米」と書いた。数字が並ぶ。ボールペンの先が紙の上で止まっている。


顔を上げる。


エヴァは、こちらの返事を待っていた。待つ姿勢が営業のそれではなく試験官のそれに近い。


断られる可能性を計算に入れた上で、まだ観察している。


俺はまだ、返事をしない。


紙が、すっと差し出された。


エヴァの指先がテーブルの中央で止まる。白い紙が1枚、俺の手前に置かれる。


上半分に英語、下半分に日本語。同じ内容が2か国語で並んでいる。罫線は引かれていない。


行間が均等で、余白がきれいに揃っている。


俺は紙を引き寄せた。目を上から下へ動かす。給与、研究費、住居、家族の渡航費、査証、子女の教育費。


英語の欄と日本語の欄を交互に読む。数字が一致している。表記のばらつきがない。


誰かが作って、誰かが確認した書類だ。


手帳に目を落とした。開始時刻の下に、紙の項目を上から順に写す。書く必要はない。ただ、目で追った順に手が動く。


「確認させてください。勤務時間は」


顔を上げずに聞いた。ペンは止めない。


エヴァは背筋を動かさなかった。


「私たちは時間を数えません。成果だけです」


声は淀みない。数えるという言葉を、彼女は少しだけ軽く置いた。


俺は手帳の「研究費 上限なし」の下に線を引いた。


「時間を数えない職場は、手順書がない職場です」


ペンを置く。テーブルの上で、かち、と小さい音がした。


エヴァの灰青の目が、わずかに細くなる。細くなったというより、こちらの言葉を測る位置に戻った、という感じだった。


俺は手帳のページを指で押さえた。


「定時で帰れないので、お断りします」


遠くでカップがソーサーに触れる音がした。エヴァは驚かなかった。


驚く代わりに、左手首の腕時計を一度だけ見た。それから顔を上げる。切り替えの速い人だ。


断られたことを記録に残して、次の項目へ移る。


「では、勤務時間は自由に。在宅で週に1日でも構いません」


彼女は紙を指で軽く押した。声の温度は変わらない。譲歩を、譲歩と呼ばない人がいる。彼女はその手合いだ。


俺はペンを取り直して、手帳に「在宅」「週1日」と書いた。書いてから、ペンの先を紙の上で止める。


「自由な時間は、定時とは違います」


顔を上げる。エヴァの目をまっすぐ見た。


「終わりが決まっていない仕事は、終わりません」


言い終えてから俺は手帳を閉じた。閉じる音がラウンジの静けさの中で少しだけ大きかった。


エヴァは動かなかった。灰青の目がこちらの顔の上で止まっている。3秒。5秒。空調の音が、その間を埋めた。


「……テイジ」


彼女の口が、その単語の手前で一度だけ止まった。完璧だった日本語の、はじめての継ぎ目だった。すぐに続けた。


「定時、という言葉を私は条件として数えていませんでした」


言ってから、彼女は自分の言い方を聞き直すように、わずかに口を結んだ。


俺は何も言わなかった。訂正する必要がない。彼女はもう、自分で数え直していた。


エヴァは紙に手を伸ばした。白い紙の端を指でつまんで、自分のほうへ引く。ゆっくりと、まっすぐに。


テーブルの中央を越えて、彼女の手前に戻る。それから紙を裏返して、伏せた。


白い裏面が、テーブルの上に残った。


エヴァは伏せた紙をしばらく見ていた。それから顔を上げた。灰青の目に、断られた悔しさの色はない。あるのは計算の続きだ。


「志摩様。条件の話は、もうやめます」


彼女は両手を膝の上に戻した。背筋は伸びたままだ。


「ひとつだけ、言わせてください」


「どうぞ」


「あなたの技術を、日本の役所に任せれば何十年も眠ります」


声の高さは変わらない。けれど言葉の間が、さっきより少しだけ広い。考えながら話している人の間だ。


「予算の年度が変われば止まり、担当者が変われば忘れられます。審査は積み上がり、書類は増え、決まった頃には誰も最初の目的を覚えていない。私は、そういうものを何度も見てきました」


