王都の市場で、姪へのお土産に糸を買った
「先生、これ食べてないっすよね」
ルカが串を1本、俺の顔の前に突き出した。
「食べていません」
「じゃあ食べるっす」
10月22日の21時に物置の戸を開けたら、こっちは3か月目の23日の朝だった。
王都ルーメンの市場は朝から人が多い。石畳の道の両側に屋台が並び、焼き台の煙が屋根の間を縫って流れていく。休みの日なので、俺は鞄を持っていない。
俺は串を受け取った。大猪の肉は塊のまま串に刺さっていて、表面が濃いきつね色に焼けている。
ひと口かじると、脂が先に来た。噛むと中から汁が出る。塩だけの味付けだ。
前に実家の庭で焼いた肩肉と同じ味だった。いや、同じではない。あのときは温度計を刺して75度で1分、規定どおりに焼いた。こっちは焼き手の勘で焼いている。なのに、噛んだ瞬間の汁の量が近い。
「どうっすか」
「焼きすぎていません。悪くないです」
「悪くないって、先生、それ褒めてるんすか」
「褒めています」
ミラが横から串を覗き込んだ。白い法衣の裾を踏まないように持って、栗色の髪の結び目が揺れる。
「シマ様、脂が垂れています」
「そうですか」
「袖に垂れます」
俺は串を少し遠ざけた。
セレスティアさんは俺の横を歩いている。紺のローブ、銀髪の三つ編み、袖口のインクの染み。
「あなた、休みの日にまで王都を歩くのですね」
「市場の様子を見ておきたいので」
「買い物ではなく、視察ですか」
「食べ歩きです」
セレスティアさんは少し間を置いて、それから「そうですか」と言った。
道の向こうから、こちらを見ている人がいる。手ぬぐいを首に巻いた男だ。市場の荷運びの男で、講習の7日目に来た人だった。目が合うと、男は連れの肩を叩いた。
「ほら、あの人だ。審問の客員だ」
「ああ、あの人か」
「俺の指に火を点けた人だ」
悪意はない。声も大きい。好奇心だ。
ルカがむっとした顔で俺の前に出た。
「先生、気にしないでいいっす」
「気にしていません」
俺は隣の屋台の焼き台の前で足を止めた。鉄板の上で薄い肉が並べて焼かれている。店ごとに炭の組み方も火の強さも違う。焼き色のつき方にばらつきがある。
「火加減の手順書があれば、焼き色のばらつきは半分以下に――」
「今日は休みです」
セレスティアさんが俺の言葉を遮った。紫の瞳をこちらに向けている。
「休みの日にまで工程の話をしなくてよろしい」
「……そうします」
「よろしい」
ルカが次の屋台の前で手を振っている。蜜を練り込んだ生地を指の先ほどに丸めて、鍋の中でくるくると揚げている。
俺は銅貨を1枚出して菓子をひとつ受け取った。ひと口かじると蜜が歯の裏に張りついた。甘い。
ルカが駆けていって、赤い果物を3つ取ってきた。拳より一回り小さくて、皮がつやつやと光っている。
俺は皮をむかずにかじった。歯を入れた瞬間、果汁が口の中で弾けた。
酸っぱい。
眉のあたりが引きつる。甘さはほとんどない。それなのに後味が妙にさっぱりしていて、もうひと口かじっていた。
「先生、顔がすごいっすよ」
「そうですか」
ミラが自分の果物を両手で持って、小さくかじって眉を寄せた。
「……酸っぱいです。これは不良ではありません。こういう味です」
「不良ではないです」
「はい。不良ではありません」
市場の真ん中あたりまで来ると、蜂蜜酒の屋台が並び始める。屋台の主人が、俺の顔を見て器を差し出してきた。
「兄ちゃん、一杯どうだ。朝から温めてある」
「業務中なので、遠慮します」
「えっ」
ルカが声を上げた。ミラもまばたきをしている。
「シマ様、今日は休みです」
「業務中っすか、これ」
「業務ではありません。視察です」
「どっちっすか」
「休みです」