エヴァは左手首の腕時計を、今度は見なかった。


「世界に配るには、世界規模の会社が要ります。国境は、技術を止めます」


彼女は一拍置いた。


「独占しないためにこそ、私たちと組むべきです。私たちは、配るために存在しています」


遠くでグラスが鳴った。俺は閉じた手帳の上でペンを寝かせた。寝かせたまま、しばらく動かさなかった。


「それは、一理あります」


俺はペンを起こした。けれど何も書かない。


「ただ、配るかどうかを決めるのは今は私ではありません」


書くことはない。ペンを手帳の上に戻した。


エヴァは、誰が決めるのかを聞かなかった。聞かないという選択を、彼女は一瞬で終えた。


灰青の目が、こちらの顔の上で静かに落ち着く。聞いても答えないと、判断した目だった。


彼女は足元の鞄に手を伸ばした。留め金を片手で外し、中から名刺入れを出す。


黒い革で、角が少しだけ擦り切れている。使っている人の名刺入れだ。


「志摩様」


差し出された名刺を受け取った。白い紙に、社名と名前と電話番号と、メールアドレスが並んでいる。


罫線はなく、余白が均等だ。さっきの紙と同じ作り手の仕事だった。


俺はスーツの内ポケットを探った。名刺入れはない。9月30日に、会社に置いてきた。


手帳を開く。最後の、まだ何も書いていない白いページを、指でゆっくりと1枚だけ切った。


切れ端を渡すのは、今月2枚目だ。


ボールペンを取る。


志摩恒一、と書いた。携帯の番号を書いた。最後に少し間を置いて、「元 品質管理」と書いた。それだけだ。


切れ端をエヴァの手前に置いた。


エヴァは両手で受け取った。目を上から下へ動かす。名前、番号、元 品質管理。


そこで目が一度だけ止まった。止まったことを、彼女は隠さなかった。


「元、品質管理」


声に出して読んだ。読み終えてから、彼女は切れ端を名刺入れにしまった。自分の名刺と同じ場所に、丁寧にまっすぐに。


留め金を閉じる音がした。


エヴァは立ち上がった。椅子を引く音が、絨毯に吸われて小さかった。


「また来ます」


鞄を左手に持ち、右手を軽く添える。


「あなたが定時で帰れる時間に」


俺は座ったまま軽く頭を下げた。エヴァは背筋を伸ばしたまま、ラウンジの出口へ歩いていく。


ヒールの音が、絨毯の上で規則正しく遠ざかる。途中で一度も振り返らなかった。


俺は手帳のページを今日の日付まで戻して、条件の下に書いた。


14時42分。


俺は今日のページを読み返した。日付、開始時刻、条件の数字、そして終了時刻が並んでいる。


そのまま議事録を打って、真壁さんにメールで送った。件名は『10/27 Helix社 面談 議事録』。15時06分。


俺は手帳を閉じて内ポケットに戻した。


ホテルを出る。午後の光がまぶしくて、俺は少しだけ目を細めた。大宮駅までは歩いて7、8分だ。


歩いている途中で、真壁さんから返信が来た。


『拝受しました。300万ドルを、勤務時間の確認で断られたという理解でよろしいですか』


よろしいです、と返した。


改札でSuicaをかざすと、軽い電子音がした。人波に押されるようにホームへの階段へ向かう。


その途中で、上着の内側のスマホが震えた。


階段を上がりきったところで足を止める。ホームの端に寄って、スマホを見た。ひよりのLINEが3通届いている。


『おじさん なんか変な人に後つけられてる』


『駅から』


『2人』


画面の時計を見る。15時24分。狭間駅からだろう。


親指が、先に返信欄を開いていた。


エヴァの「また来ます」が頭をよぎる。ただし決めつけない。


Helixの調査会社かもしれないし、配信の視聴者かもしれない。


俺は改札のほうへは戻らなかった。タクシーを探すより、電車のほうが早い。狭間市まで40分。その間に連絡の手順を回せる。


ホームに電車が滑り込んでくる。俺はドアの近くに乗って、空いている席に腰を下ろした。


背もたれに体重を預けず、浅く座る。スマホを両手で持ち、ひよりへの返信を打つ。


『明るい店に入って、店員さんの近くにいろ。健司にも電話する』

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