「休みなら飲めるっすよね」
「飲みません」
ルカが口を尖らせた。
セレスティアさんが、屋台の主人から受け取った器を両手で持ち、ひと口含んだ。
「わたくしは飲みます。今日はわたくしも休みですから」
「……存じています」
◇
ミラが俺の斜め後ろを歩きながら、栗色の結び目を揺らした。
「シマ様。審問のあとのことを、話してもよろしいでしょうか」
「構いません」
「大司教代理様の預かりになって、私は教会の見習いに戻りました。書庫の掃除と、祭壇の支度と、あとは……写しを配るのを、やめなさいと言われました」
「そうですか」
「はい。でも、やめていません」
ミラは白い法衣の袖を押さえて、声を少し落とした。
「書庫の奥に、同じように授からなかった見習いが3人います。掃除の当番が一緒になる日だけ、こっそり教えています。まだ内緒です」
ルカが振り返った。串の木の柄を口の端に咥えている。
「おいミラ。それ、おれのほうが先っすからね」
「何がですか」
「火を点けたの。おれのほうがずっと前っす」
ミラが立ち止まった。
「ルカさん。それは順番の問題ではありません。ルカさんはシマ様に手順を見てもらって点けたのです。私は、誰にも見てもらわずに点けたのです」
「順番の問題っす」
「ありません」
「あるっす」
セレスティアさんが俺の横で小さく笑った。俺は何も言わずに歩いた。
「先生、どっちっすか」
「点いたかどうかだけを見れば、ルカさんが先です。自分で手順書を書いたかどうかで見れば、ミラさんだけです。比べる項目が違うので、優劣はつきません」
「2人とも、そのくらいになさい。市場の真ん中ですよ」
ルカが口を閉じた。ミラも法衣の袖を直した。だが2人とも、まだ相手の顔を横目で見ている。
俺は手帳を出そうとして、鞄がないことを思い出した。記録は頭の中に置いておく。
『聖光 作業手順書』の写しを3人に教えている。内緒。記録には残さない。残すと、ミラさんの首が絞まる。
市場の東寄り、石畳が少し細くなるところに、その店はあった。屋根から糸を吊るした棚がせり出している。色とりどりの糸巻きが、朝の光を浴びて並んでいる。棚の前で、小柄な白髪の老婆が指を速く動かして糸を巻いていた。
俺の足が、止まった。
ルカが俺の背中にぶつかった。
「どうしたっすか、先生」
「……糸屋です」
ひよりの配信には、手芸の回がある。
老婆が糸巻きをひとつ、棚の奥から出した。
白に近い灰色の糸だ。指の先ほどの巻きで、表面がわずかに濡れたように見える。
「これは月蚕の糸だよ。夜になるとうっすら光るんだ」
老婆の指が糸を繰って、端を俺の前に垂らした。
「引っ張っても切れにくい。子どもの晴れ着に使うのが普通だね。1巻き銀貨2枚」
俺は糸の端を指でつまんだ。軽い。けれど引くと、確かに手応えがある。繊維が均一に撚られていて、太さのばらつきが小さい。工程がいい。
「これを1巻き」
銀貨を2枚、棚の縁に置いた。老婆は糸巻きを紙で包んで、俺に差し出した。
「姪っ子でもいるのかい」
「姪がひとりいます」
セレスティアさんが俺の半歩後ろから、手元に目を落とした。
「姪御さんに?」
「はい。配信のネタにされると思いますが」
俺は紙包みを内ポケットに収めた。
◇
その晩は塔の客員の部屋で寝た。翌日の24日は、朝から手帳を整理した。
夕の鐘が鳴った。
「定時なので、失礼します」
セレスティアさんは窓際の椅子から顔を上げた。
「姪御さんに、よろしく」
「伝えます」
塔の客員の部屋の戸に、鍵を当てて回した。
古い本棚と、段ボールと、埃の匂い。物置だ。
腕時計を見た。10月22日(木)21時24分。
向こうで1日半、こっちで24分。計算は合っている。
◇
10月23日(金)の朝、台所のテーブルには家族が全員そろっていた。
味噌汁の椀を置いた母が、じっと俺の顔を見た。
「恒ちゃん、また老けた?」
「誤差です」
「白髪増えた?」
「親父に似てきたな」
「40だもんな」
「おじさんさあ、前髪の分け目が広がってきてない?」
「前からだ」
父は新聞から目を上げない。
「おう」
俺は味噌汁をひと口飲んで、箸を置いた。それから紙包みを、テーブルのひよりの前に置いた。
「これ、お土産だ」
「え、なに。おじさんがお土産とか、明日は雪じゃん」
「雪は降らない。開けていい」
「待って待って、心の準備が」
そう言いながら、ひよりの指はもう紙を開いている。中から糸巻きを取り出した。
「糸? しかもめっちゃきれいなんだけど。待って、どこの? 手芸屋さん? あの駅前の?」
「違う。仕入れ先の市場だ」
「市場って、あの遠いってやつ?」
「そうだ」
ひよりは糸巻きを窓のほうへかざした。朝日が糸の輪郭をなぞって、灰色がかった白がふわりと浮かぶ。
「これ、手芸配信に使ってもいい?」
「いい。ただし仕入れ先の話はするな」
「分かってる。『おじさんからのお土産』で通す」
◇
10月24日(土)の21時、ひよりの部屋で手芸配信が始まった。
タイトルは『【手芸】刺繍でコースター作る(おじさんのお土産の糸)』。俺は部屋の隅のスツールに座っていた。カメラには映らない位置だ。役目はスイッチ係で、部屋の電気を消すだけの仕事である。
《きた》 《おじさんのお土産ってやつ?》
「そうなの。これ、撚りが均一でさ。引っ張っても全然切れない。めっちゃいい糸」
配信が始まって30分ほどで、コースターの刺繍は終盤に入った。白い木綿の布に、灰色の糸で小さな花が3つ並んでいる。
「よし。できた。で、ここからが本番」
ひよりはコースターを机の中央に置いた。それから俺のほうを振り返った。
「おじさん、電気消して」
俺は壁のスイッチを押した。パチン、と音がして部屋が暗くなる。
コースターに刺繍した糸が、光っていた。
花びらの輪郭がうっすらと白く浮かんでいる。3つの花が、それぞれ同じ強さで光っている。ばらつきがない。
「待って、これ光ってるんだけど」
《え?》 《光ってる》 《蓄光?》 《切れなくない?》 《素材は?》
「おじさん、これ蓄光なの?」
「さあ。夜に光ると店の人が言っていた」
コメント欄が一気に流れ始めた。
《繊維メーカー勤務です。蓄光糸はこんな色にならない》 《絹は光らないよ》
「あー、えっとね。これ、おじさんのお土産なの」
ひよりはそれだけ言って、コースターをカメラの前に寄せた。布の上にだけ、薄い月明かりが落ちているような見え方だ。
《おじさんどこで買ったの》 《品質管理のおじさんが選ぶとこうなるのか》
コースターの上の花は、まだ光っている。消える気配がない。
配信を切ったひよりは、チャンネルの管理画面を開いた。
「……え。待って。おじさん、これ」
俺はスツールから立ち上がって、ひよりの背後から画面を覗き込んだ。
登録者数が、15万から20万に変わっていた。
「20万いった。待って待って、なんで」
「そうか」
「そうかじゃないでしょ」
ひよりは笑いながら、コメント欄を指で流していく。その指が、ぴたりと止まった。
「……おじさん」
「なんだ」
ひよりがスマホを俺のほうに向けた。画面の一番上に、新着メッセージの通知が1件浮かんでいる。チャンネル宛てのDMだ。
『Helix Inc. 日本法人のエヴァ・ローレンスと申します。志摩恒一様に、面会のお願いです』
ひよりが、ゆっくりと俺の顔を見上げる。
「……おじさん、なんでこの人、おじさんの名前知ってんの」




